今回は山県有朋を取り上げるぞ。幕末の長州藩出身で軍人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は勤皇佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、山県有朋について5分でわかるようにまとめた。

1-1、山県有朋は長州の生まれ

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山県有朋(やまがたありとも)は、天保9年(1838年) 長州萩城下川島村(現在の山口県萩市川島)で誕生。父山県三郎有稔と母、長州藩士岡治助の娘松子の2男として誕生。きょうだいは姉の寿子ひとり。幼名は辰之助、小助(こすけ)、小輔(こすけ)で、のちに文久2年(1862年)頃、狂介と改名し、明治後に有朋に。

1-2、有朋の子供時代

有朋の父は長州藩の手小役(てこやく)と呼ばれる雑用係で蔵元附中間(ちゅうげん足軽より低い身分)で、母は有朋が5歳の時に亡くなり、祖母に育てられたそう。尚、父は万延2年(1861年)に亡くなり、祖母も元治2年(1865年)に有朋が志士活動中に足手まといにならないために投身自殺など、家庭的に恵まれなかったということ。

1-3、有朋、槍の使い手に

そして嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船の来航の年に15歳で元服して手小役として藩に出仕。蔵元両人所、ついで明倫館の手子役、そして代官所の手子役として長州藩内の農村を回って実務を学んだそう。その後は御徒目付の家来の横目役に就任。

有朋は、勉学を和歌や国学に傾倒していたという父に習ったが、勉強は好きでなかったようで、少年期から槍術を習い、23歳頃には宝蔵院流の槍の使い手として藩内で知られていたそう。そして友人の杉山松助らに松下村塾の入塾を勧められたときも、「吾は文学の士ならず」と一度は辞退したということ。

2-1、有朋、松下村塾へ入門

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安政5年(1858年)7月、有朋は時勢を学ぶために長州藩から6人の若者が京都に派遣されることになり、派遣された6名のうち、4人が旧知の杉山松助と伊藤俊輔(博文)ら松下村塾の塾生だったため、感化を受けたよう。尚、有朋が選ばれたのは杉山松助が吉田松陰に推薦したためということ。

有朋は、京都では尊王攘夷派の大物となった久坂玄瑞や梁川星巌、梅田雲浜らの影響を受けて尊皇攘夷思想をいだき、10月の帰藩後に、久坂玄端の紹介で松下村塾に入門。吉田松陰と出会い、生涯師と仰ぎ続けることになったが、わずか1カ月後、松陰先生は謹慎となり刑死。有朋は横目(警察官的役割をする下役人)として、万延元年(1860年)、薩摩藩の動向を探るために書状の届け役として薩摩に潜入したが、警戒が厳しく薩摩弁が理解できずと、役目を果たせなかったそう。

2-2、松下村塾では棒きれだった

松下村塾の英才と言われた吉田稔麿(としまろ)は人物評が好きだったということで、裃を付け端然と座っている坊主(久坂玄瑞)鼻輪のない暴れ牛(高杉晋作)木刀(入江九一)、隅にただの棒きれ(山県有朋)。という絵を描いた話は有名。

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2-3、有朋、奇兵隊へ

文久3年(1863年)1月、有朋は尊皇攘夷の正義をわきまえているとして終身の士分に昇格。2月に京都へ行き、滞在中の高杉晋作と親しくなったが、リューマチを患って一時療養。9月頃、高杉が創設した奇兵隊に関与、高杉が上海に行っている留守の間、高杉は有朋に自分の代行を命じたほど評価していたよう。

そして12月末に3代目奇兵隊総管の赤禰武人のもとで、副官の奇兵隊軍監と壇ノ浦支営の司令に就任、兵隊訓練と壇ノ浦警備を務めていて京都の禁門の変には参加しなかったそう。有朋は元治元年(1864年))の四国連合艦隊との交戦で負傷し、最新兵器の導入と兵制改革の必要性を痛感したために尊王攘夷論から開国論に転向、また慶応元年(1865年)、長州藩の俗論派(佐幕派)と功山寺で挙兵した高杉晋作の正義派(倒幕派)の大田、絵堂の戦いでは、あとから正義派に奇兵隊軍監として参戦し、正義派の勝利に貢献。

慶応2年(1866年)には奇兵隊の4代目総督山内梅三郎の下についていたが、高杉とともに実権を握って小倉城を攻略したということ。有朋は以後、帰藩した木戸孝允の配下となって慶応3年(1867年)4月に亡くなった高杉の葬儀後に上洛、薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆らと交流、島津久光や家老小松帯刀とも面会して倒幕のための挙兵、連携計画を打ち合わせて6月に帰藩。その後は一時病気となり軍監を免じられた時期も。尚、この頃に有朋は大庄屋の娘と結婚、のちに7人の子供をもうけたが、次女一人しか育たなかったということ。

3-1、戊辰戦争での有朋

明治元年(1868年)の戊辰戦争で有朋は、奇兵隊を率いて北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、長岡藩との攻略戦で河井継之助らと戦ったが苦戦、後に会津攻略にも参加したということ。明治2年(1869年)には維新の功で600石を賜ったそう。

3-2、有朋、渡欧して軍事制度を視察

明治2年(1869年)有朋は、西郷隆盛の弟従道とともに渡欧、各国の軍事制度、フランスやドイツの徴兵制度などを視察して翌年帰国。そして暗殺された大村益次郎のあとを継いで兵部省の実質的なトップとなり、軍制改革を行って徴兵制に移行

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3-3、有朋、山城屋事件にかかわる

山城屋事件は、明治5年(1872年)、留守政府体制下で発覚した疑獄事件のことで、長州藩の御用商人で奇兵隊では有朋の部下だった山城屋和助が、有朋から陸軍症の公金を使った多額の不正融資を受けていたことが発覚、政治問題に。陸軍省内では陸軍大輔だった有朋の排斥運動が勃発し、有朋は辞表を提出

山城屋和助は陸軍省の応接室で割腹自殺を遂げ、その際に証拠の関係書類も焼き捨てたので事件の真相は解明されず。有朋は一時的に失脚し、司法省の調べはその後も行われたが、西郷隆盛が有朋をかばったためと人材不足のために、翌年に陸軍卿として復帰したということ。

3-4、有朋、日本陸軍の基礎を作り西南戦争でも総指揮を

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TukiokaYositoshi(1839-1892) - The ukiyoe "Kagoshima boto syutuzinzu" (an original print ), パブリック・ドメイン, リンクによる

有朋は明治6年(1873年)に陸軍卿に就任、参謀本部の設置や軍人勅諭の制定に深く関わり、日本陸軍の基礎を確立。そして明治10年(1877年)には西南戦争が勃発。有朋は陸軍卿兼任で現場総指揮官の参軍に就任して官軍の総指揮を執り、電信を整備しての情報の最速化、武力などでも圧倒して薩摩軍の鎮圧に成功したということ。

有朋は、明治11年(1878年)、参謀本部、監軍本部を設置して、参謀本部を陸軍省から独立である統帥権の独立を進め、軍備、人事、予算など軍事に関する行政の軍政と、統帥権の軍令の区別を明らかにして、天皇制軍隊の組織の建設に尽力。また西周らによる軍人訓誡や、軍人勅諭を発布して、内面からも忠君愛国の精神を軍人に注いだそう。有朋は、以後、明治16年(1883年)に内務卿になるまで、陸軍の枢要ポストを歴任し、明治23年(1890年)6月には、西郷隆盛以来の陸軍大将に昇進。

3-5、政治家としての有朋

明治14年(1881年)国会開設の詔勅が発令、立憲制度調査のために伊藤博文が欧州に派遣され、有朋は長州閥として参事院議長に就任。その後、明治16年(1883年)に内務卿に就任、地方自治の整備を行い、政治家として手腕を発揮するように。尚、内務卿は、明治18年(1885年)に内閣制となって、第一次伊藤内閣が発足するまで首相と同格のポスト。

実質的に日本の政界のトップとなった有朋は、その権力で日本陸軍を近代化し、富国強兵策を強力に推し進めたということ。このために政党政治に対する軍閥の発言力が強化し、昭和初期の軍部の暴走を招くことにつながったそう。

有朋は、明治18年(1885年)第一次伊藤内閣が発足すると内務大臣となり、地方自治の形成に尽力、市制、町村制、府県制、郡制を制定。明治33年(1900年)、治安警察法を公布するなど全国を包括する中央集権的警察制度の実現にも努め、2度の総理大臣も経験し、枢密院議長にも就任。元老として、また山県閥といわれる軍や政治家にまたがる派閥のトップとして、最晩年に至るまで政府や軍に絶大な影響力を持ったということ。明治42年(1909年)伊藤博文が暗殺された後は、軍と政界の頂点となり発言力も大きくなったが、反感も持たれたそう。

3-6、宮中某重大事件に関わり、失意で終わった晩年の有朋

大正9年(1919年)、有朋はスペインかぜに罹患するが回復。その後、宮中某重大事件で有朋の権威はがた落ちとなり、首相原敬暗殺事件が起って原の喪失を嘆いたためか、大正11年(1922年)2月1日に、失意のうちに肺炎のために85歳で死去。

2月9日に日比谷公園で国葬が営まれたが、1か月前に行われた大隈重信の「国民葬」に多数の民衆が集まったのと比較すると、空席も多く閑散としていたそう。

宮中某重大事件とは
大正10年(1921年)、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)妃に内定した久邇宮良子女王(後の香淳皇后)が、家系に色盲の遺伝があるという理由で山県有朋らが良子女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、病中の大正天皇の代わりに家長待遇だった貞明皇后や皇族ら、元老の松方正義、西園寺公望らはこれに反対し、最終的に皇太子裕仁親王の決断で婚約破棄にならなかったため、有朋の権威は失墜。

4-1、有朋の逸話

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不明 - http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/library/ishin/shouin/image/middle/0755017.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

色々な逸話があります。

4-2、意外に風雅を好み、造園好きだった

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Oilstreet - Oilstreet, CC 表示 2.5, リンクによる

有朋は父の影響で和歌を詠み、漢詩、仕舞、書を好んだそう。茶人として普請道楽、造園を好んだことも有名で、今に残る東京の椿山荘京都の無鄰菴小田原の古稀庵庭園は、有朋が自ら想を練って岩本勝五郎や近代庭園の先覚者として知られる7代目小川治兵衛に築かせたということ。

そして明治18年(1885年)1月、有朋は内務大臣のとき、京都府知事北垣国道に疏水起工特許を下し5年後の琵琶湖疏水竣工式に出席と、琵琶湖疏水事業推進に関わりがあったために、琵琶湖疏水のほとりの別荘無鄰菴建築の際、疏水の水が流れ込む有名な庭池が作れたのではと言われているそう。

4-3、鹿鳴館時代に奇兵隊の扮装

明治20年(1887)4月20日、ダンス大好きの伊藤博文が首相官邸で仮装パーティを開催したとき、伊藤博文はヴェニスの商人に扮したが、有朋は奇兵隊時代の扮装で登場して周りをどん引きさせたそう。

\次のページで「4-4、山県閥と言われる派閥を形成」を解説!/

4-4、山県閥と言われる派閥を形成

有朋は気に入った人は一生面倒見るたちだったため、有朋に才能を見込まれた軍人や官僚を要職に就けることで人脈作りになったということ。長州藩出身者、陸軍出身者の他、有朋は官僚制度を確立し、文官試験制度を創設、後進育成に尽力して、さらに幅広い人脈を有することになり、「山県閥」と称される派閥を形成し、政府内や陸軍に最晩年まで大きな影響を保ったということ。

4-5、日清、日露戦争での有朋

有朋は、明治27年(1894年)7月から始まった日清戦争では、枢密院議長として大本営のメンバーだったが、56歳にもかかわらず戦地に赴くことを希望、第一軍司令官の内命を受けて、9月8日に宇品港を出向して朝鮮半島に向かい、「敵国は極めて残忍の性を有す。生擒となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と、捕虜になるより死を選べと訓示したという話もあったそう。しかし有朋は体調を崩したことが明治天皇に伝わり、勅命で帰国したということ。

明治37年(1904年)の日露戦争時、有朋は満州軍総司令官の地位を強く望んだが、明治天皇が、不適任とは思わないが、あまりにも細かくて鋭い指導をするために軍司令官たちが歓迎しないということで、大山巌を起用し、有朋は参謀総長に就任。

4-6、明治天皇らの有朋評は

明治天皇は、「伊藤博文は才智あれども時々変説あり、最後までやり通せない。山県有朋は短慮で怒りっぽい」と批評されたそうで、晩年には明らかに有朋を煙たがり、伊藤博文の歿後、桂太郎が枢密院議長の後任に山県を推薦したときも、なかなか認められなかったということ。

また大正天皇は有朋を人間的に嫌っていたらしく、有朋が参内したときは側近くにある物を片端から下賜し、さっさと追い払おうとされたという話もあるそう。

エリート松下村塾では目立たず、生き残って軍人となり出世、長生きしすぎて悪役に

山県有朋は長州藩の低い身分の武士の家に生まれたが、あの吉田松陰先生の松下村塾で短期間学んだことで運が開け、高杉晋作の後釜として奇兵隊を率い、戊辰戦争でも活躍。明治後は欧州視察も行って大日本帝国陸軍創始に尽力、長州閥をバックに汚職事件も乗り越えて陸軍大将として君臨し、総理大臣まで務めた人。

しかしあの松下村塾での錚々たる連中に較べ、ただの棒きれと称され、本当に優秀な志士たちは早死にし、この程度でも明治後に出世できたとか、汚職事件のダークなイメージも付きまとい、それになんといってもその後の日本の軍国主義路線を作ったというのは汚点中の汚点だし、極めつけは最晩年の宮中某重大事件で当時の皇太子の婚約者にいちゃもんを付けたという、悪いイメージばかりで悪役として扱われてきたということ。

しかし太平洋戦争後すでに70年を超える現代では、戦前の軍国主義の暗い時代を全否定する世代もいなくなったせいか、有朋もリアリストであるとか意外に有能であるとか、ダークで無能なイメージを払拭して冷静に功績が見直され再研究、再評価されているそうで、歴史って時代によって評価が変わる生きものなんだと改めて思った次第です。

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幕末日本史明治明治維新歴史江戸時代

奇兵隊出身の長州閥で明治の元老「山県有朋」をわかりやすく歴女が解説

今回は山県有朋を取り上げるぞ。幕末の長州藩出身で軍人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は勤皇佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、山県有朋について5分でわかるようにまとめた。

1-1、山県有朋は長州の生まれ

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山県有朋(やまがたありとも)は、天保9年(1838年) 長州萩城下川島村(現在の山口県萩市川島)で誕生。父山県三郎有稔と母、長州藩士岡治助の娘松子の2男として誕生。きょうだいは姉の寿子ひとり。幼名は辰之助、小助(こすけ)、小輔(こすけ)で、のちに文久2年(1862年)頃、狂介と改名し、明治後に有朋に。

1-2、有朋の子供時代

有朋の父は長州藩の手小役(てこやく)と呼ばれる雑用係で蔵元附中間(ちゅうげん足軽より低い身分)で、母は有朋が5歳の時に亡くなり、祖母に育てられたそう。尚、父は万延2年(1861年)に亡くなり、祖母も元治2年(1865年)に有朋が志士活動中に足手まといにならないために投身自殺など、家庭的に恵まれなかったということ。

1-3、有朋、槍の使い手に

そして嘉永6年(1853年)、ペリーの黒船の来航の年に15歳で元服して手小役として藩に出仕。蔵元両人所、ついで明倫館の手子役、そして代官所の手子役として長州藩内の農村を回って実務を学んだそう。その後は御徒目付の家来の横目役に就任。

有朋は、勉学を和歌や国学に傾倒していたという父に習ったが、勉強は好きでなかったようで、少年期から槍術を習い、23歳頃には宝蔵院流の槍の使い手として藩内で知られていたそう。そして友人の杉山松助らに松下村塾の入塾を勧められたときも、「吾は文学の士ならず」と一度は辞退したということ。

2-1、有朋、松下村塾へ入門

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安政5年(1858年)7月、有朋は時勢を学ぶために長州藩から6人の若者が京都に派遣されることになり、派遣された6名のうち、4人が旧知の杉山松助と伊藤俊輔(博文)ら松下村塾の塾生だったため、感化を受けたよう。尚、有朋が選ばれたのは杉山松助が吉田松陰に推薦したためということ。

有朋は、京都では尊王攘夷派の大物となった久坂玄瑞や梁川星巌、梅田雲浜らの影響を受けて尊皇攘夷思想をいだき、10月の帰藩後に、久坂玄端の紹介で松下村塾に入門。吉田松陰と出会い、生涯師と仰ぎ続けることになったが、わずか1カ月後、松陰先生は謹慎となり刑死。有朋は横目(警察官的役割をする下役人)として、万延元年(1860年)、薩摩藩の動向を探るために書状の届け役として薩摩に潜入したが、警戒が厳しく薩摩弁が理解できずと、役目を果たせなかったそう。

2-2、松下村塾では棒きれだった

松下村塾の英才と言われた吉田稔麿(としまろ)は人物評が好きだったということで、裃を付け端然と座っている坊主(久坂玄瑞)鼻輪のない暴れ牛(高杉晋作)木刀(入江九一)、隅にただの棒きれ(山県有朋)。という絵を描いた話は有名。

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