今回は江藤新平を取り上げるぞ。明治の佐賀の乱で有名なんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末から明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末から明治時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、江藤新平について5分でわかるようにまとめた。

1-1、江藤新平は佐賀の生まれ

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江藤新平(えとうしんぺい)は天保5年(1834年)2月、肥前国佐賀郡八戸村(現佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩士の父江藤胤光と母浅子の長男として誕生。きょうだいは弟源作。

幼名は恒太郎、又蔵で、諱は胤雄、胤風、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。

1-2、新平の子供時代

新平の先祖は肥前小城郡晴気保の地頭で九州千葉氏の遠祖である千葉常胤ということだが、江藤家は佐賀藩では「手明槍(てあきやり)」という、足軽に近いかなり低い身分の下級武士。新平は極貧のなかで、漢学の素養のあった母のもとで幼いころから弟とともに四書五経を学んだそう。

そして、嘉永元年(1848年)に15歳で元服して胤雄(たねお)と名乗り、藩校の弘道館へ入学、内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が、職務怠慢の咎で郡目付役を解職、永蟄居の処分を受けたため、生活はさらに困窮して外生課程に進学できず。副島種臣の兄で、儒学、国学者、昌平黌(しょうへいこう)出身の枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響されたそう。このころ新平は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」が口癖だったということ。嘉永3年(1850年)に枝吉神陽が「義祭同盟」を結成したときは、新平も副島種臣、大隈重信、大木喬任、島義勇らとともに参加。

1-3、新平、蘭学を学び、「図海策」を起草

嘉永7年(1854年)、新平は藩命で城下に新設された蘭学校で蘭学を学び、蘭書から欧米の社会制度や技術水準の高さを知ったということ。

安政3年(1856)9月、江藤は23歳で「図海策」という意見書を起草。形勢、招才、通商、拓北の四章からなる長文で、形勢の章では、攘夷論は無謀だと指摘、通商の章では、まず開国して欧米諸国と通商を盛んにして国が富むことが重要と指摘し、国際社会に積極的に参加して国際正義を貫き、他国から敬服される国になるべきと解き、招才の章では人材登用が重要、拓北の章では経済的利益だけでなくロシアからの防衛のため蝦夷地(北海道)開拓をと提言。尚、新平はこの翌年、従妹の江口千代子と結婚。

1-4、新平、佐賀藩を脱藩

幕末の尊王攘夷運動が高まり、義祭同盟の面々のなかにも呼応する動きが出るように。京では、脱藩した副島種臣が王政復古論を唱え、有力公卿に建言し、江戸の昌平黌に留学中の中野万蔵は、儒学者で尊王論者の大橋訥庵(とつあん)に師事して大政奉還論を唱えていたが、文久2年(1862年)正月、坂下門外の変が勃発、事件の首謀者として大橋訥庵が投獄され関係者の中野万蔵も投獄後、獄死。

知らせを受け、新平は脱藩を決意。新平は自分で情報得て、藩論を「尊王倒幕」にするのが目的で、老公の鍋島閑叟(かんそう)の上洛を促そうとしたということ。文久2年(1862年)6月、29歳の新平は大木喬任に旅費を工面してもらい脱藩して京へ

1-5、新平の志士活動

新平は中野万蔵の友人だった久坂玄端に会うべく河原町二条の長州藩邸を訪ねたが、久坂は不在だったため、代わりに桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(博文)に会ったということ。鎖国状態の佐賀藩脱藩者は珍しい存在だったため、桂は新平に関心を抱いて話を聞き、黒豆と呼ばれていた急進攘夷派の公卿姉小路公知(きんとも)卿に会わせてくれたそう。

1-6、新平、佐賀に帰藩

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川崎道民 - (財)鍋島報效会 [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

新平は約3か月の京の滞在で、桂小五郎(木戸孝允)らに会ったことが後々人脈に。そして京で見聞きした事を「京都見聞」として記録し、佐賀に帰って藩の同志らに見せ、さらに新平の身分から言えば雲の上の存在の藩主の父老公鍋島閑叟(かんそう)に届けばと願ったということ。

幕末の佐賀藩は老公鍋島閑叟のもとで独裁政治が行われ、他藩との交流は禁止。なので逆に新平の報告が貴重だったようで、普通ならば脱藩は死罪だったが、「京都見聞」を読んだ閑叟が新平を他日有用の器であるとし、藩主閑叟直々の判断で、文久3年(1863年)8月、永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減。新平は蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士と密かに交流、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では老公閑叟への献言を行ったということ。

2-1、新平、京都に派遣され、戊辰戦争に参加

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そして4年後の慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅、12月に新平は蟄居を解除され、郡目付として復帰。薩摩藩と長州藩は暗殺された中岡慎太郎の仲介で公家の岩倉具視と結び、慶応3年(1867年)12月9日、王政復古の大号令を行い新政府が誕生。

佐賀藩も閑叟の判断で官軍側に参加することになり、新平は副島種臣とともに京都に派遣。新政府の要人となった三条実美や岩倉具視らと会ったところ、新平の情勢分析の鋭さ、知識の幅広さが評価されたということ。新政府軍は武器も人員も軍資金も足りない状態だったので佐賀藩の参加は歓迎され、戊辰戦争では新平は東征大総督府軍監に任命、土佐藩士の小笠原唯八と江戸へ偵察。そして薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸無血開城が決定後、新平は江戸城内の文書類を接収することに。

その後は京都へ戻って、大木喬任と連名で岩倉具視に江戸を東京と改称すべき(東京奠都)と献言。そして江戸では旧幕臣らが中心になった彰義隊が活動、これに対して新平は長州の大村益次郎らとともに討伐を主張、上野戦争では軍監として参加。彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、佐賀藩所有のアームストロング砲を遠方射撃する戦術を駆使して勝利に貢献。新平は明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄100石を賜ったということ。

2-2、新平、明治新政府の官吏に

戊辰戦争が一段落した後、新平は新政府が設置した江戸鎮台で、長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命されて、民政や会計、財政、都市問題などを担当。明治2年(1869年)7月、明治天皇が江戸へ行幸、江戸は東京と改称。

明治3年(1870年)1月、新平は佐賀に帰郷して準家老にあたる着座に就任し、藩政改革を行ったが、すぐに人員不足の中央政府に呼び戻されて同年11月に太政官中弁に就任。12月、虎ノ門で新平の藩政改革に不満だった佐賀藩の卒族に襲撃され、負傷したが回復。明治4年(1871年)2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言岩倉具視に対して30項目の答申書を提出。

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2-3、新平、司法卿に就任し司法制度を整備

明治4年(1871年)、文部大輔や司法省などが設置され、新平は明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。そして近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組むように。

新平は「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」「誤訳も妨げず、速訳せよ」とフランスの法制度を高く評価。当時、普仏戦争でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒めたほどで、四民平等、学制の基礎固め、警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務定制、裁判所建設、民法編纂、国法編纂など)に功績を残したということで、新平は政府内における急進的な民権論者といわれたそう。

2-4、新平、汚職事件を厳しく追及

新平は司法卿として官吏の汚職に厳しく対応、新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件なども容赦なく追及して、予算を巡る対立も絡んで2人を一時的に辞職に追い込んだということ。

そういうわけで、イギリス、フランスを模範とした三権分立の導入を進める新平に対し、政府内の保守派は行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持っていたために、プロイセン王国(のちドイツ帝国)を模範とすべきと激しく対立、また新平の早急な裁判所網の整備が財政的に負担になったことなどもあり、大蔵省の井上馨と確執があったそう。

2-5、薩長閥との対立

新政府は、とにかく財政難、士族の不満、不平等条約の改正などを問題山積で、欧米各国に追いつこうと近代化を目指し、法の整備からなにから早急な対処が求められたため、矢継ぎ早に改革が行われたので、多くの混乱を生み出し、不満続出だったということ。なかでも四民平等、徴兵制の導入などで武士の特権を失い、収入もなくなった士族は新政府に強い反感を抱き爆発寸前。

こういった状況で、明治6年(1873年)に韓国との外交問題(征韓論)をめぐって政府内で意見が対立。欧米列強との関係構築を優先する大久保利通、木戸孝允ら西欧使節団派遣組に対し、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らの留守番組は、まず隣国の韓国を抑えておくことが必要と主張。江藤が西郷側に付いた背景は、新政府内の大きな力を保持する薩長勢力に痛撃を浴びせる狙いもあったということだが、大久保利通の狡猾な政治手腕の前に敗北し、論争に敗れた西郷、江藤、板垣らは政権から去り、下野することに。

3-1、新平、官を辞して下野

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

明治6年(1873年)、朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変が勃発。新平は、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣と共に10月24日に下野したのち、明治7年(1874年)1月10日に愛国公党を結成、1月12日に民撰議院設立建白書に署名して佐賀への帰郷を決意

しかし大隈重信、板垣退助、後藤象二郎らは、江藤の佐賀への帰郷が大久保利通の術策にはまると見越していたため新平慰留を説得したが、新平は説得に耳を貸さず、1月13日に船便で九州へ向かい、2月2日に長崎へ落ち着いてしばらく様子見に。

そして大久保は、新平が佐賀へ帰ったという知らせを聞いた1月13日には、まだ佐賀では武装蜂起もしていないというのに佐賀討伐のための総帥となるため宮中に参内して、2月5日に佐賀に対する追討令を受けるなど準備万端に。

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3-2、新平、佐賀の乱の首領として擁立

新平は明治7年(1874年)2月11日、佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談し翌日には佐賀征韓党首領として擁立されたということ。そして政治的主張の全く異なった征韓党と憂国党が共同して反乱を計画。2月16日夜、憂国党が武装蜂起、士族反乱の佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発。佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村高俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、約半数に損害を与えて遁走させたそう。

3-3、佐賀の乱勃発、新平捕縛される

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

そして戊辰戦争でも官軍を率いなかった大久保利通が、東京、大阪の鎮台部隊を率いて九州に到着。佐賀軍は福岡との県境へすすんで政府軍を迎え撃つことに。政府軍と佐賀軍は激戦を展開したが、戊辰戦争後は最新兵器をすべて政府に上納した佐賀軍は、政府軍の強力な火力の前に敗走

新平は征韓党を解散して逃亡し、鹿児島へ向かって、3月1日、鹿児島鰻温泉で湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを説得したが断られ、飫肥の小倉処平の救けで四国の高知へ行き、3月25日、高知の林有造、片岡健吉を訪ね武装蜂起を説いたが、断られたそう。

そして新平は、岩倉具視へ直接意見陳述をするために上京を試みたが、その途中、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還されたということ。このときは、新平の手配写真が決め手となって捕らえられたが、この写真手配制度は明治5年(1872年)に新平が司法卿時代に確立したもので、皮肉にも制定者の新平本人が被適用者第1号となったということ。

3-4、暗黒裁判と新平の最期

新平は、東京で裁判が行われて弁明の機会が与えられると考えていましたが、大久保がそうさせまいと手を回したため、佐賀に臨時裁判所が設けられて審理が行われることに。それも4月7日に佐賀に護送され、翌日と翌々日の2日間の審理で判決が言い渡され、即日処刑というスピード裁判新平と島は斬首のうえ梟首(きゅうしゅ、さらし首のこと)、他に首謀者と見られた11名が斬首に。

新平が司法卿時代に定めた改定律例では梟首は禁止されたはずが、どうしても新平の極刑で他士族の反乱を抑えたいこと、また大久保はそれまでの新平との政府内の対立で新平を文字通り抹殺したい気持ちがあったということで、大久保の思惑通りの判決を下す裁判官を千円で募集したと噂が立ったほど。大久保が新平に弁明の機会も与えず上訴も認めないという、最初から判決が決まっていた暗黒裁判を行ったと言われています。

福沢諭吉も、その著書「丁丑公論(ていちゅうこうろん)」で、この裁判の在り方を痛烈に批判。尚、大久保は「大久保日記」で、梟首という判決に驚いた江藤が腰を抜かして醜態をあらわにしたということで、「江藤醜体笑止なり」と書き残したということ。

実際は、新平は判決を受けたとき「裁判長、私は」と反論しようとして立ち上がろうとしたところを、止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだのだが、悪意を持って「気が動転し腰を抜かした」と解釈されたという話。また新平は司法省時代の部下だった河野敏鎌に裁かれることになったが、河野は新平を取り調べ、釈明の機会も十分に与えず死刑を宣告。訊問に際し敏鎌は新平を恫喝したが、新平に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝されて震え上がり以後は審理に加わらなかったという話もあるということ。

4月13日、新平は河野により除族の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に嘉瀬刑場において41歳で処刑、嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首。

辞世は、「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」
明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれ、大正5年(1916年)4月、正四位を送られて名誉回復。

日本の司法制度確立に尽力し、藩閥に立ち向かって敗れた佐賀人

江藤新平は、鎖国の日本の中でも鎖国していたという佐賀藩の下級武士の生まれで困窮のうちに育ったが、文久2年(1863年)に脱藩して京都で3か月志士活動したおかげで木戸孝允にコネが出来、またそのときの「京都見聞」が藩公に認められたことが、佐賀藩が戊辰戦争に参加後に生きてきて、官軍で役目を果たして新政府で役職に就いた人。

新平は洋行経験がないものの、洋行経験者の話や翻訳所からの知識を生かして新政府の司法制度を立ち上げるのに尽力、また藩閥が諸悪の根源の汚職にも毅然とした対応をしたということ。

しかし新平本人の権勢欲ではなく正義感と薩摩と長州の藩閥を憎む気持ち、四民平等と三権分立の民主主義を推し進めようとする、まっすぐすぎるアスペルガー症候群的姿勢が、独裁体制で近代化を推し進めたい大久保利通に危険分子と見なされたよう。征韓論で下野後、友人たちが止めるのも聞かず佐賀に帰って士族をなだめるはずが乱の首謀者にまつりあげられ、大久保の術中にはまった如く敗戦後は暗黒裁判で斬首、梟首という極刑に。
新平はたった6年足らずで日本の司法制度の基礎に貢献、我が国の近代司法制度の生みの親となったのは、やはりかなり有能だったということでは。

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幕末日本史歴史江戸時代

佐賀の乱の首謀者となった「江藤新平」をわかりやすく歴女が解説

今回は江藤新平を取り上げるぞ。明治の佐賀の乱で有名なんだっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末から明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末から明治時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、江藤新平について5分でわかるようにまとめた。

1-1、江藤新平は佐賀の生まれ

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江藤新平(えとうしんぺい)は天保5年(1834年)2月、肥前国佐賀郡八戸村(現佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩士の父江藤胤光と母浅子の長男として誕生。きょうだいは弟源作。

幼名は恒太郎、又蔵で、諱は胤雄、胤風、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。

1-2、新平の子供時代

新平の先祖は肥前小城郡晴気保の地頭で九州千葉氏の遠祖である千葉常胤ということだが、江藤家は佐賀藩では「手明槍(てあきやり)」という、足軽に近いかなり低い身分の下級武士。新平は極貧のなかで、漢学の素養のあった母のもとで幼いころから弟とともに四書五経を学んだそう。

そして、嘉永元年(1848年)に15歳で元服して胤雄(たねお)と名乗り、藩校の弘道館へ入学、内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が、職務怠慢の咎で郡目付役を解職、永蟄居の処分を受けたため、生活はさらに困窮して外生課程に進学できず。副島種臣の兄で、儒学、国学者、昌平黌(しょうへいこう)出身の枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響されたそう。このころ新平は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」が口癖だったということ。嘉永3年(1850年)に枝吉神陽が「義祭同盟」を結成したときは、新平も副島種臣、大隈重信、大木喬任、島義勇らとともに参加。

1-3、新平、蘭学を学び、「図海策」を起草

嘉永7年(1854年)、新平は藩命で城下に新設された蘭学校で蘭学を学び、蘭書から欧米の社会制度や技術水準の高さを知ったということ。

安政3年(1856)9月、江藤は23歳で「図海策」という意見書を起草。形勢、招才、通商、拓北の四章からなる長文で、形勢の章では、攘夷論は無謀だと指摘、通商の章では、まず開国して欧米諸国と通商を盛んにして国が富むことが重要と指摘し、国際社会に積極的に参加して国際正義を貫き、他国から敬服される国になるべきと解き、招才の章では人材登用が重要、拓北の章では経済的利益だけでなくロシアからの防衛のため蝦夷地(北海道)開拓をと提言。尚、新平はこの翌年、従妹の江口千代子と結婚。

1-4、新平、佐賀藩を脱藩

幕末の尊王攘夷運動が高まり、義祭同盟の面々のなかにも呼応する動きが出るように。京では、脱藩した副島種臣が王政復古論を唱え、有力公卿に建言し、江戸の昌平黌に留学中の中野万蔵は、儒学者で尊王論者の大橋訥庵(とつあん)に師事して大政奉還論を唱えていたが、文久2年(1862年)正月、坂下門外の変が勃発、事件の首謀者として大橋訥庵が投獄され関係者の中野万蔵も投獄後、獄死。

知らせを受け、新平は脱藩を決意。新平は自分で情報得て、藩論を「尊王倒幕」にするのが目的で、老公の鍋島閑叟(かんそう)の上洛を促そうとしたということ。文久2年(1862年)6月、29歳の新平は大木喬任に旅費を工面してもらい脱藩して京へ

1-5、新平の志士活動

新平は中野万蔵の友人だった久坂玄端に会うべく河原町二条の長州藩邸を訪ねたが、久坂は不在だったため、代わりに桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(博文)に会ったということ。鎖国状態の佐賀藩脱藩者は珍しい存在だったため、桂は新平に関心を抱いて話を聞き、黒豆と呼ばれていた急進攘夷派の公卿姉小路公知(きんとも)卿に会わせてくれたそう。

1-6、新平、佐賀に帰藩

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川崎道民 – (財)鍋島報效会 [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

新平は約3か月の京の滞在で、桂小五郎(木戸孝允)らに会ったことが後々人脈に。そして京で見聞きした事を「京都見聞」として記録し、佐賀に帰って藩の同志らに見せ、さらに新平の身分から言えば雲の上の存在の藩主の父老公鍋島閑叟(かんそう)に届けばと願ったということ。

幕末の佐賀藩は老公鍋島閑叟のもとで独裁政治が行われ、他藩との交流は禁止。なので逆に新平の報告が貴重だったようで、普通ならば脱藩は死罪だったが、「京都見聞」を読んだ閑叟が新平を他日有用の器であるとし、藩主閑叟直々の判断で、文久3年(1863年)8月、永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減。新平は蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士と密かに交流、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では老公閑叟への献言を行ったということ。

2-1、新平、京都に派遣され、戊辰戦争に参加

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そして4年後の慶応3年(1867年)、15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅、12月に新平は蟄居を解除され、郡目付として復帰。薩摩藩と長州藩は暗殺された中岡慎太郎の仲介で公家の岩倉具視と結び、慶応3年(1867年)12月9日、王政復古の大号令を行い新政府が誕生。

佐賀藩も閑叟の判断で官軍側に参加することになり、新平は副島種臣とともに京都に派遣。新政府の要人となった三条実美や岩倉具視らと会ったところ、新平の情勢分析の鋭さ、知識の幅広さが評価されたということ。新政府軍は武器も人員も軍資金も足りない状態だったので佐賀藩の参加は歓迎され、戊辰戦争では新平は東征大総督府軍監に任命、土佐藩士の小笠原唯八と江戸へ偵察。そして薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸無血開城が決定後、新平は江戸城内の文書類を接収することに。

その後は京都へ戻って、大木喬任と連名で岩倉具視に江戸を東京と改称すべき(東京奠都)と献言。そして江戸では旧幕臣らが中心になった彰義隊が活動、これに対して新平は長州の大村益次郎らとともに討伐を主張、上野戦争では軍監として参加。彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、佐賀藩所有のアームストロング砲を遠方射撃する戦術を駆使して勝利に貢献。新平は明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄100石を賜ったということ。

2-2、新平、明治新政府の官吏に

戊辰戦争が一段落した後、新平は新政府が設置した江戸鎮台で、長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命されて、民政や会計、財政、都市問題などを担当。明治2年(1869年)7月、明治天皇が江戸へ行幸、江戸は東京と改称。

明治3年(1870年)1月、新平は佐賀に帰郷して準家老にあたる着座に就任し、藩政改革を行ったが、すぐに人員不足の中央政府に呼び戻されて同年11月に太政官中弁に就任。12月、虎ノ門で新平の藩政改革に不満だった佐賀藩の卒族に襲撃され、負傷したが回復。明治4年(1871年)2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言岩倉具視に対して30項目の答申書を提出。

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