4-1、鉄幹、ヨーロッパ旅行へ
「明星」廃刊後の鉄幹は極度の不振に陥り、仕事も来ないていたらくとなったが、明治44年(1911年)、晶子が百種の歌を書いた屏風などを販売して資金を作り、フランスのパリへ長期旅行へ行くことに。その後、晶子も追いかけて渡仏しふたりでフランス国内、ロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪して4か月後に帰国。
帰国してから2年後、晶子との共著「巴里より」で、「女性が要求すべき正当な第一の権利は教育の自由」と、女性教育の必要性などを主張。しかし、鉄幹は再起を賭けて訳詞集「リラの花」を出版したが失敗、一方対照的に晶子は活発に歌を作るうえに、新しい女性として注目の的で、古典文学の現代語訳や新しい女として評論活動も行ったということ。
4-2、その後の鉄幹
鉄幹は、大正4年(1915年)、第12回総選挙に無所属で故郷京都府郡部選挙区から出馬したが、落選。そして大正8年(1919年)に慶應義塾大学文学部教授に就任し、昭和7年(1932年)まで在任し、水上滝太郎、佐藤春夫、堀口大学、三木露風、小島政二郎らを育てたということ。
1921年(大正10年)に建築家西村伊作、画家石井柏亭そして妻晶子らとともに、初の男女共学の文化学院を創設。同じ頃、第二次「明星」を創刊(昭和2年(1927年)に廃刊)、「日本語原考」などを発表。昭和5年(1930年)、雑誌「冬柏」を創刊。
また、昭和7年(1932年)、第一次上海事変の事件をもとに「爆弾三勇士の歌」の毎日新聞による歌詞公募で一等入選。
昭和10年(1935年)、気管支カタルがもとで62歳で死去。57歳の晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」と最愛の夫の追悼の歌を詠んだということ。
5-1、鉄幹の逸話
いろいろな逸話をご紹介しますね。
5-2、「人を恋うる歌」の作詞家
「妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある 友を選ばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」、明治38年(1905年)作の三高寮歌として知られる「人を恋うる歌」は、鉄幹の作ということ。
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