その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、与謝野鉄幹について5分でわかるようにまとめた。
1-1、与謝野鉄幹は京都の生まれ
与謝野鉄幹(よさのてっかん)は、明治6年(1873年)2月、京都府岡崎町(現京都市左京区)で、父与謝野礼厳尚綗、京都の商家出身の母初枝の4男として誕生。本名は寛(ひろし)で、鉄幹は号。
鉄幹の父礼厳は、西本願寺支院の願成寺の僧侶。礼厳はもとは庄屋の細見儀右衛門の次男だったが、京都府与謝郡(現与謝野町字温江)出身なので、明治の初めに与謝野姓に改姓したということ。
1-2、鉄幹の子供時代
鉄幹は明治16年(1883年)、10歳の時に大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子になり、明治22年( 1889年)、僧侶になるために16歳で西本願寺で得度。
そして山口県都濃郡徳山町(現周南市)の兄赤松照幢が養子となっていた徳応寺に行き、徳応寺が経営していた徳山女学校の国語教員となり、同寺の布教機関紙「山口県積善会雑誌」を編集。翌年17歳の時、鉄幹の号をはじめて用いたということ。鉄幹は明治24年(1891年)養家安藤姓からもとの与謝野姓にもどしたそう。
鉄幹は徳山女学校には20歳までの約3年間勤めたが、女子生徒(のちの最初の夫人浅田信子)との間に問題を起こし、このとき女の子が生まれたがその子は間もなく死亡、鉄幹も退職したということ。
2-1、鉄幹、上京して歌人に
鉄幹は明治25年(1892年)、京都へ帰ったが、11月ごろ上京。
和歌の改良をめざして浅香社を結成した国文学者で歌人の落合直文に入門。そして明治27年(1894年)に、短歌論「亡国の音」を発表し、2年後には出版社明治書院の編集長になり、跡見女学校で教師も務めたそう。そして次々と歌集「東西南北」「天地玄黄」を発表して注目されたということ。鉄幹の歌の作風は、質実剛健で「ますらおぶり」と呼ばれたそう。鉄幹は、日清戦争後間もない明治28年(1895年)、22歳で落合直文の弟、鮎貝槐園(あゆかいかいえん)とともに朝鮮の日本人学校、乙未義塾の教師として赴任したが、乙未(いつみ)事変(閔妃(びんひ)虐殺事件)にあって帰国。
明治32年(1899年)、鉄幹は東京新詩社を創立し、同年秋には最初の夫人浅田信子と離婚、やはり徳山女学校の生徒だった林滝野と同棲し、萃(あつむ)を儲けたということ。
2-2、鉄幹、「明星」を創刊
鉄幹は28歳の明治33年(1900年)、文芸誌「明星」を創刊、表紙には挿画家一条成美、のちには洋画家の藤島武二のアール・ヌーヴォー調の挿画を入れ、梅澤和軒訳「アストンの和歌論」を連載したり、新体詩を取り入れたりと西欧的雰囲気を盛り込んだ企画で若い人たちの心をとらえ、鉄幹は編集者として石川啄木、北原白秋、吉井勇などを見出したということ。
「明星」は明治41年(1908年)11月に100号で休刊するまで8年の間、ロマン主義を掲げて旧派和歌の御歌所派に対抗し革新的な短歌に取り組み、近世和歌に新風を吹き込む中心的役割を果たすことに。
2-3、鉄幹、晶子と出会い、「みだれ髪」を出版
不明 – http://www.city.himeji.hyogo.jp/bungaku/tokubetsutenn/yosano/akiko.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる
鉄幹は、「明星」の読者として自作の歌を投稿していた鳳晶子(後の与謝野晶子)に、明治33年(1900年)関西に赴いた句会で出会い、急速に惹かれあって不倫の仲に。晶子は堺の実家を出て上京し、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の処女歌集「みだれ髪」を編集し、翌年8月に出版。「みだれ髪」の名声は高くなり「明星」の隆盛のきっかけに。
鉄幹は2度目の妻滝野と離婚し、「みだれ髪」出版後すぐに晶子と再婚したが、不倫関係が問題視され、文壇照魔鏡という怪文書で様々な誹謗中傷にさらされたそう。尚、鉄幹と晶子の不倫問題で「明星」の読者は激減したが、「みだれ髪」の、女性の恋愛感情を素直に詠んだ斬新な作風が賛否両論を巻き起こしたおかげで、また盛り返して倍増したということ。
明治35年(1907年)、鉄幹は「明星」の新進詩人たち、太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇を連れて九州を旅行、紀行文「五足の靴」を発表。
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