その辺のところを明治時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、明治時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、与謝野晶子について5分でわかるようにまとめた。
1-1、与謝野晶子は堺市の生まれ
与謝野晶子(よさのあきこ)は、明治11年(1878年)12月、堺県堺区(現大阪府堺市)甲斐町四六番屋敷で誕生。父は和菓子商和菓子屋「駿河屋」を営んでいた鳳(ほう)宗七と母津祢の3女。きょうだいはのちに電気工学者となる鳳秀太郎という兄と姉が2人ずつ、弟が1人と妹が2人の8人。
本名は志よう、「晶子」はペンネームで、「晶」は本名の「しょう」から取ったということ。
1-2、晶子の子供時代
この頃は、女の子は嫁に行くものとされていたためと、8人きょうだいの真ん中ということもあり、晶子はあまり大切にされていなかったようですが、それでも経営が傾きかけた店を母が切り盛りしつつ、9歳で漢学塾に入り、琴、三味線も習い、11歳で、明治21年(1888年)に開校したばかりの堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)にも進学。
店の帳場で家族が夜に寝静まったあと、父親が収集していた源氏物語などを読んだりと古典文学に親しむように。また兄や姉の影響で、12,3歳になると森鴎外が主宰していた文芸雑誌の「柵草紙」や「めざまし草」、「文学界」とか、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉らの小説を読み、正岡子規の短歌に感動していたということ。
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1-3、晶子、短歌を雑誌に投稿
晶子は、正岡子規の短歌に影響されたことから、明治28年(1895年)18歳頃からお店を手伝いながら歌を雑誌に投稿し始めたということ。最初は旧派の歌を作ったが、明治32年(1899年)に河井酔茗や河野鉄南たちが中心となっていた浪華青年文学会(のちの関西青年文学会)堺支会に入会し、新しい短歌に目覚めたそう。
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1-4、晶子、与謝野鉄幹と出会う
明治の半ば過ぎの日本の歌壇では、ヨーロッパの詩の影響で短歌革新運動が起こったということで、革新運動の主唱者の一人が与謝野鉄幹。鉄幹は明治32年(1899年)文学結社「東京新詩社」を結成、翌年機関誌「明星」を創刊、結社への参加者や同調者獲得のため、明治33年(1900年)に関西地方へやって来たということ。
文学美術雑誌「明星」は、作者の主観的な感情に重点を置いたロマン主義がテーマで、それまでの合理性、論理性重視の文学に革新性をもたらそうとしていたが、晶子も青年文学会に参加してから「明星」に作品を投稿していたため、雑誌や短歌などではおなじみだったはずの鉄幹の文学会にも出席、そして本人に会って一目ぼれしたということ。
晶子、22歳のときで、鉄幹の作る短歌とスマートな容姿はかなり人を引き付けるものがあり、また、鉄幹も晶子の才能を見ぬいていたそう。
与謝野 鉄幹とは
与謝野鉄幹(よさのてっかん)は、明治6年( 1873年)2月、京都府岡崎町(現京都市左京区)で、与謝野礼厳尚綗と母初枝の4男として誕生。本名は与謝野寛(ひろし)、鉄幹は号。
父礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶で、鉄幹も明治16年(1883年)、10歳の時に大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、明治22年( 1889年)、西本願寺で得度式を行った後に、山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)の兄赤松照幢の寺へ。
そして寺が経営していた徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙だった「山口県積善会雑誌」を編集。翌年から鉄幹の号を用いるように。その翌年には養家を離れて与謝野姓に復帰し、徳山女学校で国語の教師を4年間勤めたが、女子生徒(浅田信子)との間に問題を起こして退職。このとき女の子が生まれたがその子は間もなく死亡。明治25年(1892年)、徳山女学校をやめて京都へ帰り、11月ごろに上京、歌人で国文学者の落合直文に入門。
明治27年(1894年)、短歌論「亡国の音」を発表し、2年後には出版社明治書院の編集長に就任する一方で、跡見女学校で教鞭をとったそう。同年7月、歌集「東西南北」、翌年「天地玄黄」を次々と発表。作風は「ますらおぶり」と呼ばれたということ。明治32年(1899年)、東京新詩社を創立し、同年秋には徳山女学校の生徒だった最初の夫人浅田信子と離別、やはり徳山女学校の生徒だった林滝野と同棲。
明治33年(1900年)、詩歌の文芸誌「明星」を創刊し、石川啄木北原白秋、吉井勇、などを見出し、ロマン主義運動の中心的な役割を果たすことに。
2-1、晶子、処女歌集「みだれ髪」を出版
Akiko Yosano(1878-1942); illustration by Takeji Fujisima (1867-1943) – http://image.blog.livedoor.jp/chibikuro2005/imgs/9/b/9b234678.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる
晶子は鉄幹を慕って上京して2か月後、鉄幹の編集で、明治34年(1901年)、鳳晶子(おおとりあきこ)のペンネームで処女歌集「みだれ髪」を出版。
この歌集は女性の思想や表現が厳しく制限されていた明治時代に、女性として肉体の謳歌、官能の賛美など情熱的な短歌が多く収録されていたこと、また既婚者である与謝野鉄幹との不倫愛からの歌であることもあって賛否両論に。女性は慎ましくあるべしとする当時の道徳観からも受け入れられないもので、保守派にはかなり批判も受けたということ。しかし評論家で歌人の上田敏は純粋に芸術面において高く評価、新しい文学であると保守派を非難したということで、こういった騒ぎで無名の晶子は一躍有望新人となり、若い読者の支持を得、鉄幹と晶子のスキャンダルで購買数が落ち込んでいた「明星」は逆に売れ出したそう。
晶子は「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」から、「やは肌の晶子」と呼ばれるように。
2-2、晶子、与謝野鉄幹と不倫関係になり略奪婚
鉄幹は妻滝野と離別し、「みだれ髪」出版直後に明治34年(1901年)に晶子と再婚。しかしやはり晶子との不倫が問題視され、文壇照魔という怪文書で様々な誹謗中傷がされて、大スキャンダルに。尚、鉄幹と離婚した滝野はのちに歌人の正富汪洋と再婚したということ。
文壇照魔鏡事件
明治34年(1901年)、与謝野鉄幹を個人的に、女性、金銭関係から激しく非難した内容の怪文書で、発行所、著者共に偽名の「文壇照魔鏡」が刊行。鉄幹は著者を旧知の歌人高須芳次郎(梅渓)とみなして裁判に持ち込んだが、証拠不十分で敗訴。一連の出来事を雑誌「新声」が大々的に取り上げ、「明星」が対抗するという、両雑誌の争いの様相もあったが、執筆者はいまだに不明のまま、当時の文壇のあり方を含めて、長い論議になったそう。
2-3、晶子の結婚生活
晶子は結婚後、次々と6男6女、12人の子を産んで育てることになったが、鉄幹は雑誌の発行者とはいえ収入はわずかで、当初は晶子が着物を売って生活費を工面するという貧乏生活。しかし晶子は鉄幹に惚れぬいていたためか、夫の収入がまったくあてにならなくても、来る仕事はすべて引き受け、歌集の原稿料を前払いしてもらい、必死でやりくりして生活を支えたそう。その後鉄幹は、晶子の親友で晶子と茅野雅子とともに三才媛とうたわれた山川登美子と不倫関係に陥ったなどもあったが、晶子は明星派の期待の歌人として、次々と作品を発表、夫の鉄幹が逆境に陥っても支え続けることに。
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