
「士」
士農工商で最も高位とされた階級が「士」、つまり武士階級です。ただし、武士といってもかなり幅広く、上は征夷大将軍から下は足軽まで、多くの人が属していました。同じ武士の中でも格差が大きかったことがわかりますね。
武士、と聞くと、合戦で激しく斬りあうイメージがありますが、士農工商が定着した江戸時代には、そのような合戦はほとんどありません。すでに徳川家によって全国が平定されていたので、大規模な合戦は起こらなかったのです。
そのため、武士とはいっても、いわゆる軍人のようなカテゴリーの武士ではなく、奉行などのいわゆるお役人が中心でした。今でいう、公務員のような身分です。治安維持や司法のような役割を担い、「年貢」と呼ばれる税金のようなもので生活していました。
その年貢を納めていたのが、次に紹介する「農」の人々です。
「農」
「農」に属していたのはいわゆる農民で、お百姓さんなど畑や米作りを生業にしていた人々です。武士が細かく差別化されていたのと同様に、農民にも大規模な農地を管理する「庄屋」から日雇いに近い働き方をしていた「小作人」まで、さまざまな階級がありました。
特筆すべきは社会の人口における農民の割合で、士農工商の中では農民の割合が圧倒的に多かったとされています。つまり、多くの人は何らかの農民だったわけです。
農民は自分の持つ農地の作物で生計を立て、収穫量の一部を年貢として大名に納めていました。中には自給自足の農民もいたようですが、大部分の農民は作物を売り買いしていたようです。
「工」
「工」に属する人々は、いわゆる職人と呼ばれるカテゴリーです。職人も、作るものによって細かく細分化されていて、たとえば刀鍛冶なら刀を専門にしていた場合がほとんどでした。他にも、茶碗などの食器、畳、装飾品などを作るのも職人でしたし、大工も職人に入ります。武士や大規模農民のような組織体系をもつ職人は稀で、多くは一人で生計を立てている独立した自営業のような働き方だったようです。そのため、休憩や休日も好きなように取ることができ、厳しく年貢を取り立てられるようなこともありませんでした。働いていた時間は実質4時間程度、という見方もあるくらいですから、もしかしたら楽な職業(身分)だったのかもしれませんね。
「商」
最後にご紹介するのは商人です。豊臣秀吉の天下統一後、江戸時代の終焉まで、国内で大規模な戦乱はほとんど起こっていません。現代でも同じですが、戦乱がなく世の中が安定していると、経済が安定し発展します。このため、当時は商人が武士に匹敵する力をつけていました。時代劇では、悪徳商人と役人が裏取引をして町人を苦しめている姿が描かれることがありますが、こうした時代背景がモデルになったのかもしれません。
実は、士農工商という文字の並びにも意味があり、武士がもっとも高位で、商人がもっとも低位、とされていました。それは、血筋や家柄で決まる武士、食料や物資を生産している農民や職人に比べ、誰かが生産したものを取引することでしか生活できない商人を蔑んだためだとされています。実際には、商人の力が上級武士に匹敵するほど強かったため、身分を下げてバランスを取ろうとしたようです。
また、武士が上位階級だったのは事実ですが、残りの農民・職人・商人には上下の差がほとんどなかった、という研究結果もあります。
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