
その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、松尾芭蕉は伊賀上野の生まれ
- 1-2、芭蕉の子供時代
- 1-3、芭蕉、主君が亡くなり江戸へ出る
- 2-1、芭蕉、江戸俳壇にデビュー
- 2-3、芭蕉、江戸で水道工事を請け負う
- 3-1、芭蕉、プロの俳諧師に
- 3-2、芭蕉、深川に転居し、芭蕉庵と命名
- 3-3、芭蕉、詫び住まいを失って心境の変化を
- 4-1、芭蕉、野ざらし紀行の旅に出る
- 4-2、芭蕉、新境地を開く
- 4-3、「笈の小文」「更科紀行」の旅
- 4-4、おくのほそ道の旅
- 4-5、芭蕉、「猿蓑」「すみだはら」を編集
- 4-6、芭蕉の最期の旅
- 5-1、芭蕉に関する逸話
- 5-2、不易流行(ふえきりゅうこう)
- 5-3、軽み(かろみ)
- 5-4、芭蕉の門人
- 5-5、芭蕉、隠密説
- 言葉遊びだった俳句を文学にまで高めた
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松尾芭蕉について5分でわかるようにまとめた。
1-1、松尾芭蕉は伊賀上野の生まれ

松尾芭蕉(まつおばしょう)は、寛永21年(1644年)に伊賀国(現三重県伊賀市)で誕生。芭蕉の生まれる前後に生家が引っ越したため、出生地は、赤坂(現伊賀市上野赤坂町)説と柘植(つげ、現伊賀市柘植)説の2説あり。
父は阿拝郡柘植郷(現伊賀市柘植)の土豪一族出身の松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身と言われる母の次男で、きょうだいは6人で兄の命清の他に姉1人と妹3人。幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のちに宗房(むねふさ)。俳号は初め宗房(そうぼう)、その後、桃青、芭蕉(はせを)と改名。
芭蕉とは
芭蕉の号のもととなったのは、英名がジャパニーズ・バナナという中国が原産のバショウ科の多年草。高さは2~3mで、長さが1~1.5m・幅50cm程の大きな葉が特徴、花や果実はバナナとよく似ていて、熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東以南では路地植えも可能な観賞用の植物。深川の芭蕉庵が出来たときに、弟子が芭蕉を庭に植えたことから号にしたという説と、謡曲「芭蕉」からとった説があるそう。
1-2、芭蕉の子供時代
松尾家は平氏の末流を称する一族、苗字帯刀を許されたいわゆる地侍で「無足人」という農民。明暦2年(1656年)、芭蕉が13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが生活は苦しかったよう。
異説も色々あるものの、芭蕉は寛文2年(1662年)に18歳で、伊賀国上野の伊勢津藩城代家老の一族である藤堂新七郎良清の嗣子主計良忠、俳号蝉吟(せんぎん)に、厨房の料理人として仕えたということ。そしてこの主人で2歳年上の良忠とともに、当時は京都にいた貞門派俳諧の新鋭、北村季吟に師事して俳諧の道に。最初は主人と趣味を同じくすることで取り立ててもらえるという考えもあったかも。
1-3、芭蕉、主君が亡くなり江戸へ出る
寛文2年(1662年)の年末に詠んだ「春や来し年や行けん小晦日」が、残っているもっとも古い芭蕉の俳句、つまり処女作。寛文4年(1664年)には松江重頼撰「佐夜中山集」に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集。その後も寛文6年(1666年)には伊賀上野の俳壇が集って貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が開催。このときに芭蕉の作ったと判明している最古の連句がつくられたということ。この百韻は最初の発句は蝉吟だが、脇は北村季吟なので、伊賀上野の俳壇が北村季吟から指導を受けていたことが明白に。
寛文6年(1666年)、芭蕉の主君良忠が24歳で死去。芭蕉は主君の遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わり、菩提を弔ったあと藤堂家を退去。芭蕉のその後の動向は不明だが、寛文7年(1667年)刊の「続山井」(湖春編)などの貞門派の選集に入集の際、芭蕉は「伊賀上野の人」と紹介があるため、京都に行く事があっても、伊賀上野在住だったよう。
その後、寛永9年(1669年)の萩野安静撰「如意宝珠」に6句、翌年の岡村正辰撰「大和巡礼」に2句、その翌年の吉田友次撰「俳諧藪香物」に1句が入集されているそう。寛文12年(1672年)、芭蕉29歳のとき、30番の発句合(ほっくあわせ)で、談林派の先駆けのようにテンポ良く、小唄や六方詞などの当時の流行の言葉を使った処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納。そして延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味で俳諧作法書「俳諧埋木」が伝授され、芭蕉は江戸へ下向することに。
2-1、芭蕉、江戸俳壇にデビュー
諸説はあるが、延宝3年(1675年)初頭、芭蕉は、久居藩士の向日八太夫が同行して江戸に下向、日本橋の名主小沢卜尺(ぼくせき)の貸家、または後に芭蕉を終生援助した魚問屋杉山杉風の日本橋小田原町の宅に住んだということ。江戸では俳人たちと交流、江戸俳壇の後見といわれた俳号風虎こと、磐城平藩主内藤義概(よしむね)の句会にも出入りするように。
芭蕉は延宝3年(1675年)5月、江戸へ下ってきた連歌師で俳人の西山宗因を迎えて、興行の九吟百韻が開催されたときに初めて号「桃青」を使ったということで、西山宗因の談林派俳諧に大きな影響を受けたということ。
2-3、芭蕉、江戸で水道工事を請け負う
芭蕉は延宝5年(1677年)、34歳から4年間、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に従事。名主の小沢卜尺または伊賀で仕えていた藤堂家の紹介と思われるが、人足の帳簿づけとか計算や測量、人足をまとめ信用も必要ななかなか難しい仕事だったそう。
このような仕事をした理由は、芭蕉が点取俳諧(発句や連句を点者(宗匠)に見せ、その採点の如何で点数を競う遊戯的な俳諧で、賭事的)に手を出さなかったので経済的に困っていたことと、幕府から無宿人で無職だと眼をつけられるために行ったという説があるが、芭蕉ファンには俳句だけでなく芭蕉は他のことをさせても有能だったという見方がされるよう。
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