今回は松尾芭蕉を取り上げるぞ。有名な俳句の巨匠ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松尾芭蕉について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松尾芭蕉は伊賀上野の生まれ

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松尾芭蕉(まつおばしょう)は、寛永21年(1644年)に伊賀国(現三重県伊賀市)で誕生。芭蕉の生まれる前後に生家が引っ越したため、出生地は、赤坂(現伊賀市上野赤坂町)説と柘植(つげ、現伊賀市柘植)説の2説あり。

父は阿拝郡柘植郷(現伊賀市柘植)の土豪一族出身の松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身と言われる母の次男で、きょうだいは6人で兄の命清の他に姉1人と妹3人。幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のちに宗房(むねふさ)。俳号は初め宗房(そうぼう)、その後、桃青、芭蕉(はせを)と改名。

芭蕉とは
芭蕉の号のもととなったのは、英名がジャパニーズ・バナナという中国が原産のバショウ科の多年草。高さは2~3mで、長さが1~1.5m・幅50cm程の大きな葉が特徴、花や果実はバナナとよく似ていて、熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東以南では路地植えも可能な観賞用の植物。深川の芭蕉庵が出来たときに、弟子が芭蕉を庭に植えたことから号にしたという説と、謡曲「芭蕉」からとった説があるそう。

1-2、芭蕉の子供時代

松尾家は平氏の末流を称する一族、苗字帯刀を許されたいわゆる地侍で「無足人」という農民。明暦2年(1656年)、芭蕉が13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが生活は苦しかったよう。

異説も色々あるものの、芭蕉は寛文2年(1662年)に18歳で、伊賀国上野の伊勢津藩城代家老の一族である藤堂新七郎良清の嗣子主計良忠、俳号蝉吟(せんぎん)に、厨房の料理人として仕えたということ。そしてこの主人で2歳年上の良忠とともに、当時は京都にいた貞門派俳諧の新鋭、北村季吟に師事して俳諧の道に。最初は主人と趣味を同じくすることで取り立ててもらえるという考えもあったかも。

1-3、芭蕉、主君が亡くなり江戸へ出る

寛文2年(1662年)の年末に詠んだ「春や来し年や行けん小晦日」が、残っているもっとも古い芭蕉の俳句、つまり処女作。寛文4年(1664年)には松江重頼撰「佐夜中山集」に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集。その後も寛文6年(1666年)には伊賀上野の俳壇が集って貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が開催。このときに芭蕉の作ったと判明している最古の連句がつくられたということ。この百韻は最初の発句は蝉吟だが、脇は北村季吟なので、伊賀上野の俳壇が北村季吟から指導を受けていたことが明白に。

寛文6年(1666年)、芭蕉の主君良忠が24歳で死去。芭蕉は主君の遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わり、菩提を弔ったあと藤堂家を退去。芭蕉のその後の動向は不明だが、寛文7年(1667年)刊の「続山井」(湖春編)などの貞門派の選集に入集の際、芭蕉は「伊賀上野の人」と紹介があるため、京都に行く事があっても、伊賀上野在住だったよう。

その後、寛永9年(1669年)の萩野安静撰「如意宝珠」に6句、翌年の岡村正辰撰「大和巡礼」に2句、その翌年の吉田友次撰「俳諧藪香物」に1句が入集されているそう。寛文12年(1672年)、芭蕉29歳のとき、30番の発句合(ほっくあわせ)で、談林派の先駆けのようにテンポ良く、小唄や六方詞などの当時の流行の言葉を使った処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納。そして延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味で俳諧作法書「俳諧埋木」が伝授され、芭蕉は江戸へ下向することに。

2-1、芭蕉、江戸俳壇にデビュー

諸説はあるが、延宝3年(1675年)初頭、芭蕉は、久居藩士の向日八太夫が同行して江戸に下向、日本橋の名主小沢卜尺(ぼくせき)の貸家、または後に芭蕉を終生援助した魚問屋杉山杉風の日本橋小田原町の宅に住んだということ。江戸では俳人たちと交流、江戸俳壇の後見といわれた俳号風虎こと、磐城平藩主内藤義概(よしむね)の句会にも出入りするように。

芭蕉は延宝3年(1675年)5月、江戸へ下ってきた連歌師で俳人の西山宗因を迎えて、興行の九吟百韻が開催されたときに初めて号「桃青」を使ったということで、西山宗因の談林派俳諧に大きな影響を受けたということ。

2-3、芭蕉、江戸で水道工事を請け負う

芭蕉は延宝5年(1677年)、34歳から4年間、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に従事。名主の小沢卜尺または伊賀で仕えていた藤堂家の紹介と思われるが、人足の帳簿づけとか計算や測量、人足をまとめ信用も必要ななかなか難しい仕事だったそう。

このような仕事をした理由は、芭蕉が点取俳諧(発句や連句を点者(宗匠)に見せ、その採点の如何で点数を競う遊戯的な俳諧で、賭事的)に手を出さなかったので経済的に困っていたことと、幕府から無宿人で無職だと眼をつけられるために行ったという説があるが、芭蕉ファンには俳句だけでなく芭蕉は他のことをさせても有能だったという見方がされるよう。

\次のページで「3-1、芭蕉、プロの俳諧師に」を解説!/

3-1、芭蕉、プロの俳諧師に

この頃に、芭蕉は宗匠となって、職業的な俳諧師に。確かな証拠はないということだが、「桃青伝」(梅人編)には宗匠の証である「延宝六牛年歳旦帳」という歳旦帳を、桃青=芭蕉が持っていたことが前書きに残っているそう。

俳諧の宗匠となった芭蕉は、江戸、京都の俳壇と交流を持ち、多くの作品を発表するように。京の伊藤信徳(しんとく)が江戸に来た際、芭蕉は山口素堂らと会し、「桃青三百韻」が刊行。また、「俳諧関相撲」では、俳句の評価を依頼された俳人として、18人のひとりに選出されたということ。

3-2、芭蕉、深川に転居し、芭蕉庵と命名

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延宝8年(1680年)、38歳の芭蕉は突然深川に転居。当時の深川は田舎で、この機会に俳諧に没頭するために決意してのことと言われるが、理由は諸説あり。

江戸の錚々たる愛好家らと面会する点者生活に飽きたとか、自分の妾の寿貞と甥の桃印の駆け落ち事件のショックのため、または日本橋の家を焼け出された説などもあるが、西行法師の出家のごとく、俳諧の純粋性を求めての意志がこもっていると考えられているそう。

そして天和3年(1683年)刊の「むさしぶり」(望月千春編)で、初めて新たに「芭蕉」号を使用したということ。また、門人の李下から贈られた芭蕉が大きく育って茂ったので、最初は杜甫の詩からとって「泊船堂」だった住居名を「芭蕉庵」と変更。尚、芭蕉庵は天和2年(1682年)12月の天和の大火(八百屋お七の火事)で焼失。芭蕉は甲斐谷村藩(山梨県都留市)の国家老高山繁文(通称・伝右衝門)に招かれて滞在した後、冬に芭蕉庵を再建。

3-3、芭蕉、詫び住まいを失って心境の変化を

芭蕉は、火事で芭蕉庵を失ったことで棲家のはかなさを身をもって知ったせいか、「笠」を最小の住処である「庵」と同じようにとらえるように。風雨から身を守るための芭蕉庵と旅の笠を重ねて考えて、「笠」を題材とする句が目立つようになったということ。そして自ら竹を裂いて笠をつくって、「笠作りの翁」と称したということで、旅へのあこがれがこの頃から現れたと言われているそう。

俳諧師、連歌師の旅
昔は制限があり、誰もが旅をするということが出来なかったため、だいたいどこの土地でも旅人はよその土地のニュースを持ってくると歓迎されたということ。

特に芸人、俳諧師や連歌師は伝手を頼って得た紹介状を持って行って、その土地の名士と交流し、句会や歌会、指導などを行って一宿一飯や旅の資金を得たり、弟子にしたり、また俳諧師たちの方も名所旧跡巡りや、旅をして発句の機会を得たそう。そしてそういう機会を隠れ蓑にして、隠密的な情報活動が行われたこともあったということ。

4-1、芭蕉、野ざらし紀行の旅に出る

貞享元年(1684年)8月、芭蕉は東海道を西へ、伊賀、大和、吉野、山城、美濃、尾張、甲斐へ行き、伊賀に帰って越年。そして木曽、甲斐を経て貞享2年(1685年)4月に江戸帰着。元々美濃国大垣の谷木因(ぼくいん)に招かれて出発したが、前年に他界した芭蕉の母の墓参のために伊賀に行ったということで、門人の千里(ちり、粕谷甚四郎)が同行。

この旅の紀行文は、出発の際の「野ざらしを心に風のしむ身哉」に由来する、「野ざらし紀行」または別名「甲子吟行(かっしぎんこう)」。前半では漢詩文調の句が多いが、後半では見聞きしたものを素直に述べ侘びの心境を反映した表現となっていて、蕉風に開眼する過程が如実に示された芭蕉最初の紀行文

4-2、芭蕉、新境地を開く

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芭蕉は、野ざらし紀行の旅後、貞享3年(1686年)の春、芭蕉庵で催した蛙の発句会で、有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」を詠んだということ。

この句は、和歌や連歌では、蛙は「鳴く」ものであったところを、「飛ぶ」ものとして、蛙の「動き」ではなくて「静寂」さをあらわすのに用いたという、まったく新しい画期的な手法で、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品と言われています。のちに明治時代の正岡子規も、「蛙が水に飛び込む、というありふれた事象に妙味を見いだすことによって俳諧の歴史に一線を画した」ことで、俳句の歴史を切りひらいたと評価しているそう。

それまでは言葉遊びで飽きられて廃れる直前だった俳句に、何気ない日常のことだが、心に響く情景をわかりやすい表現で描写するという新しい側面を見出し、俳句を文学にまで高めたとされる芭蕉の真骨頂として、芭蕉の存命中から現代まで、俳句と言えばこの句と言われるほど有名に。

4-3、「笈の小文」「更科紀行」の旅

42歳の芭蕉は、貞享3年(1686年)10月25日から伊勢へ向かって出発。東海道を下り、鳴海、熱田、伊良湖崎、名古屋、勢田から保美 (ほび) 村の門人杜国 (とこく) を訪ねて、年末には伊賀上野に。

貞享4年(1687年)2月に伊勢神宮を参拝、父の33回忌のため伊賀に戻って、3月にはまた伊勢、そして吉野の桜を見物し、高野山、和歌浦、奈良、大坂から須磨、明石を翌年4月まで旅したのが「笈の小文(おいのこぶみ)」または「庚午 (こうご) 紀行」で、芭蕉は自分の半生を回顧、風雅観や紀行観を述べた一文を含めて芭蕉の重要な紀行作品

そして京都から江戸へ帰るための復路は「更科紀行」となっていて、5月に門人の越智越人(おちえつじん)を伴い、名古屋から木曽路を通って、信州更科の姨捨山(おばすてやま)の月見をし、善光寺に参拝したのちに江戸に帰ったということ。

\次のページで「4-4、おくのほそ道の旅」を解説!/

4-4、おくのほそ道の旅

Basho by Morikawa Kyoriku (1656-1715).jpg
Morikawa Kyoriku (1656-1715) - http://www.sonic.net/~tabine/SAABasho_etc_Spring_2005/basho_folder/SAASpring2005_Basho_01.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

芭蕉が尊敬していた、平安末期の歌人西行法師500回忌に当たる元禄2年(1689年)の3月27日、芭蕉は弟子の曾良と「おくのほそ道』の旅に出立。下野、陸奥、出羽、越後、加賀、越前から大垣に至る、芭蕉にとって未知の国々を巡る旅では、西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿り、「夏草や兵どもが夢の跡」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「五月雨をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡によこたふ天河」といった多くの名句が誕生。またこの旅で、芭蕉は各地に多くの門人を獲得。特に金沢では後の加賀蕉門発展の基礎ができたそう。

芭蕉は8月下旬に大垣に到着、約5ヶ月600里(約2,400km)の旅が終了。その後9月6日に伊勢神宮に向かい参拝のあと、伊賀上野へ、そして12月に京都、年末は近江義仲寺の無名庵で過ごすことに。

尚、「おくのほそ道」は5年がかりで推敲を重ね、実際にはなかったフィクションも加えて完成したが、芭蕉は出版するつもりはなく私蔵、純粋に文学作品として残すつもりだったということ。

4-5、芭蕉、「猿蓑」「すみだはら」を編集

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元禄3年(1690年)正月に一度伊賀上野に戻って、膳所、京都にも出かけて句会に出席。元禄4年(1691年)4月から京都・嵯峨野の向井去来の別荘の落柿舎に滞在して、その後京都の野沢凡兆宅に移り、元禄2年(1689年)9月に伊勢から伊賀へ向かう道中で詠んだ「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」が由来の「猿蓑」を去来や凡兆らと編纂

そして10月下旬、芭蕉は江戸に戻って、新築された芭蕉庵へ。元禄6年(1693年)冬、三井越後屋の手代志太野坡(しだやば)、小泉孤屋(こいずみこおく)、池田利牛(りぎゅう)らが門人となり、「すみだはら」を編集し、元禄7年(1694年)6月に刊行。

4-6、芭蕉の最期の旅

元禄7年(1694年)5月、芭蕉は寿貞尼の息子の次郎兵衛をお供に江戸を出発して、伊賀上野へ向かい、5月末に到着後、湖南や京都へ行き、7月に伊賀上野へ。

9月には奈良、生駒暗峠から大坂へ行き、不仲となった門人の之道(しどう)と珍碩(ちんせき)を仲裁にあたったが、若い珍碩が芭蕉の言を受け入れずに失踪したため、心労で体調を崩したということ。容態は悪化の一途を辿り、10月5日に御堂筋の花屋仁左衛門の貸座敷に移り、門人たちが看病。8日、芭蕉は「病中吟」と称し「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という辞世の句を。そして元禄7年(1694年)10月12日、51歳で客死。

遺言によって近江(滋賀県)の義仲寺に運ばれ、木曾義仲の墓の隣に埋葬。焼香に駆けつけた門人は80名で海藻の参加者は300余りだったということ。

5-1、芭蕉に関する逸話

逸話と言うか、芭蕉の謎、門人、俳諧に対する理念についてご紹介しますね。

5-2、不易流行(ふえきりゅうこう)

蕉風俳諧の理念の一つで、いつまでも不変であるものごとの本質を忘れずに、新味を求めて移り変わる変化を取り入れるという意味。芭蕉は「おくのほそ道」の旅で歌枕の地を実際に訪れたことで、「不易流行」に繋がる思考の基礎を得たということ。

5-3、軽み(かろみ)

芭蕉が晩年に到達した俳諧の理念のこと。日常の卑近な題材の中から新しい美を発見して、平明に率直、平淡にさらりと表現するということで、芭蕉が創作上の工夫として、しばしば力説。作為がかかったり過剰な表現などから脱却することをねらいとしていたそう。

\次のページで「5-4、芭蕉の門人」を解説!/

5-4、芭蕉の門人

蕉門といわれる芭蕉の門人は、蕉門十哲と呼ばれる宝井其角(たからいきかく)、向井去来(むこいきょらい)服部嵐雪(はっとりらんせつ)、森川許六(きょりく)、各務支考(かがみしこう)、内藤丈草(じょうそう)・杉山杉風(さんぷう)・立花北枝(ほくし)、志太野坡(しだやば)、越智越人(おちえつじん)、そして河合曾良(そら)、広瀬惟然(いねん、いぜん)、服部土芳(とほう)・天野桃隣(とうりん)。

それ以外の弟子として万乎(まんこ)、野沢凡兆(ぼんちょう)、蘆野資俊(あしのすけとし)。また、この他にも地方にも門人がいて、伊賀、近江、尾張、加賀などではそれぞれの蕉門派が活躍したということで、特に芭蕉が「旧里」と呼んで好んだ近江から近江蕉門が輩出、門人36俳仙のなかで、近江の門人は計12名も。

5-5、芭蕉、隠密説

芭蕉の生地は伊賀上野で忍者の里、そして母が忍者の一党の百地家出身、そのうえ仕えた藤堂新七郎良清の嗣子主計良忠は、あの徳川家康が信頼した家臣服部半蔵の従兄弟にあたる保田采女(藤堂采女)の一族ということで、忍者出自説が。

また、「奥の細道」の旅は芭蕉45歳のときだが、旅程は六百里(2400キロ)、一日に10数里もの山谷跋渉という、当時の年齢では大変なスピードだったということ。旅の日程も、黒羽で13泊、須賀川では7泊して仙台藩領に入ったが、それまでは頻繁だった句会も行わず、出発の前に「松島の月まづ心にかかりて」と絶賛した松島では1句も詠まずに1泊して通過しただけ、平泉にも2時間ほどと、名所旧跡を楽しむ風情がなく、同行した「曾良旅日記」には、仙台藩の軍事要塞といわれる瑞巌寺、藩の商業港石巻港、当時の仙台藩の金山も見物したと記されているなど、当時の幕府と仙台藩との関係という状況をバックに考えると、幕府がスポンサーとなり隠密としての調査もあったのでは

また同行した曾良がその後、幕府の巡検使随員となり、大名の監視や情報収集を行ったということから、弟子の曾良のほうが幕府の任務を課せられて、奥の細道の旅は仙台藩を探るためのカモフラージュという見方もあるそう。

言葉遊びだった俳句を文学にまで高めた

松尾芭蕉は、伊賀上野に生まれて武士に仕えたが、主人が俳諧好きだったために一緒に句会へ行ったのがきっかけで才能を発揮し、俳諧師になった人。

そして当時は連歌のような連句として、言葉遊びで作られ、飽きが来ていたという俳句を五七五で語る文学にまで高め、日常の妙を表現するという、まさに革命的な蕉風俳諧を編み出し、いまや世界中で俳句が作られるように。芭蕉は俳諧師として地方を旅して句会をして弟子を募ったり、名所旧跡で名句をものにし、紀行文を次々と発表。ファンは日本だけにとどまらないグローバルさで、まさに色あせない名作に。

また、「おくのほそ道」は単なる俳句のための旅行ではなく幕府の隠密的行動ではとか、芭蕉はじつは忍者ではという謎めいたところもあり、俳聖といわれる名句の数々を残した以上に、謎の人物像についても後世の人々の興味が尽きないのでは。

" /> 俳句を世界最短のポエムに確立した俳聖「松尾芭蕉」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
日本史歴史江戸時代

俳句を世界最短のポエムに確立した俳聖「松尾芭蕉」をわかりやすく歴女が解説

今回は松尾芭蕉を取り上げるぞ。有名な俳句の巨匠ですが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松尾芭蕉について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松尾芭蕉は伊賀上野の生まれ

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松尾芭蕉(まつおばしょう)は、寛永21年(1644年)に伊賀国(現三重県伊賀市)で誕生。芭蕉の生まれる前後に生家が引っ越したため、出生地は、赤坂(現伊賀市上野赤坂町)説と柘植(つげ、現伊賀市柘植)説の2説あり。

父は阿拝郡柘植郷(現伊賀市柘植)の土豪一族出身の松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身と言われる母の次男で、きょうだいは6人で兄の命清の他に姉1人と妹3人。幼名は金作、通称は甚七郎、甚四郎。名は忠右衛門、のちに宗房(むねふさ)。俳号は初め宗房(そうぼう)、その後、桃青、芭蕉(はせを)と改名。

芭蕉とは
芭蕉の号のもととなったのは、英名がジャパニーズ・バナナという中国が原産のバショウ科の多年草。高さは2~3mで、長さが1~1.5m・幅50cm程の大きな葉が特徴、花や果実はバナナとよく似ていて、熱帯を中心に分布しているが耐寒性に富み、関東以南では路地植えも可能な観賞用の植物。深川の芭蕉庵が出来たときに、弟子が芭蕉を庭に植えたことから号にしたという説と、謡曲「芭蕉」からとった説があるそう。

1-2、芭蕉の子供時代

松尾家は平氏の末流を称する一族、苗字帯刀を許されたいわゆる地侍で「無足人」という農民。明暦2年(1656年)、芭蕉が13歳の時に父が死去し、兄の半左衛門が家督を継ぐが生活は苦しかったよう。

異説も色々あるものの、芭蕉は寛文2年(1662年)に18歳で、伊賀国上野の伊勢津藩城代家老の一族である藤堂新七郎良清の嗣子主計良忠、俳号蝉吟(せんぎん)に、厨房の料理人として仕えたということ。そしてこの主人で2歳年上の良忠とともに、当時は京都にいた貞門派俳諧の新鋭、北村季吟に師事して俳諧の道に。最初は主人と趣味を同じくすることで取り立ててもらえるという考えもあったかも。

1-3、芭蕉、主君が亡くなり江戸へ出る

寛文2年(1662年)の年末に詠んだ「春や来し年や行けん小晦日」が、残っているもっとも古い芭蕉の俳句、つまり処女作。寛文4年(1664年)には松江重頼撰「佐夜中山集」に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集。その後も寛文6年(1666年)には伊賀上野の俳壇が集って貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が開催。このときに芭蕉の作ったと判明している最古の連句がつくられたということ。この百韻は最初の発句は蝉吟だが、脇は北村季吟なので、伊賀上野の俳壇が北村季吟から指導を受けていたことが明白に。

寛文6年(1666年)、芭蕉の主君良忠が24歳で死去。芭蕉は主君の遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わり、菩提を弔ったあと藤堂家を退去。芭蕉のその後の動向は不明だが、寛文7年(1667年)刊の「続山井」(湖春編)などの貞門派の選集に入集の際、芭蕉は「伊賀上野の人」と紹介があるため、京都に行く事があっても、伊賀上野在住だったよう。

その後、寛永9年(1669年)の萩野安静撰「如意宝珠」に6句、翌年の岡村正辰撰「大和巡礼」に2句、その翌年の吉田友次撰「俳諧藪香物」に1句が入集されているそう。寛文12年(1672年)、芭蕉29歳のとき、30番の発句合(ほっくあわせ)で、談林派の先駆けのようにテンポ良く、小唄や六方詞などの当時の流行の言葉を使った処女句集「貝おほひ」を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納。そして延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味で俳諧作法書「俳諧埋木」が伝授され、芭蕉は江戸へ下向することに。

2-1、芭蕉、江戸俳壇にデビュー

諸説はあるが、延宝3年(1675年)初頭、芭蕉は、久居藩士の向日八太夫が同行して江戸に下向、日本橋の名主小沢卜尺(ぼくせき)の貸家、または後に芭蕉を終生援助した魚問屋杉山杉風の日本橋小田原町の宅に住んだということ。江戸では俳人たちと交流、江戸俳壇の後見といわれた俳号風虎こと、磐城平藩主内藤義概(よしむね)の句会にも出入りするように。

芭蕉は延宝3年(1675年)5月、江戸へ下ってきた連歌師で俳人の西山宗因を迎えて、興行の九吟百韻が開催されたときに初めて号「桃青」を使ったということで、西山宗因の談林派俳諧に大きな影響を受けたということ。

2-3、芭蕉、江戸で水道工事を請け負う

芭蕉は延宝5年(1677年)、34歳から4年間、水戸藩邸の防火用水に神田川を分水する工事に従事。名主の小沢卜尺または伊賀で仕えていた藤堂家の紹介と思われるが、人足の帳簿づけとか計算や測量、人足をまとめ信用も必要ななかなか難しい仕事だったそう。

このような仕事をした理由は、芭蕉が点取俳諧(発句や連句を点者(宗匠)に見せ、その採点の如何で点数を競う遊戯的な俳諧で、賭事的)に手を出さなかったので経済的に困っていたことと、幕府から無宿人で無職だと眼をつけられるために行ったという説があるが、芭蕉ファンには俳句だけでなく芭蕉は他のことをさせても有能だったという見方がされるよう。

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