
南総里見八犬伝とは
この物語は、里見義実の娘伏姫が、妖犬八房の物類相感による気を受け懐胎、身の潔白を証すために自らの腹を裂くと、白気が立ちのぼって、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八つの玉が飛散する、中国の古典「水滸伝」の翻案が発端で、この玉を所有する8人の少年には、名字に「犬」の一字がつき、体のどこかに牡丹の形のあざがある設定。不思議な因縁を持つこの犬士たちが邂逅して離散、ついに安房国に集結。
そして里見家に仕えて対管領戦では重鎮となって、里見家に完全な勝利をもたらすという、勧善懲悪、因果応報を軸に複雑で波乱に富んだストーリー展開で、怪異や裏切りなども登場。当初はこれほどの長編の予定ではなかったが、次第に拡大していったそう。尚、「南総里見八犬伝」は何度も歌舞伎に脚色されて上演され、講談にもなり、また錦絵、てぬぐいや双六にもなるなどキャラクター商品にもなった大人気作品ということ。
3-2、馬琴、失明し、嫁が代筆
天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむ事態に。そして天保6年(1835年)、37歳の息子宗伯が死去。馬琴は蔵書を売り、嫌いな書画会を開き、神田明神下の家も売却して大金を作り、天保7年(1836年)に四谷鉄砲組の御家人株を買い、孫の太郎に滝沢家再興の希望を託したそう。
天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明、執筆が不可能となったため、息子宗伯の未亡人のお路が代わって口述筆記をすることになり、天保12年8月、「南総里見八犬伝」がついに完結。最終巻「回外剰筆」には切々と苦労が記されたそう。
息子の嫁のお路は難しい漢字も知らなかったが、馬琴は掌に漢字を書いてそれをお路が執筆、馬琴が友人へ出す手紙にお路の悪口を書く時も代筆したという、泣くに泣けない話も。また馬琴の妻のお百がお路に嫉妬して嫁姑バトルもあったということだが、お百は天保12年(1841年)に死去。
3-3、その後の馬琴
「南総里見八犬伝」」の完成後も馬琴は、お路を筆記者として、「傾城水滸伝」「近世説美少年録」を執筆したが、完結する前に、嘉永元年(1848年)に82歳で死去。命日の11月6日は「馬琴忌」。
3-4、馬琴の交友関係
葛飾北斎 – http://blog.livedoor.jp/ota416/archives/50867225.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
馬琴は江戸後期の化政文化時代の代表的人物として、当時の出版文化をめぐる色々な人々と関係があったということ。師匠的立場の恩人山東京伝をはじめ、「浮世風呂」の作者の式亭三馬、馬琴の読本の挿絵を描いた浮世絵師の葛飾北斎、息子の肖像画を描いてもらった渡辺崋山などなど、「南総里見八犬伝」完結後のあとがき「回外剰筆」に自身で友人たちの思い出が語られているそう。
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