
2-2、馬琴、結婚して安定後、文筆業に打ち込む
寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて生活の安定のために、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現築土神社)下で、履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人で3歳年上の百(ひゃく)に婿入り。しかし会田氏を名のらず、滝沢清右衛門と称したそう。馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家とかで生計を立てたということ。
そして国学者で書家の加藤千蔭に入門して書を学び、噺本や黄表紙本を執筆。寛政7年(1795年)に義母が没すると履物商はやめて、遠慮なく文筆業に打ち込むように。尚、寛政9年(1797年)、長男鎮五郎(のちの宗伯興継)が生まれるなど、馬琴は1男3女の父に。
2-3、馬琴、戯作者として活動、上方旅行へ
寛政8年(1796年)、30歳の馬琴は本格的な創作活動を開始。この年、耕書堂から刊行された読本「高尾船字文」が馬琴の出世作となったが、翌年長兄の羅文が亡くなり、馬琴は滝沢家の家系を継ぐ責任も感じ、その年の暮に生まれた長男でひとり息子の興継(おきつぐ)に期待をかけるように。
馬琴は、享和2年(1802年)5月から3か月ほど上方方面へ旅行。その様子は「蓑笠雨談(さりつうだん)」「羈旅漫録(きりょまんろく)」私的旅行記としてあらわしたということで、「雨月物語」の上田秋成、井原西鶴、近松門左衛門などの事跡を訪ねて上方の文化や歴史に触れたということで、唐話に通達していた医師で戯作者の馬田昌調に出会ったことも収穫に。江戸に戻った馬琴は、伊東蘭洲らを介して中国俗文学へ惹かれていったそう。
2-4、馬琴、ベストセラー作家に
文化元年(1804年)、馬琴は上方旅行中、大坂の書肆文金堂との約束で執筆した半紙本読本(よみほん)の初作「復讐月氷奇縁(げっぴょうきえん)」を刊行し、これが大好評で江戸と大坂で1100部売れるベストセラーに。翌年には「復警奇談稚枝鳩(わかえのはと)」「繍像綺譚石言遺響(せきげんいきょう)」などを刊行。
読本作家として軌道に乗ったため、板元の鶴屋喜右衛門は、ライバルとなった京伝作の読本との競作を仕組むなど、江戸読本は流行小説に。その後は、文化4年(1807年)から開始の「椿説弓張月」は4年かかり、全部で5編39冊で完結。文化5年(1808年)の「三七全伝南柯夢」で名声を築く一方で、京伝は読本から手を引き、馬琴の独擅場に。
馬琴の著作の特徴
主な馬琴の著作の読本は全部で40種で、冊数は430冊あまりもあり、現代の文庫本50冊分ほどに相当する厖大な量だということ。そして馬琴の読本は、勧善懲悪、因果応報観、整然とした構成で、江戸時代という色々制限があるにもかかわらず、登場人物のキャラがしっかり立っていることや、中国俗語を混じえた、音読を意識した和漢混淆文文体で書かれているということなどが特徴。
2-5、馬琴、57歳で隠居
馬琴は読本の執筆もさることながら、生家再興のために長男興継に対し期待をかけていて、幼少から手習いを教えて漢学、絵画、医儒などを習わせ、興継が17歳の時には、医師として散髪させて宗伯(そうはく)と改名、神田同朋町に母と共に引越しをさせ独立。そして息子の宗伯は文政3年(1820年)秋、松前志摩守の出入医者となり2年後、譜代の家臣並近習格になったが、生来虚弱だったそう。
文政7年(1824年)、57歳の馬琴は、神田明神下の息子の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居し、馬琴は隠居となって剃髪、蓑笠漁隠と号したということ。長女に婿養子を迎えて元飯田町の家財一切を譲って分家に。そして馬琴は文人を毎月一回集めて、見聞きした珍談、奇談を披露し合う「耽奇会」「兎園会」を主宰。
3-1、馬琴、南総里見八犬伝を執筆

「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)まで28年続いた98巻106冊の大作で、馬琴のライフワーク、不朽の名作となったが、馬琴は規則正しく朝早く起きて机に向かって執筆し、三度の食事も机辺でとり、夜は家族が休んだあとも暁まで読書する生活で、毎年数多くの読本や合巻を発表するために、馬琴が何人もいるのかといわれたほどだったそう。
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