今回は滝沢馬琴を取り上げるぞ。江戸後期の有名作家だったっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、滝沢馬琴について5分でわかるようにまとめた。

1-1、滝沢馬琴は江戸の生まれ

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滝沢馬琴(たきざわ ばきん)は、明和4年(1767年)、江戸深川(現江東区平野一丁目)の旗本松平信成の屋敷で誕生。父は松平家の用人の滝沢運兵衛興義で母は門、馬琴は5男だったが、兄2人が早世したので実質3男だったそう。きょうだいは5人で長兄興旨、次兄興春と妹2人。 幼名は春蔵のち倉蔵、通称は左七郎、瑣吉(さきち)。元服後は興邦(おきくに、)で、後に解(とく)と改名。

1-2、馬琴の号について

馬琴は作家となってからは、著作堂主人(ちょさどうしゅじん)などのほか、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの号を持ち、用途によって使い分けていたということ。

、滝沢馬琴は明治以降に広まった名前で、本人の存命中は使われなかったそうで、戯作者としての「曲亭馬琴」(きょくてい)が正しい呼び方というのが専門家の意見。そして曲亭馬琴という戯号は、馬琴自身が「漢書」陳湯伝の「巴陵曲亭の陽に楽しむ」という山の名からと、「十訓抄」の小野篁(おののたかむら)の「索婦詞」の一節である「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」から取ったと説明。曲亭馬琴のペンネームが初めて使われたのは、寛政5年(1793年)作の「花団子食気物語(はなよりだんごくいけものがたり)」の山東京伝(さんとうきょうでん)による序で明記されたときだということ。

また、「くるわでまこと」(廓で誠)、遊廓でまじめに遊女に尽くす野暮な男という意味もあるという説も。

1-3、馬琴の子供時代

馬琴は子供の頃から兄たちとともに父にみっちりと漢書などを習ったということだが、絵草紙などの文芸を読むのが好きで、7歳で発句を詠んで才能を発揮

しかし安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が喀血して急死。長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲って、松平家を去り戸田家に仕官。次兄の興春はすでに他家に養子に出、母と妹も長兄興旨と戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残り、主君の孫八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えたが、八十五郎の癇性にがまんできず、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄のところへ

1-4、馬琴、俳諧を始める

天明元年(1781年)、14歳の馬琴は叔父のもとで元服、左七郎興邦と名乗り、俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号は東岡舎羅文)と越谷吾山に師事、俳諧の道に。17歳のときには越谷吾山撰の句集「東海藻」に3句が収録され、このときはじめて馬琴の号を用いたそう。そして天明7年(1787年)、21歳の時、俳文集「俳諧古文庫」を編集。

また、馬琴は医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、医術よりも儒学が得意だったよう。
馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士を務めるも尊大な性格で長続きせずに、その後も武家の渡り奉公を転々とし、放蕩無頼の放浪生活を送り、天明5年(1785年)の、母の臨終でも馬琴の所在がわからず、兄たちが探してようやく間に合うていたらくで、自分でも「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」とのちに回想。

また、貧困の中で次兄が急死など、周囲にも不幸が続いたということ。

2-1、馬琴、戯作者としての出発

馬琴は11、12歳ころまでは浄瑠璃本を読んだり、後に草双紙、軍書、実録なども読み漁り、芝居へ足を運んだなど素地はあったらしく、寛政2年(1790年)、24歳の時に29歳で当時戯作者として人気絶頂だった山東京伝を訪れ、弟子入りを志願。しかし京伝に弟子入りを断られ、親しく出入りするのは許されたということ。

そして馬琴は寛政3年(1791年)正月、当時、江戸で流行していた壬生狂言を題材に、「京伝門人大栄山人」というペンネームで、黄表紙(現代の漫画に通じる大人向けの絵本)の処女作「尽用而二分狂言」(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者としてデビュー。この年、京伝は松平定信の寛政の改革のあおりを食って手鎖の刑を受け、戯作を控えることに。またこの年の秋、洪水で深川の家を失った馬琴は京伝の食客となり、京伝の草双子本「実語教幼稚講釈」(寛政4年刊)の代作を手がけて、江戸の版元や本屋にも馬琴の名が知られるようになったそう。
馬琴は寛政4年(1792年)3月、有名な版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)に見込まれ、手代となったが、一応武士階級の出身なのに商人に仕えることを恥じ、武士の名を捨てて通称を瑣吉に、諱を解に改名

\次のページで「2-2、馬琴、結婚して安定後、文筆業に打ち込む」を解説!/

2-2、馬琴、結婚して安定後、文筆業に打ち込む

寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて生活の安定のために、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現築土神社)下で、履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人で3歳年上の百(ひゃく)に婿入り。しかし会田氏を名のらず、滝沢清右衛門と称したそう。馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家とかで生計を立てたということ。

そして国学者で書家の加藤千蔭に入門して書を学び、噺本や黄表紙本を執筆。寛政7年(1795年)に義母が没すると履物商はやめて、遠慮なく文筆業に打ち込むように。尚、寛政9年(1797年)、長男鎮五郎(のちの宗伯興継)が生まれるなど、馬琴は1男3女の父に。

2-3、馬琴、戯作者として活動、上方旅行へ

寛政8年(1796年)、30歳の馬琴は本格的な創作活動を開始。この年、耕書堂から刊行された読本「高尾船字文」が馬琴の出世作となったが、翌年長兄の羅文が亡くなり、馬琴は滝沢家の家系を継ぐ責任も感じ、その年の暮に生まれた長男でひとり息子の興継(おきつぐ)に期待をかけるように。

馬琴は、享和2年(1802年)5月から3か月ほど上方方面へ旅行。その様子は「蓑笠雨談(さりつうだん)」「羈旅漫録(きりょまんろく)」私的旅行記としてあらわしたということで、「雨月物語」の上田秋成、井原西鶴、近松門左衛門などの事跡を訪ねて上方の文化や歴史に触れたということで、唐話に通達していた医師で戯作者の馬田昌調に出会ったことも収穫に。江戸に戻った馬琴は、伊東蘭洲らを介して中国俗文学へ惹かれていったそう。

2-4、馬琴、ベストセラー作家に

文化元年(1804年)、馬琴は上方旅行中、大坂の書肆文金堂との約束で執筆した半紙本読本(よみほん)の初作「復讐月氷奇縁(げっぴょうきえん)」を刊行し、これが大好評で江戸と大坂で1100部売れるベストセラーに。翌年には「復警奇談稚枝鳩(わかえのはと)」「繍像綺譚石言遺響(せきげんいきょう)」などを刊行。

読本作家として軌道に乗ったため、板元の鶴屋喜右衛門は、ライバルとなった京伝作の読本との競作を仕組むなど、江戸読本は流行小説に。その後は、文化4年(1807年)から開始の「椿説弓張月」は4年かかり、全部で5編39冊で完結。文化5年(1808年)の「三七全伝南柯夢」で名声を築く一方で、京伝は読本から手を引き、馬琴の独擅場に。

馬琴の著作の特徴
主な馬琴の著作の読本は全部で40種で、冊数は430冊あまりもあり、現代の文庫本50冊分ほどに相当する厖大な量だということ。そして馬琴の読本は、勧善懲悪、因果応報観、整然とした構成で、江戸時代という色々制限があるにもかかわらず、登場人物のキャラがしっかり立っていることや、中国俗語を混じえた、音読を意識した和漢混淆文文体で書かれているということなどが特徴。

2-5、馬琴、57歳で隠居

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Hannah - Japanese Book 『國文学名家肖像集』, パブリック・ドメイン, リンクによる

馬琴は読本の執筆もさることながら、生家再興のために長男興継に対し期待をかけていて、幼少から手習いを教えて漢学、絵画、医儒などを習わせ、興継が17歳の時には、医師として散髪させて宗伯(そうはく)と改名、神田同朋町に母と共に引越しをさせ独立。そして息子の宗伯は文政3年(1820年)秋、松前志摩守の出入医者となり2年後、譜代の家臣並近習格になったが、生来虚弱だったそう。

文政7年(1824年)、57歳の馬琴は、神田明神下の息子の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居し、馬琴は隠居となって剃髪、蓑笠漁隠と号したということ。長女に婿養子を迎えて元飯田町の家財一切を譲って分家に。そして馬琴は文人を毎月一回集めて、見聞きした珍談、奇談を披露し合う「耽奇会」「兎園会」を主宰。

3-1、馬琴、南総里見八犬伝を執筆

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「南総里見八犬伝」は、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)まで28年続いた98巻106冊の大作で、馬琴のライフワーク、不朽の名作となったが、馬琴は規則正しく朝早く起きて机に向かって執筆し、三度の食事も机辺でとり、夜は家族が休んだあとも暁まで読書する生活で、毎年数多くの読本や合巻を発表するために、馬琴が何人もいるのかといわれたほどだったそう。

\次のページで「3-2、馬琴、失明し、嫁が代筆」を解説!/

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柳川重宣(1787-1832) - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

南総里見八犬伝とは
この物語は、里見義実の娘伏姫が、妖犬八房の物類相感による気を受け懐胎、身の潔白を証すために自らの腹を裂くと、白気が立ちのぼって、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八つの玉が飛散する、中国の古典「水滸伝」の翻案が発端で、この玉を所有する8人の少年には、名字に「犬」の一字がつき、体のどこかに牡丹の形のあざがある設定。不思議な因縁を持つこの犬士たちが邂逅して離散、ついに安房国に集結。

そして里見家に仕えて対管領戦では重鎮となって、里見家に完全な勝利をもたらすという、勧善懲悪、因果応報を軸に複雑で波乱に富んだストーリー展開で、怪異や裏切りなども登場。当初はこれほどの長編の予定ではなかったが、次第に拡大していったそう。尚、「南総里見八犬伝」は何度も歌舞伎に脚色されて上演され、講談にもなり、また錦絵、てぬぐいや双六にもなるなどキャラクター商品にもなった大人気作品ということ。

3-2、馬琴、失明し、嫁が代筆

天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむ事態に。そして天保6年(1835年)、37歳の息子宗伯が死去。馬琴は蔵書を売り、嫌いな書画会を開き、神田明神下の家も売却して大金を作り、天保7年(1836年)に四谷鉄砲組の御家人株を買い、孫の太郎に滝沢家再興の希望を託したそう。

天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明、執筆が不可能となったため、息子宗伯の未亡人のお路が代わって口述筆記をすることになり、天保12年8月、「南総里見八犬伝」がついに完結。最終巻「回外剰筆」には切々と苦労が記されたそう。

息子の嫁のお路は難しい漢字も知らなかったが、馬琴は掌に漢字を書いてそれをお路が執筆、馬琴が友人へ出す手紙にお路の悪口を書く時も代筆したという、泣くに泣けない話も。また馬琴の妻のお百がお路に嫉妬して嫁姑バトルもあったということだが、お百は天保12年(1841年)に死去。

3-3、その後の馬琴

「南総里見八犬伝」」の完成後も馬琴は、お路を筆記者として、「傾城水滸伝」「近世説美少年録」を執筆したが、完結する前に、嘉永元年(1848年)に82歳で死去。命日の11月6日は「馬琴忌」。

3-4、馬琴の交友関係

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葛飾北斎 - http://blog.livedoor.jp/ota416/archives/50867225.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

馬琴は江戸後期の化政文化時代の代表的人物として、当時の出版文化をめぐる色々な人々と関係があったということ。師匠的立場の恩人山東京伝をはじめ、「浮世風呂」の作者の式亭三馬、馬琴の読本の挿絵を描いた浮世絵師の葛飾北斎、息子の肖像画を描いてもらった渡辺崋山などなど、「南総里見八犬伝」完結後のあとがき「回外剰筆」に自身で友人たちの思い出が語られているそう。

\次のページで「日本初の長編娯楽小説をものにし、最初の職業作家として後世にも影響を与えた」を解説!/

日本初の長編娯楽小説をものにし、最初の職業作家として後世にも影響を与えた

滝沢馬琴は江戸時代後期に没落途上にある武士の家に生まれたが、父と兄が亡くなったため、常に武士としての生家の再興を考えつつ戯作者として成功した人。

当時の戯作者は富裕な隠居などが楽しみで書くもので、物書き一本で食べていけるものではなく、また社会的地位も低かったということ。しかし馬琴の創作意欲はすさまじいもので、次々と色々な作品を書き続けたうえに、武士として生きることができなかった執念、武士階級出身者として江戸も後期ともなると忘れ去られていたような本来武士があるべき姿を意識し、さらに読者を魅了する謎や妖怪も盛り込むという、構成もしっかり作られた超娯楽大作の「南総里見八犬伝」は、江戸時代のオカルトブームにも乗っかって大ベストセラーとなり、日本初の職業作家に。

「南総里見八犬伝」執筆の28年の間には、期待をかけた長男の早世、自身の失明などの困難も乗り越え、嫁のお路に代筆させてまで完結させたという、作品以上に劇的なエピソードの数々が。この時代に珍しく本人が詳細な日記などを残したため、作品だけでなく馬琴自身の人生も小説の題材にされるという、近代日本文学、娯楽小説の先駆けとして忘れられない作家では。

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日本史歴史江戸時代

日本最初のファンタジー作家といわれる「滝沢馬琴」をわかりやすく歴女が解説

今回は滝沢馬琴を取り上げるぞ。江戸後期の有名作家だったっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代についても興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、滝沢馬琴について5分でわかるようにまとめた。

1-1、滝沢馬琴は江戸の生まれ

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滝沢馬琴(たきざわ ばきん)は、明和4年(1767年)、江戸深川(現江東区平野一丁目)の旗本松平信成の屋敷で誕生。父は松平家の用人の滝沢運兵衛興義で母は門、馬琴は5男だったが、兄2人が早世したので実質3男だったそう。きょうだいは5人で長兄興旨、次兄興春と妹2人。 幼名は春蔵のち倉蔵、通称は左七郎、瑣吉(さきち)。元服後は興邦(おきくに、)で、後に解(とく)と改名。

1-2、馬琴の号について

馬琴は作家となってからは、著作堂主人(ちょさどうしゅじん)などのほか、笠翁(りつおう)、篁民(こうみん)、蓑笠漁隠(さりつぎょいん)、飯台陳人(はんだいちんじん)、玄同(げんどう)など、多くの号を持ち、用途によって使い分けていたということ。

、滝沢馬琴は明治以降に広まった名前で、本人の存命中は使われなかったそうで、戯作者としての「曲亭馬琴」(きょくてい)が正しい呼び方というのが専門家の意見。そして曲亭馬琴という戯号は、馬琴自身が「漢書」陳湯伝の「巴陵曲亭の陽に楽しむ」という山の名からと、「十訓抄」の小野篁(おののたかむら)の「索婦詞」の一節である「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」から取ったと説明。曲亭馬琴のペンネームが初めて使われたのは、寛政5年(1793年)作の「花団子食気物語(はなよりだんごくいけものがたり)」の山東京伝(さんとうきょうでん)による序で明記されたときだということ。

また、「くるわでまこと」(廓で誠)、遊廓でまじめに遊女に尽くす野暮な男という意味もあるという説も。

1-3、馬琴の子供時代

馬琴は子供の頃から兄たちとともに父にみっちりと漢書などを習ったということだが、絵草紙などの文芸を読むのが好きで、7歳で発句を詠んで才能を発揮

しかし安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が喀血して急死。長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲って、松平家を去り戸田家に仕官。次兄の興春はすでに他家に養子に出、母と妹も長兄興旨と戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残り、主君の孫八十五郎(やそごろう)に小姓として仕えたが、八十五郎の癇性にがまんできず、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄のところへ

1-4、馬琴、俳諧を始める

天明元年(1781年)、14歳の馬琴は叔父のもとで元服、左七郎興邦と名乗り、俳諧に親しんでいた長兄興旨(俳号は東岡舎羅文)と越谷吾山に師事、俳諧の道に。17歳のときには越谷吾山撰の句集「東海藻」に3句が収録され、このときはじめて馬琴の号を用いたそう。そして天明7年(1787年)、21歳の時、俳文集「俳諧古文庫」を編集。

また、馬琴は医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学んだが、医術よりも儒学が得意だったよう。
馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士を務めるも尊大な性格で長続きせずに、その後も武家の渡り奉公を転々とし、放蕩無頼の放浪生活を送り、天明5年(1785年)の、母の臨終でも馬琴の所在がわからず、兄たちが探してようやく間に合うていたらくで、自分でも「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」とのちに回想。

また、貧困の中で次兄が急死など、周囲にも不幸が続いたということ。

2-1、馬琴、戯作者としての出発

馬琴は11、12歳ころまでは浄瑠璃本を読んだり、後に草双紙、軍書、実録なども読み漁り、芝居へ足を運んだなど素地はあったらしく、寛政2年(1790年)、24歳の時に29歳で当時戯作者として人気絶頂だった山東京伝を訪れ、弟子入りを志願。しかし京伝に弟子入りを断られ、親しく出入りするのは許されたということ。

そして馬琴は寛政3年(1791年)正月、当時、江戸で流行していた壬生狂言を題材に、「京伝門人大栄山人」というペンネームで、黄表紙(現代の漫画に通じる大人向けの絵本)の処女作「尽用而二分狂言」(つかいはたしてにぶきょうげん)を刊行、戯作者としてデビュー。この年、京伝は松平定信の寛政の改革のあおりを食って手鎖の刑を受け、戯作を控えることに。またこの年の秋、洪水で深川の家を失った馬琴は京伝の食客となり、京伝の草双子本「実語教幼稚講釈」(寛政4年刊)の代作を手がけて、江戸の版元や本屋にも馬琴の名が知られるようになったそう。
馬琴は寛政4年(1792年)3月、有名な版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)に見込まれ、手代となったが、一応武士階級の出身なのに商人に仕えることを恥じ、武士の名を捨てて通称を瑣吉に、諱を解に改名

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