

実は「敵は本能寺にあり」は現在ではことわざとしても使われているんだ。
今回はことわざとしての「敵は本能寺にあり」を語源や類義語と一緒に、大学院卒の日本語教師・むかいひろきに解説してもらうぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/むかいひろき
ロシアの大学で2年間働き、日本で大学院修了の日本語教師。その経験を武器に「言葉」について分かりやすく解説していく。
「敵は本能寺にあり」の意味・語源は?

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「敵は本能寺にあり!」というセリフは、人生で1度は聞いたことがあると思います。ここでは、ことわざとしての「敵は本能寺にあり」の意味と、語源としての歴史的事実を確認していきましょう。
まず、「敵は本能寺にあり」は国語辞典には次のような意味が掲載されています。
《天正10年(1582)明智光秀(あけちみつひで)が備中の毛利勢を攻めると見せかけて出陣し、京都本能寺の織田信長を襲ったところから》本当の目的・目標は別にあるということ。
出典:デジタル大辞泉(小学館)「敵(てき)は本能寺(ほんのうじ)にあり」
「敵は本能寺にあり」のことわざとしての意味は、「本当の目的・目標は別にある」です。例えばAをするために行動しているように見えても、実は別のBを実現するために行動している…というようなニュアンスですね。
ニュアンスを理解するためにも、語源としての歴史的事実を振り返っていきましょう。
明智光秀による本能寺の変
「敵は本能寺にあり!」の名ゼリフが生まれたとされる本能寺の変は1582年に発生しました。織田家家臣の明智光秀が、主君である織田信長が宿泊していた京都の本能寺を1万3000の軍勢で急襲し、信長を自害に追い込んだのです。この時の信長は、小姓の森蘭丸などわずかな数のお供しか連れておらず、大軍で襲い掛かられては勝ち目はありませんでした。
毛利攻めに向かうはずが信長に襲い掛かった光秀
本来なら明智光秀は、織田信長の命令によって、京都ではなく備中(現在の岡山県)に、毛利氏の備中高松城を攻める羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の援軍に向かう予定でした。しかし、備中に向かう道の途中で「敵は本能寺にあり!」と叫び、軍勢を信長が滞在中の京都・本能寺に向かわせたとされています。
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