日本史

幕末に公武合体を推進した老中「安藤信正」をわかりやすく歴女が解説

よぉ、桜木健二だ、今回は安藤信正を取り上げるぞ。幕末の老中だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新は勤皇佐幕に関わらず興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、安藤信正について5分でわかるようにまとめた。

1-1、安藤信正は江戸の生まれ

安藤信正(のぶまさ)は、文政2年(1819年)11月、陸奥国磐城平藩5万石の藩主安藤信由(のぶより)と正室の母老中松平信明の娘従姫との間の嫡男として、磐城平藩江戸藩邸で誕生。

幼名は欽之進で後に欽之介。元服したときは信睦(のぶゆき)だったが、老中在職中に信行(のぶゆき)、そして信正に改名。

1-2、信正、順調に出世

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安藤家は老中になれる譜代大名の名門だったので、信正も天保6年(1835年)3月、11代将軍家斉に御目見、同年12月、従五位下伊勢守に叙任され、後に長門守、対馬守になり、弘化4年(1847年)8月、28歳で父の死によって家督を継承。弘化5年(1848年)1月には奏者番に就任、 安政5年(1858年)8月、寺社奉行加役を経て、大老井伊直弼の下で若年寄に、と順調に出世。

1-3、信正、井伊直弼に認められて老中に抜擢

安政5年 (1858年) 、朝廷が水戸前藩主徳川斉昭に攘夷の勅諚を下した戊午(ぼご)の密勅事件が勃発。前例を破って朝廷から水戸藩に内密に伝えられて諸藩へ伝達せよと添え書きが付いていたが、ないがしろにされた幕府は水戸藩に諸藩伝達を禁じ、朝廷を通じて勅書の返還を要求。

この朝命を伝える幕府の使者として、12月に小石川の水戸藩邸に乗り込んだのが若年寄だった信正。殺気立った水戸家の家臣たちの居並ぶなか、斉昭の息子で藩主の慶篤と交渉、勅書を幕府を通じ朝廷に返還する約束を取り付けたということ(勅書はその後返還されたかは不明)。この功績で信正は井伊直弼に認められ、翌年正月に老中に抜擢されたそう。

しかしその直後の4月、桜田門外の変が勃発して大老井伊直弼が暗殺されることに。

2-1、信正の行った政策

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不明不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

井伊直弼の暗殺後、老中首座は久世広周に任せたが、実権を握っていたという信正が老中として行ったおもな政策をご紹介しますね。

2-2、桜田門外の変を対処

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41歳だった信正は老中として、桜田門外の変で幕府の大老井伊直弼が暗殺されたという前代未聞の事件を対処。

なにが問題かと言えば、殺された大老直弼の井伊家への処置と、大老直弼を襲った水戸浪士、水戸家への対応についての処分。これまでの幕府の慣習でいけば、江戸城内、殿中での殺傷沙汰、藩主の不覚で命を落とした場合、生前に継嗣を決定せずに藩主が死亡した場合は改易処分だが、井伊直弼の場合、どちらにも該当。なので譜代大名の名門井伊家は改易になってしまうということ。

そして、もしそのような事態になれば、赤穂浪士の先例のごとく、井伊家の家臣が武士の面目を立て、主君井伊直弼の名誉挽回のために水戸家に襲撃する事態も予想され、より大きな事態に発展しかねなかったそう。登城中の大老が江戸城門前で暗殺と言う、ただでさえ幕府の権威が失墜する大事件、後始末を間違えば、御三家の天下の副将軍家と譜代の名門が対決もあり得たということ。

しかも井伊直弼を襲撃した水戸藩士たちは、前日に脱藩届けを出したばかりでまだ藩の上層部が受理していない段階だったということで、水戸藩は家臣取り締まり不行き届きの責任を問われる可能性大、そしてすでに安政の大獄とその後の水戸家への処罰が行われているので、それ以上の処罰になり、藩主の切腹、改易は免れず。御三家に対して厳罰を科した場合の影響の大きさについても考慮されたよう。

2-3、信正、一計を画策

ということで、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された事件の対応は大問題として幕閣を悩ませたのですが、信正はこの問題を、「井伊直弼が生きていて、病気引きこもり」ということにして処置、つまり桜田門外の襲撃をなかったことにしたんですね。これが閣議決定となり、井伊伊直弼は病気引き籠もりと発表、14代将軍家茂からは病気見舞いで朝鮮人参が届けられ、奥医師も派遣されて、首のない死体を診察。そして井伊直弼の死が公表されたのは、翌月の閏3月30日。

形式的には2ヶ月近くもその死を秘匿し直弼の息子愛麿(井伊直憲)が跡目相続、井伊家は取り潰しを免れたということ。そして発案者の信正は一躍老中のなかでも主導的立場に

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あのな、衆人環視のもとに殺されたのに、今更病気はないだろー通用するのがすごいな

2-4、久世広周を登用し、信正の政権が誕生

実権を握った信正は、先任の老中3名(ほぼ井伊大老のイエスマン)のうちの無能な2名を罷免、井伊直弼とは関わりのない2名を新たに任命し、以前、井伊直弼と衝突して老中を辞職したという、阿部正弘の義弟の久世広周(ひろちか)を老中首座の地位に就任させ、信正自身は外国係老中となって、久世の陰で実務に専念する体制にしたということ。

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2-5、信正、公武合体を推進

信正は、衰えつつあった幕府の統治力回復のために、朝廷との融和、結合をはかろうとして、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂に降嫁させることに尽力。この婚姻政策は信正のアイデアではなく元々は井伊直弼の策で、直弼は、皇室の外戚として朝廷に幕府が大きな影響力を持つ手段とするつもりだったが、信正は朝廷と幕府との融和策だったそう。

14代将軍家茂と孝明天皇の妹和宮は15歳同士の同い年であったが、すでに兄天皇の勅令で有栖川宮熾仁親王と婚約していたため和宮が江戸への下向を嫌がったこと、また皇室の権威がアップしていたこともあって、格下の将軍に嫁入りが許せんと言う尊王攘夷派の主張もあって難航したが、文久元年(1861年)10月、和宮は数々の条件を付けて承諾。莫大な費用をかけて大行列で関東に下り、同12月に結婚。短い結婚生活ながら、家茂と和宮との仲は円満だったということ。

しかし、この婚姻で尊皇派が親幕的になるどころか、和宮を犠牲にする幕府の横車だと幕府に対する反感が一層増して逆効果になり、婚姻許可の条件として今後10年以内に攘夷を実行する、と出来ない約束をしたことも足かせになったということ。

2-6、信正、列強外交団と交渉

外交面では、今までの老中が横柄な態度で権威を固持しようとしたのに対し、信正は、言葉使いから手紙の書き方まで外国公使を尊重したものに改めたので、外国の外交官たちはもちろん、外国奉行や当時通訳をしていた福地源一郎などにも尊敬されたそう。

万延元年(1861年)12月には、交渉過程でプロイセン使節の通訳を務めたオランダ生まれのヘンリー・ヒュースケン暗殺事件が発生し、またプロイセンが1国ではなく盟主国で、ザクセン、バイエルン、など総計30国もあることがわかったなどで、日本側の交渉担当だった外国奉行の堀利熙が交渉妥結の直前に自害などの困難を乗り越えて、プロイセン1国と修好通商条約を締結

また、水戸浪士による第一次東禅寺イギリス公使館襲撃事件、警備担当の松本藩士の単独犯行の第二次東禅寺イギリス公使館襲撃事件、そしてロシア船ポサドニック号の対馬滞泊事件など、次々に起こった外交の難事を処理。しかしヒュースケン暗殺でアメリカ政府の求めに応じて賠償金を払ったため、その後も外国人が攘夷志士に襲撃されたら幕府が賠償金を払う前例に。外国人嫌いで襲撃する輩もいたが、長州の高杉晋作ら攘夷志士たちのように、幕府が賠償金を払うことを目的に外国人襲撃を企てる者もいたそう。

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ふむ、ヨーロッパの外交官に尊敬される老中って、かなり有能じゃないか

2-7、国益会所の設置

万延元年(1860年)4月、信正は外国との貿易利益を幕府が一手に収めて国内経済を統制したうえで、幕府財政を立て直そうと、外国貿易開始にともなって国産潤沢、物価引下げを目的として設置したが、実績をあげないまま文久2年(1862年)7月、信正らの失脚とともに廃止。

2-8、五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)

これは、万延元年(1860年)に発令した生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の5品目を対象とした貿易統制法令で、開国による貿易開始で国内での販売よりも輸出の方が高値で取引されたため、輸出の需要が急増し、生産供給が追い付かずに国内の物価が高騰するなど国内の経済が混乱していたため、必ず江戸の問屋を経由することを義務付けた法令。

この法令は、江戸の問屋の保護と物価高騰の抑制が目的だったが、すぐに列強各国外交団から条約に規定する自由貿易を妨げるものだと強く反発され、在郷商人らも依然として港へ直接廻送したために、法令の効果はあがらず放棄されたそう。

2-9、遣欧使節の派遣

信正は、安政5年(1858年)にオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約で交わされた、新潟と兵庫の両港、江戸と大坂の両都の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)、ヨーロッパに使節団を派遣。正使の竹内保徳ら38名で、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)、箕作秋坪らが一行に。

イギリスでオールコック公使の賜暇到着後に兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期して、慶応4年(1868年)1月1日開港とするロンドン覚書が調印され、その後、オランダ、プロイセン、フランスとも同様の覚書を締結。オールコック公使が指摘に集めて出品したロンドン万博の日本展示も好評だったそう。

2-10、軍制改革を構想

文久元年(1861年)5月、信正は、「海陸御備え並びに軍制取調御用」という委員会を発足させ、軍制改革構想を検討。このように、委員会には、勘定奉行、講武所奉行、軍艦奉行、大小目付が参加し、小栗上野介忠順や勝海舟らも委員だったということ。軍制改革案は、軍制を完全に洋式のものに切り替える抜本的なもので、陸軍、海軍についても具体的な編成まで立案されたそう。しかし信正の就任中には具体的には実現せず、あとになってこの構想をもとに実現することに。

3-1、信正、坂下門外の変で襲われ、失脚

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文久2年(1862年)1月、信正は登城の途中の坂下門外で、和宮降嫁問題で反幕感情を抱いた尊王攘夷派の6人の水戸浪士によって襲撃を受けたということ。

信正は、手練れの護衛たちに警護され、藩邸から近い坂下門から登城するなど警戒はしていたため、幸い軽傷ですんだが、井伊直弼が暗殺されたとき、負傷しただけで生きていると発表したあおりを食ったのか、今回、信正は軽傷だったと発表しても、信正死亡説から、裸足で坂下門に逃げ込んだとか、悪質なデマが流れたということ。
信正は登城はせず、病床から指示をしていたということで、イギリス公使のオールコックなどの外国公使たちとも病間で会談、オールコック公使は包帯姿の信正に感動して、懸案の兵庫、横浜の開港、京都大坂の開市の期日延期を認めたそう。

そして信正は、籠の中で襲撃から身をかわしたとき、背中や後頭部に傷を受けたため、これが武士にあるまじき振る舞いとされて3か月後に失脚

3-2、信正のその後

文久2年(1862年)4月、老中を罷免された信正は隠居、謹慎を命じられ、所領のうち2万石が減封になり、長男信民が藩主を継承したが翌年8月に5歳で死去したために甥の信勇(のぶたけ)が次の藩主に。

そして大政奉還後、慶応4年(1868年)に明治政府が発足、信正は14歳の信勇に代わって藩政を指揮、奥羽越列藩同盟に加わって新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城。信正も降伏、謹慎となり、明治2年(1869年)9月に永蟄居の処分が許されたが、明治4年(1871年)10月に52歳で死去。

公武合体を推進し、外交交渉の手腕も発揮した実質最後の幕閣老中

安藤信正は、激動の幕末に派手な活躍をしたわけではありませんが、ペリー来航以来、幕府の権威が低下し、井伊直弼の安政の大獄で反発を食らって桜田門外の変で井伊大老が暗殺という、すっかり権威が地に落ちた感のある幕府の老中として、必死に幕府を立て直そうと努力した人。

井伊大老を病気として暗殺、襲撃をなかったことにしたのを皮切りに、和宮降嫁で公武合体で朝廷と幕府の融合を図り、列強の外交官たちとの交渉もこなして外交官たちに尊敬されるなど、人当たりもよくて実務能力も高かったということですが、警戒はしていたのに坂下門外で襲撃を受け、本人は軽傷で済んだが籠の中で伏せたところに受けた背中の傷が武士らしくないと因縁をつけられてわずか3年で失脚。

その後の老中は名ばかりで政事総裁職の松平春嶽、将軍後見職の一橋慶喜らが明治維新まで幕府の政治を牛耳ることに。信正は実質最後の幕閣の老中として、短い間にしてはがんばったじゃないかと、今では意外な手腕と有能さが見直されているということです。

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