日清戦争での活躍
1894年、日本は朝鮮半島の支配権を巡って清国と対立して日清戦争を起こします。かつては清国を強国として恐れ、アヘン戦争で清国がイギリスに敗戦した際には驚愕したほどでしたが、近代化を進める過程で日本は軍事力を高めていき、明治時代になった現在では清国とも戦えるほど成長していたのです。
そんな日清戦争において東郷平八郎は海軍として戦場に赴き、鋼鉄製艦・「浪速」の艦長として豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。そして、その中でも特に東郷平八郎の名をとどろかせたのは、やはり豊島沖海戦における高陞号事件(こうしょうごうじけん)でしょう。
高陞号事件では、東郷平八郎は停泊を警告したにもかかわらず応じないイギリス商船・「高陞号」を撃沈させ、イギリスを敵に回しかねない事態となりました。しかし、これは国際法上において適法な撃沈として処理されることになり、日本は一切の責任を負わされることなく決着したのです。
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戦艦「三笠」で戦場に赴く東郷平八郎
1904年、日露戦争が起こります。日清戦争で勝利した日本、当然講和の条約は日本に有利なものでしたが、その講和にロシアが介入。日本はロシアに当然不満を抱いて敵視するようになりました。打倒ロシアを目指して軍事力を高め、そして1904年に日露戦争が起きたのです。
ちなみに、日露戦争が始まる前の段階で東郷平八郎は常備艦隊司令長官に任命、さらに翌年には大将へと出世しました。そして、やがて日本で連合艦隊が編成されると今度は第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命されたのです。そして、日露戦争では連合艦隊司令長官として歴史に残るほどの活躍を見せます。
戦艦「三笠」にて戦場に赴く東郷平八郎、ただその戦いは当初勝算が難しいとされていて、なぜならロシアの誇るバルチック艦隊は当時最強と謳われていたからです。そして日露戦争が開戦、地上戦にて日本は多くの犠牲を出しながらもロシア軍を撃退していき、勝敗は艦隊へと委ねられました。
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第一線から退いて昭和天皇の教育
一方のロシアも切り札・バルチック艦隊に託しますが、ここで活躍を見せたのが東郷平八郎です。この活躍は東郷ターンと呼ばれるほど有名で、急カーブを描いてバルチック艦隊を混乱させ、何とほぼ損害なしの状態でロシアのバルチック艦隊に勝利しました。
それは日露戦争における日本海海戦での出来事で、日本海軍の勝利は世界中を驚かせたそうです。それもアメリカやイギリスなどの強国を驚かせており、東郷平八郎は「アドミラル・トーゴー」と呼ばれて英雄的な扱いを受けました。
このように日露戦争で活躍した東郷平八郎には多くの勲章が与えられ、軍令部長への就任、そして軍事参議官への就任を経てから第一線を退きます。最も、第一線を退きはしたものの、1913年には東宮御学問所総裁として昭和天皇を教育したことで知られました。
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