鉄道技師への夢
1871年にイギリスに留学した東郷平八郎は、ゴスポートの海軍予備校バーニーズアカデミーで学んだ後、商船学校のウースター協会で学びました。イギリスに留学していた期間は7年間になりますが、実はこの留学について彼の意外なエピソードが風説として残っています。
ここまでの人生を辿ると「東郷平八郎=海軍」のイメージが強いのですが、東郷平八郎は留学をする際には鉄道技師になることを望んでいたそうです。確かに、日本の近代化を目指す明治政府は鉄道の建設に力を入れていましたから、これは明治時代になってから芽生えた夢かもしれません。
ただ、東郷平八郎に留学を依頼された大久保利通はこれに反対、その理由は「東郷平八郎はおしゃべりだから」というものでした。そこで今度は西郷隆盛へと依頼、西郷隆盛は東郷平八郎の言い分を快く聞いてくれた上、イギリスへの留学を許可してくれたそうです。
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「おしゃべり」から「寡黙」へと一変
最も、留学のエピソードは前述したようにあくまで風説であり、つまり本当のところは分かりません。と言うのも、のちに「東郷元帥詳伝」を編集した海軍中将の小笠原長生が東郷平八郎にイギリス留学の経緯を尋ねた時、大久保利通や西郷隆盛の話は一切出てこなかったからです。
それどころか、東郷平八郎は留学決定の理由について「自分でも分からない」と回答したほどでした。とは言え、大久保利通に「おしゃべり」と評されたことはおそらく本当なのでしょう。イギリスへの留学後、東郷平八郎はそれを気にして寡黙に努めるようにしています。
気さくな東郷平八郎はイギリスでの対人関係においてその一面を出しておらず、後年に至っては「沈黙の提督」とも呼ばれるようになりました。おそらくそれは、大久保利通の言葉を気にしていたためだろうと考えられています。そんな東郷平八郎がイギリスから帰国する途中、彼に知らされたのは西郷隆盛の死でした。
西郷隆盛の死への嘆き
江戸時代、幕府に失望した人々は倒幕を掲げて明治政府に期待しました。しかし、いざ明治政府の政策が始まるとこれに不満を持つ者が増え、特にこれまでの特権を奪われた武士の反発は相当なもの。やがて彼らは不平士族となって各地で反乱を起こすようになり、日本の治安は悪化します。
また、政府では征韓論を巡る対立が起こり、その対立の末に政府の要人が一度に辞職する事態となりました。西郷隆盛もその一人であり、帰郷した西郷隆盛の下に不平士族へと成り下がった多くの薩摩藩士が集結、1877年には明治政府に戦いを挑んで西南戦争が起こります。
西南戦争で西郷隆盛は自決、東郷平八郎は帰国途中にそれを聞くと「私が日本に残っていたら西郷隆盛の下についていただろう」と西郷隆盛の死を嘆きました。実際、東郷平八郎の兄は西南戦争で西郷隆盛と共に明治政府と戦っており、城山攻防戦にて自決する最期を遂げています。
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