今日は東郷平八郎(とうごうへいはちろう)について勉強していきます。薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、これらはいずれも歴史に残る有名な戦いです。

そして、これらの戦争に共通する人物が東郷平八郎であり、その実績から彼は東洋のネルソンと呼ばれた。そこで、今回は東郷平八郎について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から東郷平八郎をわかりやすくまとめた。

東郷平八郎の歴史 ~誕生からイギリス留学まで~

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薩英戦争での初陣

東郷平八郎が誕生したのは江戸時代の1847年、薩摩国の鹿児島城下にて薩摩藩士・東郷実友の四男として生まれます。薩摩藩は1863年に薩英戦争を起こしてイギリスと戦いますが、この戦争への参加が東郷平八郎にとっての初陣であり、それは16歳のことでした。

1854年に日米和親条約によって日本は開国。以後、多くの外国人が日本を訪れるようになるものの、日本人にとって外国人は歓迎すべき存在ではなく、そのため外交人を襲撃する攘夷運動が活発化していました。そんな中、生麦事件をきっかけに薩摩藩とイギリスが対立、その末に起こったのが薩英戦争です。

いくら薩摩藩が雄藩とは言え、たった一藩でイギリスと戦うのはあまりにも無謀。しかし、この戦いで意外にも善戦した薩摩藩はイギリスに認められ、決着つかずで終わった薩英戦争後は薩摩藩とイギリスとの間に交流が生まれるほどでした。最も、薩摩藩もイギリスを認め、薩英戦争は薩摩藩が攘夷を諦めるきっかけになります。

軍艦・「竜驤」の乗組見習士官への任命

薩英戦争で初陣を飾った東郷平八郎、21歳になると薩摩藩の海軍所へと入所しました。この時、日本の情勢は倒幕ムードが高まっており、外国に対して無力な幕府に見切りをつける考えが広まります。薩摩藩も当初こそ幕府と朝廷の協力した政治体制を望んでいたものの、やはり倒幕を目指すようになりました。

では倒幕して、誰が日本の新たな主導者として政治を行うのか?……そこで支持を集めたのが朝廷の明治天皇で、幕末の1868年に戊辰戦争が起こって新政府軍と旧幕府軍が衝突します。この戦いで薩摩藩士の東郷平八郎は新政府軍として参戦、阿波沖海戦を皮切りとして薩摩藩の「春日丸」に三等砲術士官として乗船しました。

さらに宮古湾海戦、箱館戦争でも戦った東郷平八郎は新政府軍の勝利に貢献。明治時代になると東京へと上京して、1870年に明治政府が誇る軍艦・「竜驤」(りゅうじょう)の乗組見習士官へと任命されます。そして、翌1871年には海軍の第1回留学生としてイギリスに留学したのでした。

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東郷平八郎の歴史 ~イギリス留学のエピソード~

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鉄道技師への夢

1871年にイギリスに留学した東郷平八郎は、ゴスポートの海軍予備校バーニーズアカデミーで学んだ後、商船学校のウースター協会で学びました。イギリスに留学していた期間は7年間になりますが、実はこの留学について彼の意外なエピソードが風説として残っています。

ここまでの人生を辿ると「東郷平八郎=海軍」のイメージが強いのですが、東郷平八郎は留学をする際には鉄道技師になることを望んでいたそうです。確かに、日本の近代化を目指す明治政府は鉄道の建設に力を入れていましたから、これは明治時代になってから芽生えた夢かもしれません。

ただ、東郷平八郎に留学を依頼された大久保利通はこれに反対、その理由は「東郷平八郎はおしゃべりだから」というものでした。そこで今度は西郷隆盛へと依頼、西郷隆盛は東郷平八郎の言い分を快く聞いてくれた上、イギリスへの留学を許可してくれたそうです。

「おしゃべり」から「寡黙」へと一変

最も、留学のエピソードは前述したようにあくまで風説であり、つまり本当のところは分かりません。と言うのも、のちに「東郷元帥詳伝」を編集した海軍中将の小笠原長生が東郷平八郎にイギリス留学の経緯を尋ねた時、大久保利通や西郷隆盛の話は一切出てこなかったからです。

それどころか、東郷平八郎は留学決定の理由について「自分でも分からない」と回答したほどでした。とは言え、大久保利通に「おしゃべり」と評されたことはおそらく本当なのでしょう。イギリスへの留学後、東郷平八郎はそれを気にして寡黙に努めるようにしています。

気さくな東郷平八郎はイギリスでの対人関係においてその一面を出しておらず、後年に至っては「沈黙の提督」とも呼ばれるようになりました。おそらくそれは、大久保利通の言葉を気にしていたためだろうと考えられています。そんな東郷平八郎がイギリスから帰国する途中、彼に知らされたのは西郷隆盛の死でした。

東郷平八郎の歴史 ~留学からの帰国から日清戦争まで~

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西郷隆盛の死への嘆き

江戸時代、幕府に失望した人々は倒幕を掲げて明治政府に期待しました。しかし、いざ明治政府の政策が始まるとこれに不満を持つ者が増え、特にこれまでの特権を奪われた武士の反発は相当なもの。やがて彼らは不平士族となって各地で反乱を起こすようになり、日本の治安は悪化します。

また、政府では征韓論を巡る対立が起こり、その対立の末に政府の要人が一度に辞職する事態となりました。西郷隆盛もその一人であり、帰郷した西郷隆盛の下に不平士族へと成り下がった多くの薩摩藩士が集結、1877年には明治政府に戦いを挑んで西南戦争が起こります。

西南戦争で西郷隆盛は自決、東郷平八郎は帰国途中にそれを聞くと「私が日本に残っていたら西郷隆盛の下についていただろう」と西郷隆盛の死を嘆きました。実際、東郷平八郎の兄は西南戦争で西郷隆盛と共に明治政府と戦っており、城山攻防戦にて自決する最期を遂げています。

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日清戦争での活躍

1894年、日本は朝鮮半島の支配権を巡って清国と対立して日清戦争を起こします。かつては清国を強国として恐れ、アヘン戦争で清国がイギリスに敗戦した際には驚愕したほどでしたが、近代化を進める過程で日本は軍事力を高めていき、明治時代になった現在では清国とも戦えるほど成長していたのです。

そんな日清戦争において東郷平八郎は海軍として戦場に赴き、鋼鉄製艦・「浪速」の艦長として豊島沖海戦、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。そして、その中でも特に東郷平八郎の名をとどろかせたのは、やはり豊島沖海戦における高陞号事件(こうしょうごうじけん)でしょう。

高陞号事件では、東郷平八郎は停泊を警告したにもかかわらず応じないイギリス商船・「高陞号」を撃沈させ、イギリスを敵に回しかねない事態となりました。しかし、これは国際法上において適法な撃沈として処理されることになり、日本は一切の責任を負わされることなく決着したのです。

東郷平八郎の歴史 ~日露戦争~

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戦艦「三笠」で戦場に赴く東郷平八郎

1904年、日露戦争が起こります。日清戦争で勝利した日本、当然講和の条約は日本に有利なものでしたが、その講和にロシアが介入。日本はロシアに当然不満を抱いて敵視するようになりました。打倒ロシアを目指して軍事力を高め、そして1904年に日露戦争が起きたのです。

ちなみに、日露戦争が始まる前の段階で東郷平八郎は常備艦隊司令長官に任命、さらに翌年には大将へと出世しました。そして、やがて日本で連合艦隊が編成されると今度は第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命されたのです。そして、日露戦争では連合艦隊司令長官として歴史に残るほどの活躍を見せます。

戦艦「三笠」にて戦場に赴く東郷平八郎、ただその戦いは当初勝算が難しいとされていて、なぜならロシアの誇るバルチック艦隊は当時最強と謳われていたからです。そして日露戦争が開戦、地上戦にて日本は多くの犠牲を出しながらもロシア軍を撃退していき、勝敗は艦隊へと委ねられました。

第一線から退いて昭和天皇の教育

一方のロシアも切り札・バルチック艦隊に託しますが、ここで活躍を見せたのが東郷平八郎です。この活躍は東郷ターンと呼ばれるほど有名で、急カーブを描いてバルチック艦隊を混乱させ、何とほぼ損害なしの状態でロシアのバルチック艦隊に勝利しました。

それは日露戦争における日本海海戦での出来事で、日本海軍の勝利は世界中を驚かせたそうです。それもアメリカやイギリスなどの強国を驚かせており、東郷平八郎は「アドミラル・トーゴー」と呼ばれて英雄的な扱いを受けました。

このように日露戦争で活躍した東郷平八郎には多くの勲章が与えられ、軍令部長への就任、そして軍事参議官への就任を経てから第一線を退きます。最も、第一線を退きはしたものの、1913年には東宮御学問所総裁として昭和天皇を教育したことで知られました

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東郷平八郎の歴史 ~晩年から死去まで~

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東郷平八郎の死

東郷平八郎は海軍の神様と呼ばれるようになります。重鎮とも言える存在となり、活発なその発言は軍政に大きく影響を与えました。寡黙に徹した東郷平八郎でしたが、もしかするとここではおしゃべりな本当の性格が露呈したのかもしれませんね。

そんな東郷平八郎が死去したのは1934年のこと、病気によって89歳で死去しました。海軍の英雄となった東郷平八郎の死は国民から悲しまれ、その功績から国葬として葬られたそうです。

東郷平八郎の人生を振り返ると、薩英戦争で初陣を飾った後は戊辰戦争でも参戦していき、その後は海軍として活躍を見せました。そして最終的に海軍の神様と呼ばれた点を考えると、彼もまた大きく出世した歴史に名を残した人物と言えるでしょう。

肉じゃがにまつわる風説

ひとつ噂話を紹介すると、今でこそ普通に作られる料理である肉じゃがですが、これは東郷平八郎が発した言葉によって生まれた料理とされています。その真実についてお伝えすると、明治34年に舞鶴海軍鎮守府の司令長官だった東郷平八郎は、イギリス留学中に食べたビーフシチューの味が忘れられなかったそうです

ですから東郷平八郎は料理人に対してそれを作るように命令、ただ当時の日本の調味料ではそれを再現するのは無理でした。それでも東郷平八郎の願いを叶えようとした料理人が試行錯誤。その末に誕生した料理こそ肉じゃがだそうです。

ただしこれもまた風説の可能性が高く、なぜならビーフシチューそのものは当時の日本に存在していたためで、そのため料理人がビーフシチューを知らないのは少々考えにくいでしょう。

日露戦争のバルチック艦隊撃退が有名!

東郷平八郎のポイントはやはり日露戦争でしょう。日露戦争は開戦するまで日本の敗戦が有力視されており、当のロシアもまさか敗戦するとは思っていませんでした。

しかし実際に勝利したのは日本であり、それは東郷平八郎がバルチック艦隊を倒したからです。また、彼が関わった薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争も日露戦争を含めて押さえておきましょう。

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日本史明治歴史

ロシアのバルチック艦隊を倒した「東郷平八郎」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は東郷平八郎(とうごうへいはちろう)について勉強していきます。薩英戦争、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、これらはいずれも歴史に残る有名な戦いです。

そして、これらの戦争に共通する人物が東郷平八郎であり、その実績から彼は東洋のネルソンと呼ばれた。そこで、今回は東郷平八郎について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から東郷平八郎をわかりやすくまとめた。

東郷平八郎の歴史 ~誕生からイギリス留学まで~

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薩英戦争での初陣

東郷平八郎が誕生したのは江戸時代の1847年、薩摩国の鹿児島城下にて薩摩藩士・東郷実友の四男として生まれます。薩摩藩は1863年に薩英戦争を起こしてイギリスと戦いますが、この戦争への参加が東郷平八郎にとっての初陣であり、それは16歳のことでした。

1854年に日米和親条約によって日本は開国。以後、多くの外国人が日本を訪れるようになるものの、日本人にとって外国人は歓迎すべき存在ではなく、そのため外交人を襲撃する攘夷運動が活発化していました。そんな中、生麦事件をきっかけに薩摩藩とイギリスが対立、その末に起こったのが薩英戦争です。

いくら薩摩藩が雄藩とは言え、たった一藩でイギリスと戦うのはあまりにも無謀。しかし、この戦いで意外にも善戦した薩摩藩はイギリスに認められ、決着つかずで終わった薩英戦争後は薩摩藩とイギリスとの間に交流が生まれるほどでした。最も、薩摩藩もイギリスを認め、薩英戦争は薩摩藩が攘夷を諦めるきっかけになります。

軍艦・「竜驤」の乗組見習士官への任命

薩英戦争で初陣を飾った東郷平八郎、21歳になると薩摩藩の海軍所へと入所しました。この時、日本の情勢は倒幕ムードが高まっており、外国に対して無力な幕府に見切りをつける考えが広まります。薩摩藩も当初こそ幕府と朝廷の協力した政治体制を望んでいたものの、やはり倒幕を目指すようになりました。

では倒幕して、誰が日本の新たな主導者として政治を行うのか?……そこで支持を集めたのが朝廷の明治天皇で、幕末の1868年に戊辰戦争が起こって新政府軍と旧幕府軍が衝突します。この戦いで薩摩藩士の東郷平八郎は新政府軍として参戦、阿波沖海戦を皮切りとして薩摩藩の「春日丸」に三等砲術士官として乗船しました。

さらに宮古湾海戦、箱館戦争でも戦った東郷平八郎は新政府軍の勝利に貢献。明治時代になると東京へと上京して、1870年に明治政府が誇る軍艦・「竜驤」(りゅうじょう)の乗組見習士官へと任命されます。そして、翌1871年には海軍の第1回留学生としてイギリスに留学したのでした。

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