日本史

幕末の語学の天才「司馬凌海」をわかりやすく歴女が解説

4-5、翻訳語も造語

凌海は漢文も精通したため、通訳するとき、日本語にない単語はその場で即座に造語したということで、的確な訳語として、蛋白質、窒素、十二指腸など今も使われているものも多いそう。

4-6、石黒忠悳(ただのり)も絶賛

後の陸軍軍医監で医学校で凌海と同僚だった石黒忠悳は、語学にかけては凌海ほど偉い人を見たことがない。今(明治時代)と違ってまだ文化の開けない時代なのに、日本語、漢文、オランダ語、英語、ドイツ語の文が書けて、ロシア語にフランス語も話せたなど、実に希世の才と言うべき人。著書の「七新薬」も翻訳の手本と言うべきもので、日本におけるドイツ語学の先陣であると回顧したということ。

4-7、上野温存にも立ち会ったり西郷に出会ったり

石黒忠悳の回顧録によると、明治3年(1870年)、ポンぺの後任のボールドウィンと石黒と凌海が上野に行き、広大な上野を医学校と病院用地にすると話すと、ボールドウィンはこのような場所は公園として残すべきと進言し、オランダ公使からも新政府に文書にして忠告したため、東京大学は加賀藩邸あとに作られることになったそう。

また明治6年(1873年)、西郷隆盛が病気になったとき、明治天皇の命令で東大医学部のドイツ人のホフマン教授が西郷の診察に通訳の凌海と石黒忠悳が同行。西郷はお灸をすえているからと診察を断ったが、凌海が通訳したところ、ホフマン教授は威儀を正して、天皇陛下の命令なので診察するまでは動かないと言ったため、西郷はしかたなく診察を受けて、運動が必要と診断されたということ。

4-8、松本良順による石碑が現存

凌海が最後に勤務した公立医学所、愛知病院(現名古屋大学医学部)時代に起居していた、愛知県刈谷市大光院境内には、松本良順による題額の書かれた司馬凌海の碑があるということ。

愛知病院ではお雇い医師オーストリア出身のアルブレヒト・フォン・ローレツの指導で西洋医学が広められたが、ローレツの依頼で柴田芳州による「愛知病院外科手術の図」の画が現存し、ローレツと執刀する後藤新平、そして患者の腕を支える凌海が描かれているそう。

4-9、凌海の子供たち

凌海が平戸の岡口等伝の娘との間にもうけた司馬亨太郎(こうたろう)は、後に東京へ出て松本良順らの世話で、ドイツ語学者となり、獨逸学協会中学校8代校長、東宮御用掛、陸軍大学校陸軍教授、学習院教授、逓信官吏練習所教官を歴任したということ。

また、佐渡で結婚した春江夫人との間に生まれ、林家の養女となった囲碁棋士の喜多文子は、女流棋士として初の実力四段で、多くの女流棋士を育て「現代女流碁界の母」と呼ばれ、大正時代の碁界大合同や日本棋院の設立に貢献したということ。

幕末の語学の天才だったが、理解されがたい奇矯型が災いして大成せず

司馬凌海は佐渡に生まれ、神童と呼ばれた記憶力の良さで祖父が期待をかけて学習させ、江戸へ連れて行って蘭学医の松本良順と出会い、蘭学を勉強する良順の側で恐るべき早さでオランダ語を習得。

しかし療育されないおそらくは高機能自閉症と祖父が土蔵に閉じ込めて勉強させて子供時代の触れ合いもなかったため、人間関係の構築が出来なかったのですね。そして身分制度などもうるさい時代にしきたりや慣習とかけじめとか、暗黙の了解などこなせるはずがなく孤立して佐渡へ戻ることに。

誰からも嫌われたが、松本良順だけは凌海の天才的才能を惜しんで長崎へ呼んだために、オランダ語はもちろん、ドイツ語、英語に中国語まで会得、海軍伝習所の医学所でも大いにその才能が役に立ったのですが、やはりここでも問題行動を起こしてポンぺ先生にまで嫌われて退学。その後は平戸に行き、佐渡に帰ったのち、横浜へ行き戊辰戦争での野戦病院でイギリス人医師ウィリアム・ウィルスの通訳をしたり、明治後は大学教授となってドイツ語辞書を著したりと才能を発揮しますが、どこへ行っても問題を起こし、不摂生がたたって結核となり早世。

凌海の才能は計り知れないほどだが、その知識を生かして人の役に立ちたいとか、新しい世の中を作りたいというこの時代の若者の志もなかったよう、ただただ本人の好奇心の赴くままに頭に入れただけという、不思議な天才とはいえ、その語学の才能が幕末、明治初期の教育に貢献したのは間違いないでしょう。

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angelica