日本史

幕末の語学の天才「司馬凌海」をわかりやすく歴女が解説

3-2、その後の凌海

凌海は、明治元年(1868年)、医学校(現東京大学医学部)の三等教授となり、同3年には小博士、明治5年(1873年)には佐藤尚中とともに大教授となり、日本最初といわれる和独辞典「和訳独逸辞典」を刊行。明治7年(1875年)文部省、宮内省を辞して、翌年、春風社も閉塾。

そして明治9年(1877年)、愛知県から招聘されて「公立病院」、「公立医学講習所」副教師兼訳官に就任し、翌年4月に満期解職まで勤務。名古屋ではいくつか訳書を完成させたが、後に政治家となる後藤新平が書生として凌海からドイツ語を修学。凌海はその後、開業して私立の医学校と病院を設立する計画を持っていたが、結核にかかり、明治12年(1879年)3月、上京の途中、神奈川県戸塚で41歳で死去。

4-1、凌海の逸話

語学の天才的才能と、トラブルメーカーとしても、色々な逸話があります。

4-2、教科書を買い占めた

明治初めに医学校(現東京大学医学部)三等教授だったころ、凌海は指定した教科書を買い占めて、学生たちに原価より高く売って利益を得、放蕩していたため、謹慎処分になったそう。

4-3、ドイツ人もびっくりのドイツ語ペラペラだった

医学校に教師として来たドイツ人医師レオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンと話したとき、あまりに上手に話すので、あなたはドイツに何年いましたかとか、フランス人の妻よりドイツ語が上手だなど言われ、凌海以外にドイツ語の通訳ができる人はいなかったが、実際には日本から出たことすらなかったということ。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

ドイツ語のウムラウトの発音とかもできたのか、すごいな

4-4、凌海が休むと休講に

DoctorWillis.jpg
パブリック・ドメイン, リンク

医学校ではウィリアム・ウィリスによる英語での講義が行われたが、凌海以外に通訳できる者がいなかったために、凌海が二日酔いで休むと休講になったということ。

no-img2″>
 <figcaption class=桜木建二

これは迷惑だなあ、生徒に申し訳ないじゃないか

次のページを読む
1 2 3 4
Share:
angelica