2-1、凌海、良順の留学先の長崎へ
凌海は佐渡へ帰り、しばらく郷里真野町で開業していたが、安政4年(1857年)、19歳の時、松本良順に呼ばれて長崎へ行きオランダ軍医ポンペの講義に参加。ポンぺのオランダ語が理解できたのは良順と凌海だけだったので、通訳としても活躍、漢文ができるためにポンぺの講義を通訳しつつ筆記するということもできたそう。
凌海は長崎で、ドイツ語の本を手に入れて読み、ドイツ人船員に発音を習ったりとドイツ語も独学、、中国語も会得、ラテン語もわかるようになったということだが、やはりここでもいろいろな問題を起こした挙句、なんと文久元年(1861年)、ポンペに破門されることに。
理由は「七新薬」執筆のために、無断でポンぺ先生の書斎に入って書籍をみたり、医学所に寄贈したポンぺ先生の薬を勝手に調合して売り、遊興費に充てたりしたことと、ポンぺ先生の排斥運動に加わった学生の一人という誤解もあったということ。さすがの良順もポンぺ先生にとりなすことが出来ず、関寛斎に頼んだがだめだったよう。
2-2、凌海、「七新薬」を著す
文久2年(1862年)、凌海は関寛斎とともに「七新薬」を著し、尚新堂から刊行。これは酒石酸とか、ヨードカリ、硝酸銀、キニーネ、サンタニーネ、モルヒネ、肝油などの用法や効果等の略述に日本人医師の経験を加えたもので、当時の医師に必需の本と言われたベストセラーに。
「胡蝶の夢」にはこれだけの名文が書けるうえに外国語の翻訳も出来るのに、なんで凌海は普段の会話で相手の顰蹙を買ってばかりのコミュニケーション障害だったのか、不思議としか言いようがないと記述が。尚、当時は執筆者がお金を払って出版するくらいだったので、ベストセラーになっても印税が入るしくみではなかったそうで、凌海や関寛斎には本が売れても大金は入らなかったそう。
2-3、凌海、平戸で婿入り後、佐渡に戻る
凌海はポンぺから破門され、九州を周遊すると言って長崎を出た後、肥前国松浦郡平戸に行き、ポンぺの医学所に留学していて旧知だった平戸藩医師岡口等伝を訪れて、娘婿に。そして長男司馬亨太郎が生まれ、約2年間平戸で翻訳したりして過ごしたが、この縁組が気に入らなかった祖父伊右衛門が訪問し、佐渡に連れ戻されたということ。
佐渡へ帰った凌海は医業を開業したが、この人は相手に共感できないうえにコミュニケーション障害があること、ポンぺ先生に教わったのに、語学だけでまったく医学の知識は身についていなかったようで、医業は向かずあまりはやらなかったよう。
Unidentified photographer – Nagasaki University Library Archives [1], パブリック・ドメイン, リンクによる
ポンぺとは
本名はヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトで、ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学んだオランダ海軍の二等軍医。
幕末に来日して、幕府の海軍伝習所の医学所でオランダ医学を教えた人。日本で初め5年間、みっちりと基礎的な科目から医学を教えたことは、それまではオランダの医学書を読むだけで断片的な知識だった蘭学医たちが、ポンペの授業で初めて西洋医学を学んだと言える画期的な出来事だったそう。そして現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院の小島養生所も作り、患者の身分にかかわらず無料診療を行ったなど、松本良順以下の生徒たちに多大な影響を与えたということ。
関寛斎とは
上総国(現在の千葉県東金市)東中の農家の子として生まれ、養父の儒家関俊輔に学んだあと、佐倉順天堂で松本良順の父佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時銚子で開業したが、豪商濱口梧陵の支援で長崎のポンぺのもとへ。師の息子の良順を通じて凌海と出会い、理解者となったそう。
その後は徳島藩蜂須賀家の典医となり、戊辰戦争では官軍の野戦病院で負傷者の治療を行い、明治維新後は町医となって無料診療を施し、最晩年には北海道に開拓に行き自作農創設を志すがうまくいかずに、82歳で服毒自殺。
3-1、凌海、横浜に出て通訳、塾も開塾
慶応2年(1866年)、凌海は佐渡奉行鈴木重嶺の命で、奉行所詰医師兼洋学師範となって佐渡の相川町に移り、開業医試験などを行い、金鉱の調査に来たエラスムス・ガウアーの通訳などもしたが、慶応4年(1868年) 、祖父が亡くなった後、大政奉還を知り佐渡を出て、横浜に松本良順の父で桜順天堂で世話になった佐藤泰然を訪ねていくことに。
そして堀田正睦の顧問をしていた泰然の伝手で新政府のもとで働くことになり、横浜に新政府が作った軍陣病院(東大病院前身)で、イギリス公使館から貸し出されたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスと薩摩藩医師たちとの通訳として活躍。
そして江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開塾。最初はフランス語を学びたい人が多かったが、医学校がドイツ流に代わるやドイツ語が人気となり、一時は門下生が千人を越えたということ。
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