今回は司馬凌海を取り上げるぞ。幕末にオランダ語やドイツ語や英語が出来た人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、司馬凌海について5分でわかるようにまとめた。

1-1、司馬凌海は佐渡の生まれ

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司馬凌海(しばりょうかい)は、天保10年(1839年)2月、佐渡島真野町新町(現新潟県佐渡市真野新町)で誕生。半商半農で比較的裕福だった島倉栄助とラクの長男、きょうだいは4人。諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称で、幼名は島倉伊之助

1-2、凌海の子供時代

凌海は幼いころから神童と謳われ、6歳で佐渡の相川の修教館に入塾、9才で詩をつくったそう。「胡蝶の夢」によれば、あまりの物覚えの速さに祖父伊右衛門が期待をかけて、よその子と遊ばせずに土蔵の2階に梯子を外して閉じ込めてまで勉強させたそう。

そして嘉永3年(1850年)11歳で祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て、唐津藩儒者山田寛に漢学を学び、13歳で奥医師松本良甫の養子である7歳年上の松本良順のもとでオランダ語と医学を学んだということ。

1-3、江戸での凌海はトラブルメーカー

凌海は、記憶力と語学習得能力が抜群で松本良順が目をかけていたが、ほんの子供の頃、遊びながら人間関係の何たるかを学ぶ時期に、祖父が閉じ込めて勉強をさせたため、佐渡島での生活と身分制度がうるさい江戸での生活のギャップも。

また「胡蝶の夢」にこれでもかというほど登場する言動は、どうみても高機能自閉症、アスペルガー症候群で、どこへ行っても顰蹙を買って人間関係で失敗し、ついに松本家を出て良順の父の佐倉の順天堂へ行かされる羽目になり、順天堂でもなじめずにその後は佐渡へ帰ることに。

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不明 - 日本医事新報No.1739 号, パブリック・ドメイン, リンクによる

松本良順とは
松本良順は、佐倉藩藩医で蘭学の病院兼私塾「佐倉順天堂」(順天堂大学の前身)開設者の父佐藤泰然の次男として生まれ、幕府寄合医師の松本良甫(りょうほ)の娘婿となった蘭学医。

幕府奥医師ながら、長崎に本格的な蘭医ポンぺ・フォン・メーデルフェルトが来ると知り、蘭学医として勉強するために運動して長崎の海軍伝習所の医学所で教えを受けることに。良順は、奇矯型だったらしい凌海の数少ない理解者で、松本家に来た凌海に蘭学を学ばせて語学の才能を引き出し、数々の失敗で佐渡へ帰された後も凌海の語学の才能を惜しみ、自分が長崎へ留学した後に凌海を長崎に呼び寄せてポンぺの講義を受けさせたということ。

良順は江戸へ帰った後は西洋医学所頭取となり、戊辰戦争でも軍医として新選組の残党の面倒を見たり、会津まで行き野戦病院で傷病者の手当てをするなどし、明治後は陸軍軍医制度を確立。尚、凌海が31歳で亡くなったのちは、残された家族の面倒を見たという、問題の多かった凌海のほぼ唯一の理解者で恩人

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2-1、凌海、良順の留学先の長崎へ

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凌海は佐渡へ帰り、しばらく郷里真野町で開業していたが、安政4年(1857年)、19歳の時、松本良順に呼ばれて長崎へ行きオランダ軍医ポンペの講義に参加。ポンぺのオランダ語が理解できたのは良順と凌海だけだったので、通訳としても活躍、漢文ができるためにポンぺの講義を通訳しつつ筆記するということもできたそう。

凌海は長崎で、ドイツ語の本を手に入れて読み、ドイツ人船員に発音を習ったりとドイツ語も独学、、中国語も会得、ラテン語もわかるようになったということだが、やはりここでもいろいろな問題を起こした挙句、なんと文久元年(1861年)、ポンペに破門されることに。

理由は「七新薬」執筆のために、無断でポンぺ先生の書斎に入って書籍をみたり、医学所に寄贈したポンぺ先生の薬を勝手に調合して売り、遊興費に充てたりしたことと、ポンぺ先生の排斥運動に加わった学生の一人という誤解もあったということ。さすがの良順もポンぺ先生にとりなすことが出来ず、関寛斎に頼んだがだめだったよう。

2-2、凌海、「七新薬」を著す

文久2年(1862年)、凌海は関寛斎とともに「七新薬」を著し、尚新堂から刊行。これは酒石酸とか、ヨードカリ、硝酸銀、キニーネ、サンタニーネ、モルヒネ、肝油などの用法や効果等の略述に日本人医師の経験を加えたもので、当時の医師に必需の本と言われたベストセラーに。

「胡蝶の夢」にはこれだけの名文が書けるうえに外国語の翻訳も出来るのに、なんで凌海は普段の会話で相手の顰蹙を買ってばかりのコミュニケーション障害だったのか、不思議としか言いようがないと記述が。尚、当時は執筆者がお金を払って出版するくらいだったので、ベストセラーになっても印税が入るしくみではなかったそうで、凌海や関寛斎には本が売れても大金は入らなかったそう。

2-3、凌海、平戸で婿入り後、佐渡に戻る

凌海はポンぺから破門され、九州を周遊すると言って長崎を出た後、肥前国松浦郡平戸に行き、ポンぺの医学所に留学していて旧知だった平戸藩医師岡口等伝を訪れて、娘婿に。そして長男司馬亨太郎が生まれ、約2年間平戸で翻訳したりして過ごしたが、この縁組が気に入らなかった祖父伊右衛門が訪問し、佐渡に連れ戻されたということ。

佐渡へ帰った凌海は医業を開業したが、この人は相手に共感できないうえにコミュニケーション障害があること、ポンぺ先生に教わったのに、語学だけでまったく医学の知識は身についていなかったようで、医業は向かずあまりはやらなかったよう。

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Unidentified photographer - Nagasaki University Library Archives [1], パブリック・ドメイン, リンクによる

ポンぺとは
本名はヨハネス・レイディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォールトで、ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学んだオランダ海軍の二等軍医。

幕末に来日して、幕府の海軍伝習所の医学所でオランダ医学を教えた人。日本で初め5年間、みっちりと基礎的な科目から医学を教えたことは、それまではオランダの医学書を読むだけで断片的な知識だった蘭学医たちが、ポンペの授業で初めて西洋医学を学んだと言える画期的な出来事だったそう。そして現在の長崎大学医学部である伝習所付属の西洋式の病院の小島養生所も作り、患者の身分にかかわらず無料診療を行ったなど、松本良順以下の生徒たちに多大な影響を与えたということ。

関寛斎とは
上総国(現在の千葉県東金市)東中の農家の子として生まれ、養父の儒家関俊輔に学んだあと、佐倉順天堂で松本良順の父佐藤泰然に蘭医学を学び、26歳の時銚子で開業したが、豪商濱口梧陵の支援で長崎のポンぺのもとへ。師の息子の良順を通じて凌海と出会い、理解者となったそう。

その後は徳島藩蜂須賀家の典医となり、戊辰戦争では官軍の野戦病院で負傷者の治療を行い、明治維新後は町医となって無料診療を施し、最晩年には北海道に開拓に行き自作農創設を志すがうまくいかずに、82歳で服毒自殺。

3-1、凌海、横浜に出て通訳、塾も開塾

慶応2年(1866年)、凌海は佐渡奉行鈴木重嶺の命で、奉行所詰医師兼洋学師範となって佐渡の相川町に移り、開業医試験などを行い、金鉱の調査に来たエラスムス・ガウアーの通訳などもしたが、慶応4年(1868年) 、祖父が亡くなった後、大政奉還を知り佐渡を出て、横浜に松本良順の父で桜順天堂で世話になった佐藤泰然を訪ねていくことに。

そして堀田正睦の顧問をしていた泰然の伝手で新政府のもとで働くことになり、横浜に新政府が作った軍陣病院(東大病院前身)で、イギリス公使館から貸し出されたイギリス人医師ウィリアム・ウィリスと薩摩藩医師たちとの通訳として活躍

そして江戸の下谷練塀町で私塾「春風社」を開塾。最初はフランス語を学びたい人が多かったが、医学校がドイツ流に代わるやドイツ語が人気となり、一時は門下生が千人を越えたということ。

\次のページで「3-2、その後の凌海」を解説!/

3-2、その後の凌海

凌海は、明治元年(1868年)、医学校(現東京大学医学部)の三等教授となり、同3年には小博士、明治5年(1873年)には佐藤尚中とともに大教授となり、日本最初といわれる和独辞典「和訳独逸辞典」を刊行。明治7年(1875年)文部省、宮内省を辞して、翌年、春風社も閉塾。

そして明治9年(1877年)、愛知県から招聘されて「公立病院」、「公立医学講習所」副教師兼訳官に就任し、翌年4月に満期解職まで勤務。名古屋ではいくつか訳書を完成させたが、後に政治家となる後藤新平が書生として凌海からドイツ語を修学。凌海はその後、開業して私立の医学校と病院を設立する計画を持っていたが、結核にかかり、明治12年(1879年)3月、上京の途中、神奈川県戸塚で41歳で死去。

4-1、凌海の逸話

語学の天才的才能と、トラブルメーカーとしても、色々な逸話があります。

4-2、教科書を買い占めた

明治初めに医学校(現東京大学医学部)三等教授だったころ、凌海は指定した教科書を買い占めて、学生たちに原価より高く売って利益を得、放蕩していたため、謹慎処分になったそう。

4-3、ドイツ人もびっくりのドイツ語ペラペラだった

医学校に教師として来たドイツ人医師レオポルト・ミュルレルとテオドール・ホフマンと話したとき、あまりに上手に話すので、あなたはドイツに何年いましたかとか、フランス人の妻よりドイツ語が上手だなど言われ、凌海以外にドイツ語の通訳ができる人はいなかったが、実際には日本から出たことすらなかったということ。

4-4、凌海が休むと休講に

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パブリック・ドメイン, リンク

医学校ではウィリアム・ウィリスによる英語での講義が行われたが、凌海以外に通訳できる者がいなかったために、凌海が二日酔いで休むと休講になったということ。

\次のページで「4-5、翻訳語も造語」を解説!/

4-5、翻訳語も造語

凌海は漢文も精通したため、通訳するとき、日本語にない単語はその場で即座に造語したということで、的確な訳語として、蛋白質、窒素、十二指腸など今も使われているものも多いそう。

4-6、石黒忠悳(ただのり)も絶賛

後の陸軍軍医監で医学校で凌海と同僚だった石黒忠悳は、語学にかけては凌海ほど偉い人を見たことがない。今(明治時代)と違ってまだ文化の開けない時代なのに、日本語、漢文、オランダ語、英語、ドイツ語の文が書けて、ロシア語にフランス語も話せたなど、実に希世の才と言うべき人。著書の「七新薬」も翻訳の手本と言うべきもので、日本におけるドイツ語学の先陣であると回顧したということ。

4-7、上野温存にも立ち会ったり西郷に出会ったり

石黒忠悳の回顧録によると、明治3年(1870年)、ポンぺの後任のボールドウィンと石黒と凌海が上野に行き、広大な上野を医学校と病院用地にすると話すと、ボールドウィンはこのような場所は公園として残すべきと進言し、オランダ公使からも新政府に文書にして忠告したため、東京大学は加賀藩邸あとに作られることになったそう。

また明治6年(1873年)、西郷隆盛が病気になったとき、明治天皇の命令で東大医学部のドイツ人のホフマン教授が西郷の診察に通訳の凌海と石黒忠悳が同行。西郷はお灸をすえているからと診察を断ったが、凌海が通訳したところ、ホフマン教授は威儀を正して、天皇陛下の命令なので診察するまでは動かないと言ったため、西郷はしかたなく診察を受けて、運動が必要と診断されたということ。

4-8、松本良順による石碑が現存

凌海が最後に勤務した公立医学所、愛知病院(現名古屋大学医学部)時代に起居していた、愛知県刈谷市大光院境内には、松本良順による題額の書かれた司馬凌海の碑があるということ。

愛知病院ではお雇い医師オーストリア出身のアルブレヒト・フォン・ローレツの指導で西洋医学が広められたが、ローレツの依頼で柴田芳州による「愛知病院外科手術の図」の画が現存し、ローレツと執刀する後藤新平、そして患者の腕を支える凌海が描かれているそう。

4-9、凌海の子供たち

凌海が平戸の岡口等伝の娘との間にもうけた司馬亨太郎(こうたろう)は、後に東京へ出て松本良順らの世話で、ドイツ語学者となり、獨逸学協会中学校8代校長、東宮御用掛、陸軍大学校陸軍教授、学習院教授、逓信官吏練習所教官を歴任したということ。

また、佐渡で結婚した春江夫人との間に生まれ、林家の養女となった囲碁棋士の喜多文子は、女流棋士として初の実力四段で、多くの女流棋士を育て「現代女流碁界の母」と呼ばれ、大正時代の碁界大合同や日本棋院の設立に貢献したということ。

幕末の語学の天才だったが、理解されがたい奇矯型が災いして大成せず

司馬凌海は佐渡に生まれ、神童と呼ばれた記憶力の良さで祖父が期待をかけて学習させ、江戸へ連れて行って蘭学医の松本良順と出会い、蘭学を勉強する良順の側で恐るべき早さでオランダ語を習得。

しかし療育されないおそらくは高機能自閉症と祖父が土蔵に閉じ込めて勉強させて子供時代の触れ合いもなかったため、人間関係の構築が出来なかったのですね。そして身分制度などもうるさい時代にしきたりや慣習とかけじめとか、暗黙の了解などこなせるはずがなく孤立して佐渡へ戻ることに。

誰からも嫌われたが、松本良順だけは凌海の天才的才能を惜しんで長崎へ呼んだために、オランダ語はもちろん、ドイツ語、英語に中国語まで会得、海軍伝習所の医学所でも大いにその才能が役に立ったのですが、やはりここでも問題行動を起こしてポンぺ先生にまで嫌われて退学。その後は平戸に行き、佐渡に帰ったのち、横浜へ行き戊辰戦争での野戦病院でイギリス人医師ウィリアム・ウィルスの通訳をしたり、明治後は大学教授となってドイツ語辞書を著したりと才能を発揮しますが、どこへ行っても問題を起こし、不摂生がたたって結核となり早世。

凌海の才能は計り知れないほどだが、その知識を生かして人の役に立ちたいとか、新しい世の中を作りたいというこの時代の若者の志もなかったよう、ただただ本人の好奇心の赴くままに頭に入れただけという、不思議な天才とはいえ、その語学の才能が幕末、明治初期の教育に貢献したのは間違いないでしょう。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末の語学の天才「司馬凌海」をわかりやすく歴女が解説

今回は司馬凌海を取り上げるぞ。幕末にオランダ語やドイツ語や英語が出来た人だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、司馬凌海について5分でわかるようにまとめた。

1-1、司馬凌海は佐渡の生まれ

image by PIXTA / 53639079

司馬凌海(しばりょうかい)は、天保10年(1839年)2月、佐渡島真野町新町(現新潟県佐渡市真野新町)で誕生。半商半農で比較的裕福だった島倉栄助とラクの長男、きょうだいは4人。諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称で、幼名は島倉伊之助

1-2、凌海の子供時代

凌海は幼いころから神童と謳われ、6歳で佐渡の相川の修教館に入塾、9才で詩をつくったそう。「胡蝶の夢」によれば、あまりの物覚えの速さに祖父伊右衛門が期待をかけて、よその子と遊ばせずに土蔵の2階に梯子を外して閉じ込めてまで勉強させたそう。

そして嘉永3年(1850年)11歳で祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て、唐津藩儒者山田寛に漢学を学び、13歳で奥医師松本良甫の養子である7歳年上の松本良順のもとでオランダ語と医学を学んだということ。

1-3、江戸での凌海はトラブルメーカー

凌海は、記憶力と語学習得能力が抜群で松本良順が目をかけていたが、ほんの子供の頃、遊びながら人間関係の何たるかを学ぶ時期に、祖父が閉じ込めて勉強をさせたため、佐渡島での生活と身分制度がうるさい江戸での生活のギャップも。

また「胡蝶の夢」にこれでもかというほど登場する言動は、どうみても高機能自閉症、アスペルガー症候群で、どこへ行っても顰蹙を買って人間関係で失敗し、ついに松本家を出て良順の父の佐倉の順天堂へ行かされる羽目になり、順天堂でもなじめずにその後は佐渡へ帰ることに。

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不明 – 日本医事新報No.1739 号, パブリック・ドメイン, リンクによる

松本良順とは
松本良順は、佐倉藩藩医で蘭学の病院兼私塾「佐倉順天堂」(順天堂大学の前身)開設者の父佐藤泰然の次男として生まれ、幕府寄合医師の松本良甫(りょうほ)の娘婿となった蘭学医。

幕府奥医師ながら、長崎に本格的な蘭医ポンぺ・フォン・メーデルフェルトが来ると知り、蘭学医として勉強するために運動して長崎の海軍伝習所の医学所で教えを受けることに。良順は、奇矯型だったらしい凌海の数少ない理解者で、松本家に来た凌海に蘭学を学ばせて語学の才能を引き出し、数々の失敗で佐渡へ帰された後も凌海の語学の才能を惜しみ、自分が長崎へ留学した後に凌海を長崎に呼び寄せてポンぺの講義を受けさせたということ。

良順は江戸へ帰った後は西洋医学所頭取となり、戊辰戦争でも軍医として新選組の残党の面倒を見たり、会津まで行き野戦病院で傷病者の手当てをするなどし、明治後は陸軍軍医制度を確立。尚、凌海が31歳で亡くなったのちは、残された家族の面倒を見たという、問題の多かった凌海のほぼ唯一の理解者で恩人

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