その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、司馬凌海は佐渡の生まれ
- 1-2、凌海の子供時代
- 1-3、江戸での凌海はトラブルメーカー
- 2-1、凌海、良順の留学先の長崎へ
- 2-2、凌海、「七新薬」を著す
- 2-3、凌海、平戸で婿入り後、佐渡に戻る
- 3-1、凌海、横浜に出て通訳、塾も開塾
- 3-2、その後の凌海
- 4-1、凌海の逸話
- 4-2、教科書を買い占めた
- 4-3、ドイツ人もびっくりのドイツ語ペラペラだった
- 4-4、凌海が休むと休講に
- 4-5、翻訳語も造語
- 4-6、石黒忠悳(ただのり)も絶賛
- 4-7、上野温存にも立ち会ったり西郷に出会ったり
- 4-8、松本良順による石碑が現存
- 4-9、凌海の子供たち
- 幕末の語学の天才だったが、理解されがたい奇矯型が災いして大成せず
この記事の目次
ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、司馬凌海について5分でわかるようにまとめた。
1-1、司馬凌海は佐渡の生まれ
司馬凌海(しばりょうかい)は、天保10年(1839年)2月、佐渡島真野町新町(現新潟県佐渡市真野新町)で誕生。半商半農で比較的裕福だった島倉栄助とラクの長男、きょうだいは4人。諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称で、幼名は島倉伊之助。
1-2、凌海の子供時代
凌海は幼いころから神童と謳われ、6歳で佐渡の相川の修教館に入塾、9才で詩をつくったそう。「胡蝶の夢」によれば、あまりの物覚えの速さに祖父伊右衛門が期待をかけて、よその子と遊ばせずに土蔵の2階に梯子を外して閉じ込めてまで勉強させたそう。
そして嘉永3年(1850年)11歳で祖父伊右衛門に連れられ江戸に出て、唐津藩儒者山田寛に漢学を学び、13歳で奥医師松本良甫の養子である7歳年上の松本良順のもとでオランダ語と医学を学んだということ。
1-3、江戸での凌海はトラブルメーカー
凌海は、記憶力と語学習得能力が抜群で松本良順が目をかけていたが、ほんの子供の頃、遊びながら人間関係の何たるかを学ぶ時期に、祖父が閉じ込めて勉強をさせたため、佐渡島での生活と身分制度がうるさい江戸での生活のギャップも。
また「胡蝶の夢」にこれでもかというほど登場する言動は、どうみても高機能自閉症、アスペルガー症候群で、どこへ行っても顰蹙を買って人間関係で失敗し、ついに松本家を出て良順の父の佐倉の順天堂へ行かされる羽目になり、順天堂でもなじめずにその後は佐渡へ帰ることに。
不明 – 日本医事新報No.1739 号, パブリック・ドメイン, リンクによる
松本良順とは
松本良順は、佐倉藩藩医で蘭学の病院兼私塾「佐倉順天堂」(順天堂大学の前身)開設者の父佐藤泰然の次男として生まれ、幕府寄合医師の松本良甫(りょうほ)の娘婿となった蘭学医。
幕府奥医師ながら、長崎に本格的な蘭医ポンぺ・フォン・メーデルフェルトが来ると知り、蘭学医として勉強するために運動して長崎の海軍伝習所の医学所で教えを受けることに。良順は、奇矯型だったらしい凌海の数少ない理解者で、松本家に来た凌海に蘭学を学ばせて語学の才能を引き出し、数々の失敗で佐渡へ帰された後も凌海の語学の才能を惜しみ、自分が長崎へ留学した後に凌海を長崎に呼び寄せてポンぺの講義を受けさせたということ。
良順は江戸へ帰った後は西洋医学所頭取となり、戊辰戦争でも軍医として新選組の残党の面倒を見たり、会津まで行き野戦病院で傷病者の手当てをするなどし、明治後は陸軍軍医制度を確立。尚、凌海が31歳で亡くなったのちは、残された家族の面倒を見たという、問題の多かった凌海のほぼ唯一の理解者で恩人。
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