今回は松本良順を取り上げるぞ。幕末の蘭学医だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松本良順について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松本良順は江戸の生まれ

松本良順(りょうじゅん)は、天保3年(1832年)6月、「松本順・長与専斎自伝」によると、当時は田辺庄右衛門という名で旗本伊奈左衛門に仕えていた父佐藤泰然と母たきの次男として江戸麻布の我書坊谷で誕生。幼名は順之助、名は良順、のち明治4年(1871年)、従五位に叙せられた後、「松本順」と改名。号は蘭疇(らんちゅう)、楽痴。

父は薬研堀で塾を開塾後、娘婿の林洞海に塾を任せて佐倉へ移住して病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」(順天堂大学の前身)を開いたため、良順は江戸薬研堀に残って姉の嫁ぎ先の林家で育てられたのち嘉永元年(1848年)、佐倉の父佐藤泰然の元へ。良順の父泰然は蘭方医として乳がんの外科手術を得意としていたが、良順も17歳のころには父佐藤泰然の卵巣手術の助手を務め、その他、乳がん、脱疽、痔ろうなどの切開手術にも助手として立ち会ったそう。

1-2、良順は蘭学者一家の出身

良順の父佐藤泰然は、佐倉藩藩医で蘭学の私塾病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設者。実子をすべて養子に出し、一番優秀な弟子を養子として跡を継がせたということ。その跡継ぎで近代医学の基礎を築いた佐藤尚中(たかなか、またはしょうちゅう)と蘭学者の林洞海は姉つるの夫で良順の義兄になり、また林夫妻の長女多津は榎本武揚と結婚、次女貞は赤松則良と結婚し、森鴎外の最初の妻登志子の母となり、6男紳六郎は西周の養子で、海軍中将、貴族院議員を務めた人。そして良順の弟で林夫妻の養子となった董(ただす)は、後に政治家、駐英日本大使に。

1-3、良順、松本家の婿養子に

嘉永2年(1849年)、良順は父の親友である幕府寄合医師の松本良甫(りょうほ)の娘婿となって、跡を継ぐことに。そして蘭医坪井信道の塾に通ったりして勉学に励んだということ。尚、この頃に島倉伊之助こと司馬凌海(りょうかい)が松本家に弟子入りし、良順についてオランダ語を会得、その後、色々あって良順が長崎まで呼び寄せたということ。

1-4、良順、漢方の試験を受ける

良順が松本家に婿入りした年に、漢方医の奥医師の圧力で幕府は蘭方医禁止令を発令。松本家への蘭方医の良順の養子入りにもクレームが付き、義父の松本良甫が幕閣に運動、2か月後に漢方の試験をして合格すれば認めるが、不合格ならば御医師の職を継がせないということになり、良順は修学には5年はかかるという漢方の勉強を60日でやっつけることに

これは代々の奥医師で漢方医の家柄の多紀楽真院の嫌がらせだったので、良順は売られた喧嘩を買うという姿勢で、まるっきり不案内の漢方を養父に習い、それも基礎を無視して多紀氏の著書の難しい個所を丸暗記することで対処して、無事に試験をクリアしたということ。「松本順自伝」によれば、簡単な個所が出れば皆目わからなかったがと、一発勝負に出たようで、試験の後、脳が充血して鼻血が出たと述懐。

\次のページで「2-1、良順、長崎伝習所へ留学」を解説!/

2-1、良順、長崎伝習所へ留学

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良順は義父とともに幕府の奥医師として勤務していたが、長崎に出来た海軍伝習所の第二次海軍伝習にオランダから長崎へ軍医が派遣されることを聞き、第二次海軍伝習生を集めていた永井尚志を説得、安政4年(1857年)閏5月、長崎伝習之御用を命じられ、伝習生附御用医という名目で留学

そしてオランダから派遣されたポンペ・フォン・メーデルフェルトに出会い、本格的にオランダ医学を学ぶことに。良順は一応奥医師として身分は高かったため、長崎奉行などに掛け合って医学伝習を海軍伝習から独立させるよう説得、幕臣でないと講義が受けられないという規則があったが、ポンぺの講義は建前上は良順ひとりが受けることになり、他藩から来た他の生徒たちは良順の弟子ということにしてポンペの講義を受けられるようにしたそう。

2-2、良順、海軍伝習所医学所に尽力、病院も設立

安政5年(1857年)11月から、松本良順とその弟子達12名に対し、ポンぺの講義が開始。ポンぺ来日の噂は日本中の蘭学医に伝わったため、緒方洪庵の適塾塾頭だった長与専斎など、次第に多くの医師が集まり大村町の元高島秋帆宅に移転。

長崎奉行岡部駿河守長常はポンペと良順に好意的で助力を惜しまなかったが、安政7年(1859年)大老井伊直弼が、突然オランダ人海軍伝習教官の帰国命令を発令。しかし良順は長崎奉行岡部駿河守と共に医学伝習の存続に尽力したため、ポンペは残留。その後、ポンペは医学校併設の病院設立を幕府に建白、良順も助手として尽力し、文久元年(1861年)、長崎養成所が落成。H型2棟、ベッド数124床、手術室、実験室、薬品庫などを備えている日本初の洋式病院だったということ。

2-3、ポンペにオランダ医学を学ぶ

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不明 - 日本医事新報No.1739 号, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時の日本の蘭方医はリスニングが出来ず、良順と伊之助こと司馬凌海しかポンぺの講義が理解できなかったため、良順はポンぺと他の生徒たちのために通訳や解説も行うなどで、ポンぺ先生から絶大な信頼を得て、「階級、家柄共に門弟中筆頭だし、最も技術堪能で数々の才能とたゆまない熱意をもつ」と評価されたそう。

ポンぺは講義の合間には身分を問わず患者を無料で診察、またロシア兵の長崎寄港の際には、遊女の梅毒検査を実施したり、長崎でコレラが流行したときも、前年に中国で流行したためにいずれは長崎へ来ると予測、治療に尽力、1歳から2歳までの小児218人に種痘を施行し、日本における写真の開祖上野彦馬もポンぺの化学の講義を聴講するなどで、写真の発展にも関与したということ。

そして文久2年(1862年)、ポンペは63名の生徒に卒業証書を渡して帰国。

3-1、良順、江戸の西洋医学所の頭取に

文久3年(1863年)12月、江戸へ帰った良順は奥医師に進んで、緒方洪庵の後任として西洋医学所頭取に就任。江戸でポンペ流の近代医学教育法を導入しようとしたが、医学校なのに時節柄、兵書を読む学生が多いのに憤慨、医学書のみを読めと兵書と文法書講読の禁令を出したところ、医学生がストライキを起こし騒動に。裏で糸を引いていたのは、良順をこころよく思わない蘭方医で奥医師となった伊東玄朴だったようだが、その後、伊東本人が行った不正が明るみに出て失脚し、学生ストライキも収まったそう。

3-2、良順、慶喜の不眠を治す

image by PIXTA / 48898318

元治元年(1864年)2月、当時は参与会議が長州の処罰や横浜鎖港問題で紛糾していたためか、二条城にいた将軍後見職の一橋慶喜が不眠症になったため、良順は要請を受けて江戸から京都まで船で行って診療し、アヘンを少々多めに処方したところ、一発で全快。信任を得たということ。

3-3、良順、新選組の近藤勇と知り合う

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書写者不明 - [1] 国立国会図書館デジタルコレクション, パブリック・ドメイン, リンクによる

元治元年(1864年)10月、良順宅に、新入隊士募集のため江戸に下っていた新選組の近藤勇が来訪。門弟や家人は震え上がったそうだが、良順は動じず招き入れ、近藤の開国と攘夷についてとか、幕府の奥医師が夷敵の医学を用いるのはどうかとか言った質問に対して、漢方医と蘭方医の実態や力量などを語り、わかりやすく日本と西洋の力の差を刀と大砲に例え、やみくもに攘夷を唱えるより国の将来のために開国を支持する答えたために、近藤は良順の率直さに感じ入り義兄弟になってほしいと言ったそう。その後、近藤は再来して良順の診察で胃炎を治してもらい、京都の新選組屯所を訪ねてくれるよう約束したということ。

\次のページで「3-4、良順、家茂将軍に従い、京、大坂へ」を解説!/

3-4、良順、家茂将軍に従い、京、大坂へ

慶応元年(1865年)、良順は将軍侍医として京へ上る家茂将軍に従い京都へ。そして江戸で知り合った新選組の近藤勇の要請で、当時は西本願寺にあった新選組屯所を訪問し、隊士たちの健康診断から屯所の衛生管理も行ったそう。残飯処理のために豚や鶏の飼育をすすめ、豚のと殺方法なども教授、針医の息子だった監察山崎烝に簡単な傷の縫合方法なども教え、会津藩医で順天堂出身の南部精一郎を往診させるなど、新選組を怖がり忌み嫌う人が多いなか、なぜか良順はその後も近藤、土方らをひいきにして幕府瓦解後もかくまったり、資金を調達したり、明治後は彼らの供養碑を建てたということ。

3-5、良順、家茂の最期を看取る

慶応2年(1866年)夏、第2次長州征伐のため、大坂に出陣していた家茂の病状が悪化、病に苦しむ21歳の家茂は良順を頼りにして側を去ることを許さず、同じ布団で寝るようにと命令したほどで、良順は不眠不休で治療にあたったが、7月20日に死去。

3-6、良順、部落解放に貢献

「胡蝶の夢」によれば、良順は三河松助と知り合ったのがきっかけで、浅草弾左衛門を診察して縁が出来たということ。そして、被差別者について知った良順は、慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦い後、江戸へ逃げ帰った将軍慶喜にこのことについて進言し、不合理さを許せない慶喜はそれは知らなかったと即決、浅草弾左衛門らを士分にするという文書にしたということで、これが明治4年(1871年)の賤民身分解放令につながったそう。

良順は正義感の強いまっすぐな性格で、養子に入ったのが奥医師の家とは言え町医の息子、当時の医師と言うのは、僧侶や学者と同じく、武士や町民の士農工商の身分制の外にある法外。なのでもともと身分制度に縛られない感覚を持っていたうえ、長崎でポンぺが身分を問わず病人を診察するのを目の当たりにしたため、こういう差別制度や偏見を許せないところがあったのでは。

もうひとつは、戊辰戦争で将軍抜きで官軍と対抗しようとする幕府抗戦派としては、小大名級と言われる弾左衛門の資金や人力を頼みにしたいところもあったということ。

3-7、戊辰戦争での良順

良順は、歩兵頭格医師、幕府陸軍の軍医として、江戸無血開城の後、今戸に病院を作って傷病者の治療にあたり、引き上げてきた新選組隊士らの面倒もみたそう。

その後は奥羽列藩同盟軍の軍医となり会津に入って多くの傷病者の治療に当たったが、会津藩主松平容保が、決戦を前に他藩の人々を道連れに出来ないと良順や土方歳三らに会津を離れるよう諭したということ。そして良順は会津落城後は仙台に行ったものの、蝦夷地への渡航は断念し、横浜の実父のところへひそかに帰ったのちに捕縛され投獄、禁固刑に。

4-1、明治後の良順

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

良順は、明治2年(1869年)に出獄して父母や妻子と再会、スネル弟を横浜に訪ねていき、今後の相談をしたところ千両を貸してくれたということで、別の外国人にも千両を借りて、妻に預けていたお金なども合わせて早稲田に私立の蘭疇医院を設立

そして明治4年(1871年)患者さんとして診療に来た陸軍大輔山県狂介(有朋)の要請で、兵部省に出仕して軍医頭に就任し、明治6年(1873年)初代軍医総監となり、陸軍軍医制度を確立。軍医としては、公衆衛生学を元にして、牛乳や海水浴、温泉入浴を奨励したということ。良順が勧めたことで神奈川県大磯町は日本初の海水浴場となり、別荘地としても開発したということ。また長野県湯田中温泉を長寿の湯と褒め称えたそう。

また、明治21年には、高幡不動に旧会津藩主松平容保公の篆書、松本良順の揮毫による近藤勇と土方歳三の「殉節両雄之碑」を建立。当初篆額は徳川慶喜に、良順を通じて徳川家の家令に頼んだが、慶喜はただうつむいて落涙するばかりだったので、代わって松平容保に揮毫を頼んだ話は有名。

明治23年(1890年)貴族院議員に、明治38年(1905年)男爵に叙され、明治40年(1907年)3月、大磯で75歳で死去。

骨太の蘭学医として戊辰戦争にも従軍、明治後は陸軍軍医制度を確立

松本良順はそうそうたる蘭学医一家に生まれ、父の友人の幕府の医家の養子となったが、長崎に本物の蘭医が来ると知ると矢も楯もたまらず、養父や幕府を説得して長崎へ行き、ポンぺの弟子として5年間オランダ医学を学んだ人。

身分的には最高の地位でしたが、権威ぶったところは全くなくおまけに優秀、奥医師なのでスキンヘッドでしかもかなりの強面ですが、長崎ではポンぺの建てたオランダ式の病院で施療をしつつ学んだあとは、上は将軍から新選組まで診療、そして幕府瓦解の際、浅草弾左衛門と知り合ったことから、15代将軍慶喜に差別的扱いを解く命令を得、その後の賤民身分解放令につながったとか、戊辰戦争では野戦病院でけが人の治療をするほか、新選組の残党をかくまったり、会津まで行って野戦病院で治療するなど幕府軍側で活躍したため監獄入りに。

明治後は出獄して官に出仕し、陸軍軍医制度を確立、海水浴や温泉治療などを奨励、通俗的なわかりやすい民間治療本を執筆、近藤土方の慰霊碑を建てて名誉回復にも努めたなどの良順の功績を見ると、ポンぺ先生からは「医者はよるべなき病者の友である」という言以上のこと、医学だけではない人間として大事なことも教わったのでは。

" /> 幕末ポンぺに学んだ蘭学医「松本良順」をわかりやすく歴女が解説 – Study-Z
幕末日本史歴史江戸時代

幕末ポンぺに学んだ蘭学医「松本良順」をわかりやすく歴女が解説

今回は松本良順を取り上げるぞ。幕末の蘭学医だっけ、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、松本良順について5分でわかるようにまとめた。

1-1、松本良順は江戸の生まれ

松本良順(りょうじゅん)は、天保3年(1832年)6月、「松本順・長与専斎自伝」によると、当時は田辺庄右衛門という名で旗本伊奈左衛門に仕えていた父佐藤泰然と母たきの次男として江戸麻布の我書坊谷で誕生。幼名は順之助、名は良順、のち明治4年(1871年)、従五位に叙せられた後、「松本順」と改名。号は蘭疇(らんちゅう)、楽痴。

父は薬研堀で塾を開塾後、娘婿の林洞海に塾を任せて佐倉へ移住して病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」(順天堂大学の前身)を開いたため、良順は江戸薬研堀に残って姉の嫁ぎ先の林家で育てられたのち嘉永元年(1848年)、佐倉の父佐藤泰然の元へ。良順の父泰然は蘭方医として乳がんの外科手術を得意としていたが、良順も17歳のころには父佐藤泰然の卵巣手術の助手を務め、その他、乳がん、脱疽、痔ろうなどの切開手術にも助手として立ち会ったそう。

1-2、良順は蘭学者一家の出身

良順の父佐藤泰然は、佐倉藩藩医で蘭学の私塾病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」開設者。実子をすべて養子に出し、一番優秀な弟子を養子として跡を継がせたということ。その跡継ぎで近代医学の基礎を築いた佐藤尚中(たかなか、またはしょうちゅう)と蘭学者の林洞海は姉つるの夫で良順の義兄になり、また林夫妻の長女多津は榎本武揚と結婚、次女貞は赤松則良と結婚し、森鴎外の最初の妻登志子の母となり、6男紳六郎は西周の養子で、海軍中将、貴族院議員を務めた人。そして良順の弟で林夫妻の養子となった董(ただす)は、後に政治家、駐英日本大使に。

1-3、良順、松本家の婿養子に

嘉永2年(1849年)、良順は父の親友である幕府寄合医師の松本良甫(りょうほ)の娘婿となって、跡を継ぐことに。そして蘭医坪井信道の塾に通ったりして勉学に励んだということ。尚、この頃に島倉伊之助こと司馬凌海(りょうかい)が松本家に弟子入りし、良順についてオランダ語を会得、その後、色々あって良順が長崎まで呼び寄せたということ。

1-4、良順、漢方の試験を受ける

良順が松本家に婿入りした年に、漢方医の奥医師の圧力で幕府は蘭方医禁止令を発令。松本家への蘭方医の良順の養子入りにもクレームが付き、義父の松本良甫が幕閣に運動、2か月後に漢方の試験をして合格すれば認めるが、不合格ならば御医師の職を継がせないということになり、良順は修学には5年はかかるという漢方の勉強を60日でやっつけることに

これは代々の奥医師で漢方医の家柄の多紀楽真院の嫌がらせだったので、良順は売られた喧嘩を買うという姿勢で、まるっきり不案内の漢方を養父に習い、それも基礎を無視して多紀氏の著書の難しい個所を丸暗記することで対処して、無事に試験をクリアしたということ。「松本順自伝」によれば、簡単な個所が出れば皆目わからなかったがと、一発勝負に出たようで、試験の後、脳が充血して鼻血が出たと述懐。

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