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グロズヌイとして恐れられた「イヴァン4世(イヴァン雷帝)」の生涯を歴女が5分で解説!

2-1 戴冠式

1547年にイヴァンはロシアで初の皇帝としてツァーリという称号を用いて戴冠式を行いました。このツァーリという称号を使うことによって、国内に向けてではイヴァンが一君主ではなく、皇帝だということを示すためだとされています。また対外的にはロシアの君主は神以外の何にも依存しない独立した君主であることを示すことに。ちなみに皇帝妃のことはツァリーツァと呼ばれ、イヴァンの戴冠式の1月後にロマノフ家アナスターシャが初のこの称号を用いることに。

この戴冠式では、クレムリンにあるウスペンスキー大聖堂で行われました。この時雷帝の母の実家グリンスキー家が権力を高めることになりましたが、その後のモスクワ暴動で失脚。こうしてイヴァンは親政を始めることに。

2-2 領土拡大をめざす

イヴァンは領土拡大を積極的に進めていくことに。イヴァンがカザン=ハン国に目をつけたのは、カザンが国際的な交易の要となっていたヴォルガ川の中流域に面していたため。1552年にカザン=ハン国へ遠征し、カザン包囲戦を展開。こうしてカザンは陥落しモスクワ国家に組み入れることに成功します。一方組み込まれたカザン=ハン国ではロシア化が進むことに。カザン=ハン国のタタール人ロシア正教に改宗した者も。しかしもともとはイスラム教信者だったため、改宗せずに中央アジアへ渡る者もいたそう。その後56年にはカザン=ハン国と同じイスラム教国のアストラハン=ハン国も征服し、ヴォルガ川流域からシベリア方面の道が開かれることに。

2-3 リヴォニア戦争では事実上の敗北を喫した雷帝

イヴァンは東側に位置するカザン=ハン国などを征服していく一方で、西側に位置する地域にも手を伸ばそうと試みることに。

1558年1月にロシア軍がリヴォニアに侵攻を開始しました。リヴォニア戦争です。当初は夏にリヴォニアの半分のエリアをロシアが占領。誰もがロシアの勝利を確信していましたが、ここで思わぬ事態に。なんと半年間の休戦の間に、デンマーク、ポーランド、スウェーデンら各国が介入してくることに。こうして戦争は25年にも及ぶ長い戦いとなりました。1572年にはポーランドがヤケヴォ朝断絶のため空位となり混乱。しかし4年後にトランシルヴァニア公ステファン・バトーリがポーランド王になった後に攻勢を開始。こうしてイヴァンは劣勢に陥り、1582年にポーランドと翌年にはスウェーデンと講和を結びました。この講和によってイヴァンはポーランドにベラルーシとリヴォニアの占領地を、スウェーデンに対してフィンランド湾岸の多くの領土を割譲することに。

2-4 大病を患った皇帝

1553年にイヴァンは病気となりました。その病が重症化したため、イヴァンは自身の後継者として、アナスターシャとの長男ドミトリーを選ぶことに。ところがこれに対して一部の貴族は認めませんでした。これは貴族らが次の皇帝としてイヴァンの5つ下の従兄弟を選んだことと、イヴァンの妃の実家ロマノフ家の影響力が強まることを警戒してのこと。その後イヴァン4世は奇跡的に回復し、この後継者問題は流れました。しかしイヴァンは自身の決定を貴族が認めなかったため、貴族たちを疑心暗鬼するように。

2-5 最愛の妃の死

イヴァン4世は生涯で7回も結婚した人物として知られています。これは同時代人のスペイン王、フェリペ2世よりも多いですね(彼は生涯で4回の結婚)。しかしこの2人は事情が異なります。フェリペの場合は妃が出産や病気で亡くなったのに対し、イヴァンの場合は妃が次々に暗殺で命を落としたため。

最初の妃となったアナスターシャ(アナスタシア)は、花嫁コンテストで選ばれた女性。イヴァンは激しい気性の人物でしたが、彼女は彼を諫めて夫婦仲も良好。彼女との結婚生活は彼の精神状態が一番安定していたと言われています。この2人の間には6人の子どもが生まれ、そのうち成人を迎えたのが優秀な息子イヴァンと知的障害のある弟フョードル。しかしある時アナスターシャは毒殺されることに。彼女はロマノフ家出身で、当時のロマノフ家は弱小な貴族でした。このため、他の名門貴族らは彼女と雷帝の間に生まれた子どもが皇帝位を継承して権力を握ることを阻止するため、彼女を亡き者にしようとしたのでした。

2-6 オプリーチニキによる虐殺

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アポリナリー・ヴァスネツォフ, パブリック・ドメイン, リンクによる

イヴァンは自身の絶対的な権力を行使するため、親衛隊を組織することに。これはオプリーチニキと呼ばれ、貴族の子弟らを隊員としました。オプリーチニキは黒い装束を身にまとい、反逆した者を一掃するという意味でムチの柄にほうきの形をした獣毛をくくりつけ、更にツァーリの敵にかみつくという意から犬の頭を馬の首に下げていたそう。彼らオプリーチニキは、エリート階級の人物の他にもドイツ人やタタール人などの外国人の隊員もいました。そして雷帝に反旗を翻す貴族を弾圧していくことに。

1570年にはノヴゴロド市で3万人もの市民が彼らによって虐殺されることに。イヴァンはノヴゴロド市がポーランド王と繋がっているのではないかと疑ったために起こった悲劇でした。またこれらの恐怖政治を行った結果、経済が低迷。耕作地も放棄される事態に。これを打開しようと、イヴァンは農奴制の強化を図ることに。

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totocco0630