今回は16世紀のロシアに君臨したリューリク朝のイヴァン(イワン)4世についてです。彼は公式で初めてツァーリの称号を使った皇帝として知られているんです。

それじゃあイヴァン4世の生涯をヨーロッパの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパ王室に興味があり、関連書を愛読中。今回は16世紀のロシアを治めたリューリク朝の雷帝こと、イヴァン4世について解説していく。

1 イヴァン4世とは?

image by iStockphoto

イヴァン4世は16世紀のモスクワ公国の大公だった人物。更に1547年に正式に皇帝としてツァーリの称号を使って戴冠し、その後ロシア領土を拡大させたことでも知られています。しかし彼の国内政治は貴族らを弾圧し、人々を虐殺するという恐怖政治を行ったことでも有名。それではまずは彼の幼少期の様子を見ていきましょう。

1-1 クレムリンで誕生した雷帝

イヴァン4世は、1530年の8月にモスクワのクレムリンで誕生。父はヴァシーリー3世で、彼には後継者がいなかったことから、息子の誕生をとても喜んだそう。しかし父ヴァシーリーはイヴァンの母エレナを迎えるにあたり、先妻と離婚した経緯がありました。この時2人の離婚に反対した正教会の総主教が「邪悪な息子を持つだろう」と予言したそう。なんとも不吉ですね。ちなみにイヴァン4世のあだ名が雷帝と呼ばれているのは、生まれた日に雷鳴が轟いたことから。また他には、雷のごとく突然怒り恐怖政治を行ったことからとも言われています。

1-2 わずか3歳で即位

父ヴァシーリーが1533年に死去すると、わずか3歳のイヴァンがモスクワ大公として即位することに。当然3歳の幼い大公では統治できないため、摂政に母エレナが就きます。更にオボレンスキー公の援助を受けて政務を行うことに。ところが母エレナが1538年に亡くなると、貴族らが権力を求めて政治は混乱。8歳となったイヴァンは彼らから冷遇されることに。この時の経験から、彼が疑り深くて苛烈な性格になったのではないかと言われています。ちなみにイヴァンは、勉強はとてもよくできて信仰深い一面も。しかしその一方で鳥などを虐殺や仲間と共に市内を暴れまわるなどの残虐な面も見せました。

2 ツァーリの称号を名乗った最初の皇帝

Ivan the Terrible and Harsey.jpg
アレクサンドル・リトフチェンコ - [1] originally uploaded to Wikipedia by Ghirlandajo on 2 February 2005, パブリック・ドメイン, リンクによる

ツァーリという称号は、イヴァン4世の祖父、イヴァン3世も一時期使っていました。しかし正式にツァーリとして戴冠式を行ったのは雷帝からでした。ここではそんなイヴァン4世の政治について見ていきましょう。

\次のページで「2-1 戴冠式」を解説!/

2-1 戴冠式

1547年にイヴァンはロシアで初の皇帝としてツァーリという称号を用いて戴冠式を行いました。このツァーリという称号を使うことによって、国内に向けてではイヴァンが一君主ではなく、皇帝だということを示すためだとされています。また対外的にはロシアの君主は神以外の何にも依存しない独立した君主であることを示すことに。ちなみに皇帝妃のことはツァリーツァと呼ばれ、イヴァンの戴冠式の1月後にロマノフ家アナスターシャが初のこの称号を用いることに。

この戴冠式では、クレムリンにあるウスペンスキー大聖堂で行われました。この時雷帝の母の実家グリンスキー家が権力を高めることになりましたが、その後のモスクワ暴動で失脚。こうしてイヴァンは親政を始めることに。

2-2 領土拡大をめざす

イヴァンは領土拡大を積極的に進めていくことに。イヴァンがカザン=ハン国に目をつけたのは、カザンが国際的な交易の要となっていたヴォルガ川の中流域に面していたため。1552年にカザン=ハン国へ遠征し、カザン包囲戦を展開。こうしてカザンは陥落しモスクワ国家に組み入れることに成功します。一方組み込まれたカザン=ハン国ではロシア化が進むことに。カザン=ハン国のタタール人ロシア正教に改宗した者も。しかしもともとはイスラム教信者だったため、改宗せずに中央アジアへ渡る者もいたそう。その後56年にはカザン=ハン国と同じイスラム教国のアストラハン=ハン国も征服し、ヴォルガ川流域からシベリア方面の道が開かれることに。

2-3 リヴォニア戦争では事実上の敗北を喫した雷帝

イヴァンは東側に位置するカザン=ハン国などを征服していく一方で、西側に位置する地域にも手を伸ばそうと試みることに。

1558年1月にロシア軍がリヴォニアに侵攻を開始しました。リヴォニア戦争です。当初は夏にリヴォニアの半分のエリアをロシアが占領。誰もがロシアの勝利を確信していましたが、ここで思わぬ事態に。なんと半年間の休戦の間に、デンマーク、ポーランド、スウェーデンら各国が介入してくることに。こうして戦争は25年にも及ぶ長い戦いとなりました。1572年にはポーランドがヤケヴォ朝断絶のため空位となり混乱。しかし4年後にトランシルヴァニア公ステファン・バトーリがポーランド王になった後に攻勢を開始。こうしてイヴァンは劣勢に陥り、1582年にポーランドと翌年にはスウェーデンと講和を結びました。この講和によってイヴァンはポーランドにベラルーシとリヴォニアの占領地を、スウェーデンに対してフィンランド湾岸の多くの領土を割譲することに。

2-4 大病を患った皇帝

1553年にイヴァンは病気となりました。その病が重症化したため、イヴァンは自身の後継者として、アナスターシャとの長男ドミトリーを選ぶことに。ところがこれに対して一部の貴族は認めませんでした。これは貴族らが次の皇帝としてイヴァンの5つ下の従兄弟を選んだことと、イヴァンの妃の実家ロマノフ家の影響力が強まることを警戒してのこと。その後イヴァン4世は奇跡的に回復し、この後継者問題は流れました。しかしイヴァンは自身の決定を貴族が認めなかったため、貴族たちを疑心暗鬼するように。

2-5 最愛の妃の死

イヴァン4世は生涯で7回も結婚した人物として知られています。これは同時代人のスペイン王、フェリペ2世よりも多いですね(彼は生涯で4回の結婚)。しかしこの2人は事情が異なります。フェリペの場合は妃が出産や病気で亡くなったのに対し、イヴァンの場合は妃が次々に暗殺で命を落としたため。

最初の妃となったアナスターシャ(アナスタシア)は、花嫁コンテストで選ばれた女性。イヴァンは激しい気性の人物でしたが、彼女は彼を諫めて夫婦仲も良好。彼女との結婚生活は彼の精神状態が一番安定していたと言われています。この2人の間には6人の子どもが生まれ、そのうち成人を迎えたのが優秀な息子イヴァンと知的障害のある弟フョードル。しかしある時アナスターシャは毒殺されることに。彼女はロマノフ家出身で、当時のロマノフ家は弱小な貴族でした。このため、他の名門貴族らは彼女と雷帝の間に生まれた子どもが皇帝位を継承して権力を握ることを阻止するため、彼女を亡き者にしようとしたのでした。

2-6 オプリーチニキによる虐殺

Oprichnik by Vasnetsov.jpg
アポリナリー・ヴァスネツォフ, パブリック・ドメイン, リンクによる

イヴァンは自身の絶対的な権力を行使するため、親衛隊を組織することに。これはオプリーチニキと呼ばれ、貴族の子弟らを隊員としました。オプリーチニキは黒い装束を身にまとい、反逆した者を一掃するという意味でムチの柄にほうきの形をした獣毛をくくりつけ、更にツァーリの敵にかみつくという意から犬の頭を馬の首に下げていたそう。彼らオプリーチニキは、エリート階級の人物の他にもドイツ人やタタール人などの外国人の隊員もいました。そして雷帝に反旗を翻す貴族を弾圧していくことに。

1570年にはノヴゴロド市で3万人もの市民が彼らによって虐殺されることに。イヴァンはノヴゴロド市がポーランド王と繋がっているのではないかと疑ったために起こった悲劇でした。またこれらの恐怖政治を行った結果、経済が低迷。耕作地も放棄される事態に。これを打開しようと、イヴァンは農奴制の強化を図ることに。

\次のページで「3 雷のごとく統治したイヴァン4世」を解説!/

3 雷のごとく統治したイヴァン4世

このようにオプリーチニキを組織し人々を恐怖政治で支配したことで、ロシア語でグロズヌイと恐れられたイヴァン4世。そんな彼のエピソードや晩年についてこの章では見ていきましょう。

3-1 エリザベス1世に求婚していた

Elizabeth I (Armada Portrait).jpg
かつてはジョージ・ゴアの作とされていた。 - http://www.luminarium.org/renlit/elizarmada.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

イヴァン4世のエピソードとして、イングランド女王エリザベス1世に求婚したことが知られています。彼はイングランドとの交易をきっかけにイングランドへ接近し、女王に求婚。ところが当時のロシアは3流国と見做されていました。更に宗教についても問題が。ロシアではギリシャ正教の流れを汲んだものを信仰していたため、ヨーロッパ各国の君主らはロシアと婚姻関係を結びたがりませんでした。エリザベスの場合ももちろん相手にせず。ちなみに彼女には、イヴァン4世の他にももっと魅力的な人物たち(スペイン王フェリペ2世フランス王アンリ3世の弟など)がいたそう。しかし結局彼女は誰とも結婚せず処女王として独身を貫くことに。

3-2 突然の退位宣言

イヴァンは1564年に突然の退位宣言を行いました。その理由としては、多くの貴族らがリヴォニア戦争に反対しクリミア=ハン国の征服を求めて雷帝と対立したため。しかし他の理由としては、1対1ならば貴族の力を弱めることに成功したイヴァンでしたが、依然として貴族や聖職者らの権力は強かったのです。そのため、専制政治を行っていたイヴァンでも貴族や聖職者らからの要求に恐怖を感じるようになったことが原因でした。

1か月経ってもイヴァンは退位宣言を撤回することはなかったため、多くの人々が困惑することに。そんな中、イヴァンは2通の手紙を送ることに。1通は貴族や聖職者に宛てたもの。これにはイヴァンに対して裏切りを行う者をかばっているとし、裏切り行為に耐えられなくなり退位したという内容。もう一方は民衆に送った手紙で、彼らからの支持を取り付けることに成功したイヴァン。彼は退位宣言を撤回する条件として無条件の非常大権を得ることに。この強力な権力を持ったことで、先述したオプリーチニキが誕生。ちなみにイヴァンは後年再び退位宣言しましたが、その真意は未だに謎とされています。

3-3 息子殺しのイヴァン4世

Iván el Terrible y su hijo, por Iliá Repin.jpg
イリヤ・レーピン - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる

これはロシア絵画の巨匠、イリヤ・レーピン「イヴァン雷帝とその息子」。巨大なキャンバスには老いたツァーリと青年が描かれています。しかしよく見ると青年は頭から血を流し、目は虚ろ。薄いピンクのガウンに包まれた身体は自らを支えられずに今にも崩れてしまいそうになっていますね。これを抱きしめ、懸命に血を止めようとする雷帝。これは一体どういうシーンなのでしょうか。

実は怒りで我を忘れた雷帝が皇太子のイヴァン(イワン)を手にかけてしまった場面。息子のイヴァンは父帝に抗議するため、彼の居室を訪れていました。きっかけは皇太子妃が妊娠し体調を崩したため、行事に簡単な服装で出たことを雷帝に咎められることに。この頃の雷帝は気に入らないことがあると、杖で相手を叩くことがしばしば。この時も例外ではでなく、皇太子妃も叩かれ、更にこれがもとで流産。皇太子のイヴァンはこれに対し文句を言おうとし、頭に血が上った父に殺されてしまうことに。

3-4 晩年に再びイングランドと急接近を試みた雷帝

有力な後継ぎを自らの手で殺めてしまった雷帝は、頼りない息子フョードルしかいなかったため再び再婚することに。相手は重臣の娘、マリヤ。しかしマリヤを妃に迎えた直後に彼は信じられない行動に出ました。なんとまたイングランドへコンタクトを取り、エリザベスの親戚のハンティンドン伯爵の娘レディー・メアリ・ヘイスティングスとの婚姻を打診したのです。しかしエリザベス1世はこの縁談を進めず、更にマリヤが男児を出産したことで立ち消えになることに。ちなみにこのマリヤの産んだドミトリーはイヴァンが7回目の結婚だったことから、庶子と見做されることに。

\次のページで「3-5 雷帝の死後は混乱の時代へ」を解説!/

3-5 雷帝の死後は混乱の時代へ

雷帝は53歳で亡くなりました。その後はフョードルがツァーリを継承することに。しかし彼は知的障害を抱え、子どもも成すこともできませんでした。こうなると、水面下では貴族らによる権力争いが激しさを増すことに。最有力候補には、ツァーリの母の実家ロマノフ家とツァーリの妃の実家のゴドゥノフ家が。そしてゴドゥノフ家が権力を握り、ロマノフ家の有力者だったアナスターシャの甥フョードル・ニキーチチ・ロマノフを修道院へ追放することに。また彼の妻子を別の修道院へ送るという徹底ぶりでした。またゴドゥノフ家のボリスは雷帝の血を引く、庶子ドミトリーを手にかけたとも言われています。こうしてフョードル1世の死後、7年ほどロシアを動かしたボリスでしたが彼は病で倒れることに。その後も政治は混乱し、16歳だったロマノフ家のミハイル・ロマノフによって以後300年続く王朝が開かれることになりました。

恐怖政治によってロシアをまとめた雷帝イヴァン4世

わずか3歳でモスクワ大公となったイヴァン4世。しかし彼の幼少期は、彼を利用して権力を手にしようとする貴族らに冷遇されることに。ここから彼の性格は疑り深い人物となったとも言われています。

そして親政を開始すると、領土拡大を目指してモンゴル諸国から領土を獲得することに。残念ながら長きに渡って戦ったリヴォニア戦争では何も得ることはできず。国内政治では恐怖政治を敷いてまさに雷のごとく人々から恐れられることに。

彼は生涯で7回も結婚し、優秀な息子イヴァンを後継者にと考えていましたが一瞬の過ちから息子の命を奪うことに。これは単なる息子殺しではなく、自身のリューリク朝に止めを刺した形となりました。彼の死後は政治は混乱し、アナスターシャの実家ロマノフ家のミハイル・ロマノフがロマノフ朝を開くことに繋がっていくことに。

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ヨーロッパの歴史ロシア世界史歴史

グロズヌイとして恐れられた「イヴァン4世(イヴァン雷帝)」の生涯を歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は16世紀のロシアに君臨したリューリク朝のイヴァン(イワン)4世についてです。彼は公式で初めてツァーリの称号を使った皇帝として知られているんです。

それじゃあイヴァン4世の生涯をヨーロッパの歴史に詳しいまぁこと一緒に解説していくからな。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパ王室に興味があり、関連書を愛読中。今回は16世紀のロシアを治めたリューリク朝の雷帝こと、イヴァン4世について解説していく。

1 イヴァン4世とは?

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イヴァン4世は16世紀のモスクワ公国の大公だった人物。更に1547年に正式に皇帝としてツァーリの称号を使って戴冠し、その後ロシア領土を拡大させたことでも知られています。しかし彼の国内政治は貴族らを弾圧し、人々を虐殺するという恐怖政治を行ったことでも有名。それではまずは彼の幼少期の様子を見ていきましょう。

1-1 クレムリンで誕生した雷帝

イヴァン4世は、1530年の8月にモスクワのクレムリンで誕生。父はヴァシーリー3世で、彼には後継者がいなかったことから、息子の誕生をとても喜んだそう。しかし父ヴァシーリーはイヴァンの母エレナを迎えるにあたり、先妻と離婚した経緯がありました。この時2人の離婚に反対した正教会の総主教が「邪悪な息子を持つだろう」と予言したそう。なんとも不吉ですね。ちなみにイヴァン4世のあだ名が雷帝と呼ばれているのは、生まれた日に雷鳴が轟いたことから。また他には、雷のごとく突然怒り恐怖政治を行ったことからとも言われています。

1-2 わずか3歳で即位

父ヴァシーリーが1533年に死去すると、わずか3歳のイヴァンがモスクワ大公として即位することに。当然3歳の幼い大公では統治できないため、摂政に母エレナが就きます。更にオボレンスキー公の援助を受けて政務を行うことに。ところが母エレナが1538年に亡くなると、貴族らが権力を求めて政治は混乱。8歳となったイヴァンは彼らから冷遇されることに。この時の経験から、彼が疑り深くて苛烈な性格になったのではないかと言われています。ちなみにイヴァンは、勉強はとてもよくできて信仰深い一面も。しかしその一方で鳥などを虐殺や仲間と共に市内を暴れまわるなどの残虐な面も見せました。

2 ツァーリの称号を名乗った最初の皇帝

Ivan the Terrible and Harsey.jpg
アレクサンドル・リトフチェンコ[1] originally uploaded to Wikipedia by Ghirlandajo on 2 February 2005, パブリック・ドメイン, リンクによる

ツァーリという称号は、イヴァン4世の祖父、イヴァン3世も一時期使っていました。しかし正式にツァーリとして戴冠式を行ったのは雷帝からでした。ここではそんなイヴァン4世の政治について見ていきましょう。

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