今回は17世紀のイングランドで起こった名誉革命についてです。これはカトリック教徒のジェームズ2世を問題視した議会が国王を追放してプロテスタントのジェームズの娘夫婦をイングランドへ招いたクーデタです。

なぜ国王は追放されることになったのか、ヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に興味がある。今回は17世紀のイングランドで起こった名誉革命について解説していく。

1 名誉革命とは?

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名誉革命とは、17世紀のイングランドで起こった無血のクーデタです。これはカトリック教徒のジェームズ2世が先専制政治を行ったことで議会が国王を追放。そしてジェームズの娘でオランダへ嫁いだプロテスタントのメアリらを招いて2人が共同統治することになった出来事です。ではなぜ国王は追放されることになったのか、ピューリタン革命後から見ていきましょう。

1-1 王政復古で復活したステュアート朝

Triple portrait of Charles I.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク - Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

ピューリタン革命によってチャールズ1世は処刑されることに。その後のイングランドではクロムウェルの独裁が続いていました。しかし彼の死後の1660年に王政復古を果たします。こうして長きにわたり亡命生活をしていた1世の息子チャールズ2世として即位。即位する1か月前にはブレダ宣言をしました。このブレダ宣言はピューリタン革命に関係した者を大赦すること、信仰の自由認めたことや軍隊への未払いだった賃金の保証など4つの宣言を行ったそう。しかし実際にチャールズは国王となると、父王を死に追いやった裁判官ら14名を処刑。既に亡くなったクロムウェルについては墓を暴き死体を八つ裂きにし、更に首を刎ねてロンドン橋に吊るしたそう。当時はこれが残虐だとは思われず、むしろ罰則の対象範囲を拡大させなかったことが評価されました。

1-2 議会は国教会以外の信仰者を弾圧することに

王政復古を果たしたチャールズでしたが、議会はピューリタン革命前の状態に戻すことをしたわけではありませんでした。1661年にはピューリタン弾圧法が成立。これは国教徒以外の者が都市の役人となることを禁じたことや国教会以外の宗教の集会を開くことを禁じた秘密礼拝禁止法などによって、ピューリタンとカトリック教徒などを弾圧するためのものでした。この王政復古体制によって議会と国教会を尊重するスタイルが築かれることに。

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1-3 カトリック擁護の姿勢を見せたチャールズ

ところがこの体制が次第に崩壊していくことに。しかもそのきっかけとなったのは、他ならぬ国王チャールズでした。彼は1662年にカトリックが不当に差別を受けていることを訴え、信仰自由宣言を出すことに。これはカトリックの擁護にほかならず、民衆の間では国王がカトリック教徒なのではないかという疑いの目が。議会はチャールズの宣言を撤回する動きを見せました。

人々が不信感を募らせる根拠は、国王の信仰自由宣言の他にもルイ14世の存在が。ルイ14世とチャールズ(及び次の国王ジェームズ)は従兄弟の関係。更に亡命生活では支援してくれた人物でした。しかしルイはカトリック国の国王であり、侵略政策を行ってプロテスタント国オランダに侵攻していたため、オランダの次の標的はイングランドではないかという危機感がありました

1-4 審査法によってジェームズがカトリックであることが判明

1670年になると、チャールズがルイ14世とドーヴァの密約を結んだことが明らかになりました。これはチャールズがカトリックへの改宗を宣言することを条件に、ルイがチャールズに対して年金を給付し更に軍事的な支援をするというもの。このような国王の動きに対して、議会は反ピューリタン、反オランダという姿勢から反カトリック、反フランスという姿勢に変化していくことに。1673年には審査法を制定することに。これは公職に就けるのは国教とのみという内容でした。これによってなんと次期国王候補だったヨーク公ジェームズがカトリックだったことが判明。これは国民にとってかなりの衝撃的な事実でした。

1-5 ジェームズ2世の即位

議会はジェームズがカトリックだったことを受けて、ジェームズに対する王位継承排除法案を提出することに。この時カトリックのジェームズを認めないとした人々は請願派、認めるとした人々のことを嫌悪派と呼びます。前者が後のホイッグ党、後者がトーリ党と呼ばれるように。国内ではカトリック国王の誕生を阻止する運動が起こりましたが、結局チャールズが請願派の訴えを退けることに。

その後1685年2月にチャールズ2世は54歳でこの世を去りました。しかしここで大きな問題が。なんと死の間際に国教会ではなく、カトリックの神父を呼び寄せたのです。チャールズやジェームズの母方の祖父が改宗を繰り返したことで知られるアンリ4世なのを考えると、表向きはプロテスタントと言って偽り裏では既にカトリック信者となっていたのですね。チャールズの死からわずか2か月後にジェームズは即位。多くの国民はカトリックの国王に反対していた中での即位となりました。

2 国王ジェームズ2世の治世

James II statue 1.jpg
CC 表示-継承 2.5, リンク

兄チャールズ2世は当初は議会と協力的な姿勢を見せていましたが、次第にカトリック擁護の動きを見せるように。更に審査法によって次期国王候補だったジェームズがカトリック教徒だったことが判明しました。これに対しカトリックの国王を排除しようとする動きが出たものの、チャールズの反対にあって結局法案は否決され、ジェームズ2世が誕生することに。それではジェームズの治世はどのようなものだったのか見ていきましょう。

2-1 ジェームズ2世の専制政治

イングランドで最後のカトリック王となったジェームズ2世。彼の治世はわずか3年でした。即位後にチャールズ2世の庶子であるモンマス公が反乱を起こすことに。この反乱はすぐに鎮圧され、モンマス公は処刑。更にこの反乱に参加した者に対して血の巡回裁判という過酷な処罰が行われました。

ジェームズはこの反乱が鎮圧された後も軍隊を解散させず、更に1687年に信仰自由宣言を行うことに。この時にカトリックの審査法の適用除外を主張したことで、カトリック教徒が公職に就けるようになりました。またオクスフォード大学をカトリック化しようとし、反対した議会を解散させることに。その後も国教会の聖職者らに信仰自由宣言を教壇から朗読することを強要し、これに反対したカンタベリ大司教ら7人を投獄しました。このような動きから、プロテスタントらは団結し議会は協力し合うきっかけとなることに。

2-2 ジェームズにカトリックの後継者が誕生することに

そんな最中にジェームズに待望の息子が生まれることに。彼はアン・ハイドと結婚していましたが、アンは1671年に他界。2人の間にはメアリアンが誕生することに。妃の死から2年後にメアリー・オブ・モデナと結婚。1687年に彼女は男子を産みました。2人の息子ジェームズ・フランシス・エドワードは早速洗礼を受けることに。このカトリックの王太子の誕生に、議会では危機感が強まりホイッグ党とトーリ党の指導者が協力することになりました。

\次のページで「2-3 密にオランダからメアリらを呼び戻すことに」を解説!/

2-3 密にオランダからメアリらを呼び戻すことに

1662 Mary II.jpg
ピーター・レリー - http://www.royaltyguide.nl/images-families/stuart/1662%20Mary-10.jpg originally uploaded on de.wikipedia by Thyra (トーク · 投稿記録) at 2007年12月13日, 12:37. Filename was 1662 Mary II.jpg., パブリック・ドメイン, リンクによる

こうしてジェームズが即位してわずか3年で彼の人気は地に落ちることに。そんな中議会は動き出すことに。議会はオランダへ嫁いだジェームズの長女メアリとその夫ウィレムをイングランドへ迎えることに決めたのです。メアリは父と違いプロテスタントを信仰しており、夫もまたプロテスタント。更にルイ14世と戦っていたため、議会はこの2人が国王となることをとても好ましく感じていました。

当初ウィレムは慎重な姿勢を見せることに。イングランドへ武力を用いて上陸することは侵略だと思われるのを避けたい考えがあったからでした。そしてウィレムは遠征をプロテスタントの擁護が目的とし、王国と法律の自由の維持に関しては議会に任せると明言することに。こうしてウィレムは5万の兵士を引き連れてイングランドへ向かいました。

3 名誉革命

The arrival of King-Stadholder Willem III (1650- 1702) in the Oranjepolder on 31 January 1691.jpg
Ludolf Bakhuizen - 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

ジェームズ2世は専制政治を行い、更にカトリック教徒の擁護や国内のカトリック化に着手するようになりました。そして1687年にはカトリック教徒の息子が生まれたことで、議会はイングランドが再びカトリックの国王となることに警戒心を抱きました。そのため、プロテスタントでありステュアート家出身のメアリ夫妻を国内に招くクーデタを起こすことに。それでは詳しく見ていきましょう。

3-1 革命勃発!

こうしてオラニエ公ウィレムは1688年11月にイングランドへ上陸。このウィレムの上陸は圧倒的な支持を得ました。カトリックへの反発からロンドンではローマ教皇の人形を燃やす「教皇焼き」というデモが行われることに。ジェームズは甥の上陸の報を受けて返り討ちにしようとしますが、ジェームズ側に味方していた親戚や家臣らが寝返ることに。更に軍隊がジェームズの為に戦う意思がないことが分かると、彼は12月にフランスへ亡命しました。こうして名誉革命では一滴の血が流れることなく終わりを迎えることに。

こうして入れ違いにロンドンへ入ったウィレムは議会の招集を約束しました。そして翌年の1月に開催された仮議会において国王ジェームズは国民との契約を反故にして国政を覆そうとしたことや逃亡し統治権を放棄したたため、現在王位は空位となっていると宣言しました。

3-2 ジェームズの抵抗

名誉革命によってイングランドからフランスへ亡命したジェームズ。しかし彼は諦めていませんでした。従兄弟のルイ14世から兵を提供してもらい、1689年3月にアイルランドに上陸。アイルランドはカトリック国だったため、ジェームズがやってきたことに対してイングランドに抵抗するチャンスと捉えます。ジェームズのアイルランド上陸の情報を得たウィレムは自ら指揮を執ることに。1690年にボイン川の戦いでジェームズに勝利。そして再びジェームズはフランスへ亡命しました。この戦いによってアイルランドはよりイングランドの植民地化が進むことに。議会はプロテスタントが牛耳り、イングランドにいる地主から土地を奪われ、農作物も輸出の制限をかけられることになりました。

3-3 名誉革命の後に成立した権利章典

名誉革命によってイングランドへ招かれることになったメアリとその夫のウィレム。このウィレムですが、オランダ総督という肩書を持っていましたが彼もまたステュアート家の出身。このため国民にとっては彼らがイングランドを共同統治することについて納得しやすかったそう。1689年議会が作った権利宣言に2人はサインし、ウィリアム3世メアリ2世として共同統治することに。

同じく1689年には権利章典が成立しました。権利章典とは、憲法に値するほどの重要なもの。権利章典では、国王の専制政治、議会の同意のない課税や宗教裁判所の設置を違法とされることに。つまり議会によって国王の権限を制限するという内容でした。これによってイングランドでは立憲君主制が確立されることに。

\次のページで「3-4 カトリック教徒の継承を禁じた王位継承法」を解説!/

3-4 カトリック教徒の継承を禁じた王位継承法

権利章典では3部に分かれており、第3部では王位継承について書かれています。ここではカトリック教徒の継承が禁じられることに。これは先のジェームズ2世の教訓が生かされた結果でした。1701年の6月、権利章典での方針を踏まえてより具体的な内容となった王位継承法が明文化されることに。この成立によってカトリック教徒のジェームズの息子に継承権が認められなくなりました。

17世紀に起こった無血のクーデタ「名誉革命」

兄チャールズ2世の死後、カトリック教徒でありながらイングランド国王となったジェームズ2世。彼は議会を無視した専制政治を展開することに。更にカトリック教徒の女性と再婚し、彼女との間に息子が誕生。しかもジェームズが洗礼を受けさせたことから、再びカトリック国王の誕生するかもしれない事態となりました。このため議会はオランダへ嫁いだジェームズの長女メアリとその夫ウィレムをイングランドに招くことに。こうしてウィレムは5万もの兵を連れてイングランドへ上陸し、ジェームズは兵も家臣も親族も彼の為に動かなかったことからフランスへ亡命。こうして一滴の血が流れることなくクーデタが成功しました

その後メアリはメアリ2世、ウィレムはウィリアム3世として即位。イングランド至上初の共同統治者となりました。2人は即位の前に権利宣言にサインし、議会が権利の章典を成立させました。これは国王の権限を制限するもので、これによってイングランドは立憲君主制が確立することになりました。また王位継承法によってこれ以降国王にカトリック教徒がなることは禁じられることに。

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17世紀のイングランドで起こった「名誉革命」を簡単に歴女が5分でわかりやすく解説!

今回は17世紀のイングランドで起こった名誉革命についてです。これはカトリック教徒のジェームズ2世を問題視した議会が国王を追放してプロテスタントのジェームズの娘夫婦をイングランドへ招いたクーデタです。

なぜ国王は追放されることになったのか、ヨーロッパ史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパ史が好きなアラサー歴女。特にヨーロッパの王室に興味がある。今回は17世紀のイングランドで起こった名誉革命について解説していく。

1 名誉革命とは?

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名誉革命とは、17世紀のイングランドで起こった無血のクーデタです。これはカトリック教徒のジェームズ2世が先専制政治を行ったことで議会が国王を追放。そしてジェームズの娘でオランダへ嫁いだプロテスタントのメアリらを招いて2人が共同統治することになった出来事です。ではなぜ国王は追放されることになったのか、ピューリタン革命後から見ていきましょう。

1-1 王政復古で復活したステュアート朝

Triple portrait of Charles I.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイクRoyal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

ピューリタン革命によってチャールズ1世は処刑されることに。その後のイングランドではクロムウェルの独裁が続いていました。しかし彼の死後の1660年に王政復古を果たします。こうして長きにわたり亡命生活をしていた1世の息子チャールズ2世として即位。即位する1か月前にはブレダ宣言をしました。このブレダ宣言はピューリタン革命に関係した者を大赦すること、信仰の自由認めたことや軍隊への未払いだった賃金の保証など4つの宣言を行ったそう。しかし実際にチャールズは国王となると、父王を死に追いやった裁判官ら14名を処刑。既に亡くなったクロムウェルについては墓を暴き死体を八つ裂きにし、更に首を刎ねてロンドン橋に吊るしたそう。当時はこれが残虐だとは思われず、むしろ罰則の対象範囲を拡大させなかったことが評価されました。

1-2 議会は国教会以外の信仰者を弾圧することに

王政復古を果たしたチャールズでしたが、議会はピューリタン革命前の状態に戻すことをしたわけではありませんでした。1661年にはピューリタン弾圧法が成立。これは国教徒以外の者が都市の役人となることを禁じたことや国教会以外の宗教の集会を開くことを禁じた秘密礼拝禁止法などによって、ピューリタンとカトリック教徒などを弾圧するためのものでした。この王政復古体制によって議会と国教会を尊重するスタイルが築かれることに。

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