『痴人の愛』は日本を代表する作家である谷崎潤一郎による小説。カフェーの女給をしていたナオミに惹かれていく男性の歪んだ愛を描いた作品です。小説の時代設定は、昭和モダンが台頭するまえの大正時代。主人公が愛する少女ナオミは、当時の西洋風の生活を楽しむ、モダンガールの先駆けとなる存在です。

『痴人の愛』は、時代の描かれ方に注目することで、谷崎の目を通した昭和モダンの萌芽を感じ取ることができる。それじゃ、学生時代に文学を専攻していたライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本文学史を語るとき『痴人の愛』を避けて通ることはできない。『痴人の愛』は谷崎潤一郎の代表作のひとつ。今回は『痴人の愛』と昭和モダンの関係を解説する。

『痴人の愛』とはどのような作品?

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『痴人の愛』は日本を代表する小説家である谷崎潤一郎により書かれた長編小説。カフェーの女給をしていた15歳のナオミを育て、自分の妻にした男性の回想という形式で物語が進みます。彼女に取りつかれて言いなりになっていく過程が、大正時代の風俗描写と共に描き出されました。

『痴人の愛』の作者は谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は、明治時代の末期から第二次世界大戦後のあいだに活躍した小説家。男女のどろどろとした恋愛を扱うことに優れていました。小説は、時代物から現代物まで幅広く、スキャンダラスな内容が含まれることが特徴です。

谷崎潤一郎自身も女性関係が派手で、結婚、離婚、再婚、妊娠、中絶といったスキャンダルが常に話題となりました。このような女性関係があったからこそ、小説のなかで女性の姿を巧みに描くことができたとも言えます。

新聞に連載されるも途中で見合わせに

『痴人の愛』は大正13年に3か月ほど『大阪朝日新聞』に連載されますが中断。その理由は、はっきり分かりませんが、15歳の少女と深い関係になる設定が問題視されたと言われています。

その後、雑誌『女性』に発表の場を移し、9か月に渡って小説の続きを連載。批判はあったものの、ナオミの生き方は「昭和モダン」が生まれつつある時代に共感を呼び、「ナオミズム」という言葉が生まれるほど話題となりました。

『痴人の愛』の時代設定は具体的に示されていませんが、連載開始時の大正13年の7年前から始まる5年間の回想なので、大正6年から大正11年にかけての物語と考えられます。「昭和モダン」とは、西洋のライフスタイルを積極的に取り入れる昭和初期のムーブメント。ナオミは、西洋風のファッションや生活、そして自由な恋愛を楽しむ女性として描かれています。回想中に「今では当たり前になったが」という趣旨の表現が何度も登場。そこで、昭和モダンの先駆けとなる文化や価値観を描いた小説として『痴人の愛』を解説してみました。

15歳のナオミと出会うのは浅草のカフェー

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主人公である譲治が、のちに自分の妻にする少女ナオミと出会ったのは浅草にあるカフェーでした。その時のナオミの年齢はなんと15歳。今の時代なら、15歳で接客業の仕事をすることは絶対にできません。それが可能だった大正時代の就労事情が分かる箇所がありますので見ていきましょう。

私が初めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことです。もっとも何月の何日だったか、委しいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフェエ・ダイヤモンドという店の、給仕女をしていたのです。彼女の歳はやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフェエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、(略)。

『痴人の愛』(中公文庫、7頁)

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カフェの女給は10代の少女も多数

譲治の回想によると、ナオミが給仕として働いていたのは、浅草にあるダイヤモンドという名前のカフェー。今では、カフェーと聞くと喫茶店のことかと思いますが、当時はやや方向性が異なります。当時のカフェーはいわゆる風俗店の一種で、そこで働くウェイトレス=給仕女はホステスのような位置づけでした。

もともとカフェーは、文化人が集まり芸術や文学について語り合うサロンのようなところ。当初の給仕をする人はウェイターつまり男性です。しかし、女性が給仕をするようになると、それを目当てに集まる男性客が増えていき、カフェーは風俗店としての様相を強めていきました。

アメリカの映画女優に似ている顔立ちのナオミ

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『痴人の愛』のなかで、譲治がナオミの容姿を絶賛する箇所がたびたび見られます。そこから分かるのが、ナオミは日本人離れした西洋風の顔立ちをしていたこと。そして譲治自身も、西洋風の美に強くこだわるタイプでした。彼女の名前も、西洋風に対するこだわりから、あえてカタカナにしていることも明かされます。

実際のナオミの顔立ちは、(断っておきますが、私はこれから彼女の名前を片仮名で書くことにします。どうもそうしないと感じがでないのです)活動女優のメアリー・ピックフォードに似たところがあって、確かに西洋人じみていました。(略)そして顔立ちばかりでなく、彼女を素っ裸にして見ると、その体つきが一層西洋人臭いのですが、それは勿論後になってから分かったことで、その時分には私もそこまでは知りませんでした。

『痴人の愛』(中公文庫、8頁)

モダンガールのお手本はハリウッド映画の女優

『痴人の愛』には、たびたび「メアリー・ピックフォード」という名前が出てきます。メアリーは1910年代~1920年代のハリウッドで活躍した女優のひとり。実年齢よりも幼く見える愛らしい顔つきが人気で、「アメリカの恋人」と言われるほどでした。譲治の回想から、ナオミの顔立ちはメアリー・ピックフォードにそっくりな、西洋風の愛らしさがある顔だちだったことが分かります。

大正時代の終わりから昭和初期にかけて、西洋の女優のファッションを真似する女性が増加。彼女たちはモダンガールと言われました。モダンガールがお手本とした女優のひとりがメアリー・ピックフォード。譲治によると、ナオミはメアリー・ピックフォードに無理やり似せているのではなく、本質的に似ていました。譲治にとってナオミは、西洋をマネする女性ではなく「西洋そのもの」だったのです。

『痴人の愛』の主人公・譲治が憧れるモダンな生活

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『痴人の愛』の回想者である譲治は西洋風の生活に対する憧れがとても強い男性。そこで、西洋風の容姿のナオミを手に入れたあと、2人で生活するために、西洋風の部屋づくりを進めていきました。譲治とナオミが部屋のレイアウトを考える場面はかなり生き生きとしたもの。どのように西洋風の部屋を作るのか、あれこれ思案していることが分かります。それでは引用文を見てみましょう。

私たちは印度更紗の安物を見つけて来て、それをナオミが危ッかしい手つきで縫って窓かけに作り、芝口の西洋家具やカラ古い籐椅子だのソトファだの、安楽椅子だの、テーブルだのを捜して来てアトリエに並べ、壁にはメアリー・ピックフォードを始め、亜米利加の活動女優の写真を二つ三つ吊るしました。そして私は寝道具なども西洋流にしたいと思ったのですけれど、ベッドを二つも買うとなると入費が懸かるばかりでなく、(略)。

『痴人の愛』(中公文庫、26頁)

大正末期から昭和初期にかけてライフスタイルが大きく変化

譲治とナオミは、2人で暮らす新居を彩る家具やカーテンを用意し、夢中になってそれらを配置していきます。2人の目標は西洋の人と同じような暮らしをすること。共通の理想を実現するために、あれやこれやと工夫していることが、この引用文から分かります。

ナオミが似ているとされるメアリー・ピックフォードなど、アメリカの映画女優の写真を用意。それを壁に貼ることで、西洋の雰囲気を補強していきます。ただ、完全に西洋風の部屋を完成させるためには、かなりのお金を工面する必要がありました。そこで、寝具は実家のものを使用。部屋のすべてを西洋スタイルにすることは断念しました。

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『痴人の愛』のショッピングスポットは銀座と横浜

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モダンな生活を追求する譲治とナオミのお買い物スポットとして登場するのが銀座です。明治時代以降、銀座にはデパートの先駆けとなる大型のお店が続々と登場。モダンボーイやモダンガールが、新しいおしゃれを求めて集まってくる、最新情報の発信基地のような存在となっていました。

殊にその頃は、ほとんど日曜日の度毎に三越や白木屋に行けないことはなかったでしょう。とにかく普通の女物ではナオミも私も満足しないので、これはと思う柄を見つけるのは容易ではなく、在り来たりの呉服屋では駄目だと思って、更紗屋だの、敷物屋だの、ワイシャツや洋服の裂を売る店だの、わざわざ横浜まで出かけて行って、支那人街や居留地にある外国人向けの裂屋だのを、一日がかりで尋ね廻ったことがありましたっけが、(略)。

『痴人の愛』(中公文庫、49頁)

最新のファッションを取り扱うデパートの誕生

三越は江戸時代に起源がある元呉服屋です。昭和3年に「三越」と改称した際、パンフレットでデパートメントストア宣言という表現を使ったことから、三越開店がデパートの出発点とされました。白木屋は東急百貨店の前身で、三越と同じく、デパートの先駆け的存在です。

銀座のデパート文化を開花させた2つのお店が譲治とナオミの行きつけでした。しかし銀座だけでは、自分たちが欲しい品をそろえることはできませんでした。そこで2人は、こだわりの品を求めて、もうひとつのモダンスポットである横浜まで足を延ばします。

『痴人の愛』で描かれたモダンガールのアレンジ術

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ファッションに強いこだわりを持つナオミは、既製品で満足することはできません。そこで、譲治と一緒に買い集めた布を使って、独自にアレンジをしました。彼女のアレンジ術は、大正時代の女性のファッションとしてはかなり奇抜なものでした。

近頃でこそ一般の日本の婦人が、オルガンディーや、ジョウゼットや、コットン・ボイルや、ああいうものを単衣に仕立てることがポツポツ流行ってみましたけれども、あれに始めて目をつけたものは私たちではなかったでしょうか。(略)それも真面目な着物ではいけないので、筒ッぽにしたり、パジャマのような形にしたり、ナイト・ガウンのようにしたり、反物ののまま身体に巻きつけてところどころをブローチで止めたり、(略)。

『痴人の愛』(中公文庫、50頁)

巧みに和洋折衷のアレンジをするナオミ

ナオミは、西洋から輸入された布地を使って着物を仕立てていることが、この引用分から分かります。着物と言っても、普通の着物ではなく、大胆にアレンジしたものでした。なぜならモダンガールにとって「真面目」や「普通」はNGだったからです。

布地を羽織ってブローチで止めるだけという大胆なアレンジにも挑戦していたナオミ。大正時代の日本では、ナオミのファッションや振る舞いは、日本の常識から大きく逸脱するものでした。この描写から、道を歩くだけでも目立つ存在であったナオミの姿を想像できそうですね。

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男女の出会いの場であるカフェーが登場する『痴人の愛』

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大東京写真帖 - 『大東京写真帖』1930, パブリック・ドメイン, リンクによる

譲治とナオミの物語のなかで、とりわけ重要な位置を占めているのがカフェーです。先にも触れましたが、カフェーは喫茶店ではなくホステスがいるクラブやバーのようなところ。そんなカフェーがどのように描写されているのか、次に見ていきましょう。

騒々しいジャズ・バンドの音を聞きながら梯子段を上がっていくと、食堂の椅子を取り払ったダンス・ホールの入口に、
"Special Dance-Admission:Ladies Free, Gentlemen ¥3.00"と記した貼紙があり、ボーイが一人番をしていて、会費を取ります。勿論カフェエのことですから、ホールと云ってもそんなに立派なものではなく、(略)。

『痴人の愛』(中公文庫。106頁)

カフェーはコーヒーを飲むだけのところではない

この引用箇所から分かることは、カフェーは男女の出会いの場。バンドの生演奏と共に、男女が体を触れ合いながら踊ることもできます。つまりカフェーとは、飲んだり食べたり踊ったりできるクラブのようなところ。ホステス=給仕がダンスの相手をすることもあったようです。

たくさんの客を集めるためには、ダンスの相手となる女性の選択肢が増えることが大切。美しい女性が集まるカフェーは繁盛しました。そこでダンスに参加する場合、男性は有料、女性は無料というシステムを採用。ダンスに参加する女性をたくさん集めて、男性の客を増やそうとしていることが分かります。

ナオミの浮気相手の熊谷は西洋風色男

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『痴人の愛』のなかには明確に記されていませんが、ナオミは譲治以外の男性とも付き合っていました。おそらく浮気相手は1人ではなく数名おり、かなり自由な恋愛を楽しんでいたことが示唆されています。『痴人の愛』には、浮気相手のひとりを詳しく描写している個所がありますので、見ていきましょう。

なにしろちょっと女好きのする顔立ちで、すっきりした、役者のような所があって、ダンス仲間で「色魔の西洋人」という噂があったばかりでなく、ナオミ自身も「あの西洋人は横顔がいいわね、どこかジョン・バリに似てるじゃないの」(略)と、そう云っていたくらいだから、確かにあれに眼を付けていたのだ。

『痴人の愛』(中公文庫、250頁)

ナオミの浮気相手と思われる男性はジョン・バリモアに似ている美男子。西洋人のような顔立ちで知られた存在でした。「色魔」と言われていることから、女性を積極的に口説く男性で、恋人もたくさんいたようです。

西洋風のライフスタイルに強い憧れを抱くナオミは、その男性に興味深々。二股や三股は当たり前という男性とナオミは深い関係になったようです。譲治はそれを察して、執拗に聞き込みなどをしますが、現場を押さえることはできませんでした。

『痴人の愛』から昭和モダンのリアルを読み解く

『痴人の愛』を読み進めていくと、西洋風のライフスタイルに憧れる若者の行動や心理が、とてもよく分かります。これは小説ですが、完全なフィクションと捉えてしまっていいのでしょうか。ナオミのモデルは当時の谷崎潤一郎の妻の妹。譲治は、谷崎本人の姿が反映されていると言われています。スキャンダラスな内容に目が行きがちな『痴人の愛』。しかし、その描写はとてもリアリティーがあります。それは、西洋の文化に強い憧れを抱く若者が実際に存在していたから。「昭和モダン」の台頭により、西洋に憧れる若者が増えていた時代。小説としてはもちろん歴史の生きた資料としても『痴人の愛』は貴重な作品だと言えますね。

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日本史昭和歴史

谷崎潤一郎『痴人の愛』はどんな話?そこで描かれた昭和モダンの萌芽を元大学教員がわかりやすく解説

『痴人の愛』は日本を代表する作家である谷崎潤一郎による小説。カフェーの女給をしていたナオミに惹かれていく男性の歪んだ愛を描いた作品です。小説の時代設定は、昭和モダンが台頭するまえの大正時代。主人公が愛する少女ナオミは、当時の西洋風の生活を楽しむ、モダンガールの先駆けとなる存在です。

『痴人の愛』は、時代の描かれ方に注目することで、谷崎の目を通した昭和モダンの萌芽を感じ取ることができる。それじゃ、学生時代に文学を専攻していたライターひこすけと一緒に解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。日本文学史を語るとき『痴人の愛』を避けて通ることはできない。『痴人の愛』は谷崎潤一郎の代表作のひとつ。今回は『痴人の愛』と昭和モダンの関係を解説する。

『痴人の愛』とはどのような作品?

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『痴人の愛』は日本を代表する小説家である谷崎潤一郎により書かれた長編小説。カフェーの女給をしていた15歳のナオミを育て、自分の妻にした男性の回想という形式で物語が進みます。彼女に取りつかれて言いなりになっていく過程が、大正時代の風俗描写と共に描き出されました。

『痴人の愛』の作者は谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は、明治時代の末期から第二次世界大戦後のあいだに活躍した小説家。男女のどろどろとした恋愛を扱うことに優れていました。小説は、時代物から現代物まで幅広く、スキャンダラスな内容が含まれることが特徴です。

谷崎潤一郎自身も女性関係が派手で、結婚、離婚、再婚、妊娠、中絶といったスキャンダルが常に話題となりました。このような女性関係があったからこそ、小説のなかで女性の姿を巧みに描くことができたとも言えます。

新聞に連載されるも途中で見合わせに

『痴人の愛』は大正13年に3か月ほど『大阪朝日新聞』に連載されますが中断。その理由は、はっきり分かりませんが、15歳の少女と深い関係になる設定が問題視されたと言われています。

その後、雑誌『女性』に発表の場を移し、9か月に渡って小説の続きを連載。批判はあったものの、ナオミの生き方は「昭和モダン」が生まれつつある時代に共感を呼び、「ナオミズム」という言葉が生まれるほど話題となりました。

『痴人の愛』の時代設定は具体的に示されていませんが、連載開始時の大正13年の7年前から始まる5年間の回想なので、大正6年から大正11年にかけての物語と考えられます。「昭和モダン」とは、西洋のライフスタイルを積極的に取り入れる昭和初期のムーブメント。ナオミは、西洋風のファッションや生活、そして自由な恋愛を楽しむ女性として描かれています。回想中に「今では当たり前になったが」という趣旨の表現が何度も登場。そこで、昭和モダンの先駆けとなる文化や価値観を描いた小説として『痴人の愛』を解説してみました。

15歳のナオミと出会うのは浅草のカフェー

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主人公である譲治が、のちに自分の妻にする少女ナオミと出会ったのは浅草にあるカフェーでした。その時のナオミの年齢はなんと15歳。今の時代なら、15歳で接客業の仕事をすることは絶対にできません。それが可能だった大正時代の就労事情が分かる箇所がありますので見ていきましょう。

私が初めて現在の私の妻に会ったのは、ちょうど足かけ八年前のことです。もっとも何月の何日だったか、委しいことは覚えていませんが、とにかくその時分、彼女は浅草の雷門の近くにあるカフェエ・ダイヤモンドという店の、給仕女をしていたのです。彼女の歳はやっと数え歳の十五でした。だから私が知った時はまだそのカフェエへ奉公に来たばかりの、ほんの新米だったので、(略)。

『痴人の愛』(中公文庫、7頁)

\次のページで「カフェの女給は10代の少女も多数」を解説!/

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