日本史

カリスマ的僧侶空海が高野山に築いた「真言宗」を歴史オタクがわかりやすく5分で解説

よぉ、桜木健二だ。「真言宗」は平安時代初期に空海が日本に持ち帰って以降、現代にまで残る仏教の宗派のひとつだな。

今回は「真言宗」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野!

1.そもそも「密教」ってなに?

ちょっと今回は仏教用語が多いので、最初に用語の解説を交えて前提のお話をしますね。

「真言宗」は、「大乗仏教」の宗派のひとつです。「大乗仏教」では、修行した僧侶ひとりだけではなく、生きとし生きるものすべてが救われると教えられます。

仏教には大きく分けて二種類ありまして、「大乗仏教」に対して、戒律を重視し、修行したもののみが悟りを開いて救われるというのが「上座部仏教」でした。

そして、「真言宗」は「密教」のひとつで、「密教」は「秘密仏教」の省略です。

日本人の僧侶「空海」が唐で学び、日本に持ち帰ったことで、平安時代初期の日本、和歌山県の高野山にて「真言宗」が開かれました

「密教」と「顕教」の違い

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空海は仏教を「顕教」と「密教」の二種類に分類しました。

「顕教」はお釈迦さまが衆生救済のために説き顕した教えで、これは経典を読めば誰にでもわかるとされています。反対に、「密教」は真理そのものの現れとされる大日如来が説いた秘密の教えのこと。

ここでいう「秘密」というのは、人智を越えたあらゆるものごとに作用する奥深い「神秘」のことを指します。たとえば、人間の力ではどうにかすることのできない日々の天候から嵐、病気、そして国家の平穏などですね。「密教」は、段階を経た修行者に少しずつこの「秘密」を公開していくというスタイルです。

また、「顕教」が何度も輪廻転生して長い時間をかけなければ悟りを開けないとされるのに対して、「密教」では生きたまま今世で悟りが開けるとしています。これは「即身成仏」といって、正しい学びと実践をすれば誰でも悟りを開けるという思想でした。

密教で加持祈祷を行う理由

密教の体系的経典に『大日経』というものがあります。正式には『大毘盧遮那成仏神変加持経』といい、「大毘盧遮那」は「光り輝く大きな仏」という意味で、日本では「大日如来」と翻訳されました。

大日如来は天の中心で太陽のように輝いていて、すべてのものは大日如来の神変(不思議な力)によって加持(守護)されていると言われています。大日如来のこのお力を願う一種の儀式として「加持祈祷」が発展しました。

真言密教の修法を「三密加持」といい、三密加持を行うことで「即身成仏」に到達するとされています。「三密」とは「身口意の三業」のことで、これを砕いて簡単に言うと、人間がする体の行動と、口にする言葉、心の意志のことをさしました。だから、「三密加持」では行者が手印を結び、口で真言(呪文)を唱え、心を仏にむけて念じるのです。そうすると、やがて「即身成仏」ができるようになるといわれています。

実際に行われた加持祈祷では、除災招福や、病魔退散、雨乞いなどさまざまな祈りが込められていました。

護摩を焚く修法

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坊さんが仏像の前で火をおこして真言を唱えているシーンをテレビなんかで見たことありませんか?

それは「護摩」といって、密教独自の修法のひとつです。燃やしているのは願い事や、先祖の供養を書いた木札で、「護摩木」といいます。

密教の僧侶が、本尊の仏像の前の護摩壇の炉に護摩木をくべながら、不動明王の真言を唱えるのです。

インド生まれの「密教」

インドのヒンドゥー教の一派に呪文や祭文(タントラ)を唱えて神々に祈るタントラ教がありました。タントラ教の儀式と仏教が混ざりあって生まれたのが「密教」です。7世紀に『大日経』と『金剛頂経』の体系的な密教の経典や、多様な仏さまがいる密教の世界観を現した「曼荼羅」が成立したことで完成したとされています。以降、インドの仏教界では「密教」が隆盛していきました。

しかし、5世紀頃から起こっていた仏教弾圧や、12世紀の現在のアフガニスタンにあったゴール朝(イスラム教政権)のインド侵略などがあって、当時のインドは仏教にとって非常に芳しくない状況にあったのです。このために、仏教徒たちはヒンドゥー教かイスラム教への改宗か、あるいは、国外逃亡を余儀なくされてしまいます。それで、インドの仏教は衰退の一途をたどってしまったんですね。

インドは仏教の発祥地ですが、インドよりも他の地域で多く信仰されているのは、こういう歴史的背景があったからです。

密教、インドから中国へ

中国に初期の密教経典が入ったのは南北朝時代(439年から589年)でした。その後、618年に成立した「唐」の時代に入り、インドから『大日経』と『金剛頂経』がもたらされました。二書により、中国では天台教学をはじめ、中国人による仏教思想が完成していったのです。

このとき、『金剛頂経』を中国に紹介した「不空(ふくう)」の弟子に「恵果(えか)」という僧侶がいました。この恵果こそがのちに空海の師匠となる人物です。

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密教の誕生はインドだったわけだが、時代の憂き目を見てインド仏教自体が衰退してしまった。だが完全に仏教が滅亡したわけじゃない。中国に経典が渡り、それが「空海」に伝授されて、いよいよ日本にやってきたんだ。

2.真言宗の開祖「空海」

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空海は774年に讃岐国(香川県)の地方官吏の息子として生まれました。官吏の子どもたちは国ごとに設置された国学という学校で勉強して、その上にある都の大学寮を目指します。当時の大学では中国の古典や律令(法律)を学ぶ官吏養成所でした。

空海はその官吏コースを途中まで歩むのですが、18歳で大学に入った後、二、三年してやめてしまいます。そうして、山へ入って山林修行をはじめました。紀伊半島や四国の山々を巡って修行したそうです。

この山林修行の間に空海は『大日経』などの密教経典と出会い、さらに唐の言葉を学んだのではないかと考えられています。

31歳で唐へ留学

31歳となった空海は留学僧として遣唐使の船団に加わることとなります。留学期間は二十年。非常に長く思えますが、遣唐使は原則「二十年一来(20年に一度)」と規定化されていました。空海は行きと同じ船で帰って来るように命じられていたのです。

同じ船団には、のちに「天台宗」を開く「最澄」もいました。ただし、このとき最澄は桓武天皇に認められた一流の僧侶です。対して、空海は無名の留学僧にすぎませんでしたから、ふたりに面識はありません。入唐後も行動は別々で交流する機会もありませんでした。

青龍寺の「恵果」の弟子に

唐の長安(今の西安)についた空海は、青龍寺の「恵果」に弟子入りします。この当時、恵果は長安の青龍寺でいろんな地域から集まってきた弟子たちに法を授けていました。

空海もそのなかのひとり……なのですが、恵果は空海を見るなり、彼がすでに過酷な修行を十分に積んでいたのを見抜きます。そうして、すぐに密教の奥義を授けることにしたのです。

恵果が空海に授けたのは密教の奥義だけではありません。空海のために多くの経典や曼荼羅、法具をつくって持たせてくれたのです。それからしばらくもしないうちに恵果は入寂(僧侶が亡くなること)してしまいました。

空海は恵果の遺志を受け継いで日本に密教を伝えるべく、二年目に修行を切り上げて帰国の途につきます。このとき、偶然にも遭難の憂き目にあって出港が遅れた遣唐使船に乗って帰国することができたのです。

早すぎる帰国に困惑する朝廷

空海は表向きには「唐に二十年留学するための滞在費が底をついた」ことにして許可を取り、遣唐使船に乗り込みました。しかし、朝廷としては約束の二十年どころか、たった二年で帰ってきてしまった空海を扱いかねてしまいます。

本来なら、留学期間を破った空海は闕期(けつご)の罪に問われるのですが、恵果が持たせてくれた数々の経典や法具をとても無視することはできません。

そこで朝廷は空海に二年間は都へ戻ってはいけない処分を下しました。その間、空海は大宰府(九州)の観世音寺に滞在したとされています。

高野山に金剛峯寺を建立

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入京を許され、無事に空海が都に戻ったのは809年。空海は高雄山寺(後の神護寺。京都市右京区)の僧侶になりました。そうして、嵯峨天皇から支持を受けた空海は、816年に高野山に真言密教の山岳道場をつくる勅許を得ました。

建立に当たって、空海は弟子を高野山に送り、さらに紀伊国(和歌山県)の豪族の力を借ります。しかし、高野山は紀伊国の北部に連なる山々に囲まれた盆地で、険しい道を越えた先にあり、そのために建設は長引いて、とうとう空海の生前に完遂できませんでした。

その後、空海の没後に弟子で甥の真然が二十年かかってようやく根本大塔や伽藍を整備します。けれど、苦労したそのときの建物は、落雷や火災によってほとんど現存していません。

密教が鎮護国家の仏法になる

日本には古くから「仏教は国家を守護して安定させる力がある」という「鎮護国家」の思想がありました。「奈良の大仏」で有名な東大寺は「鎮護国家」の中心地だったのです。

空海は嵯峨天皇の勅命によって東大寺に密教の修法を行う真言院を建立しました。修法は前章で解説した加持祈祷や護摩のことですね。

翌年には平安京の「東寺」を真言密教の道場として「教王護国寺」と改めます。さらに、宮中にも真言院をつくって真言密教の修法を正月の行事としました。

高野山、東大寺、東寺、そして宮中と、日本の重要な場所に次々と勢力を広げることとなったのです。

空海は今も生きている?

空海が入寂したのは835年、62歳です。遺体は火葬されたとされていますが、高野山金剛峰寺の奥の院で入定(真言密教の修行のひとつで、永遠の瞑想にはいること)していると高野山の公式見解にあります。つまり、空海は亡くなったのではなく、今も生きて瞑想をしているのです。

これは、空海の入定の三年前に行われた高野山での初めての萬燈萬華会で、空海が書いた誓願のためでした。

その誓願の内容を要約すると、「苦しむ人々がいなくなり、悟りの必要がなくなったときに、世の人々を救いたいという私の願いはようやく果たされます」というもの。

「苦しむ人々がいなくなるまで」という願いを果たすために、空海は高野山金剛峰寺の奥の院で深い瞑想状態にあります。なので、救いを求める人々の前にいつでもあらわれて助けてくださるのです。

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空海は日本に密教を持ち帰り、「真言宗」を開いた。その前後にも空海のカリスマっぷりが光るなぁ。普通の僧侶が訪ねて行ったところですぐに奥義伝授とはならんだろう。帰国後も嵯峨天皇に認められて高野山に金剛峯寺を建立する他、朝廷からいくつもの公共事業や、中務省の仕事を請け負っているぞ。

3.空海の入定後、本末争い

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独立するそれぞれの寺院

空海は入定する前、教王護国寺や金剛峯寺を弟子たちに託します。まず、教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済となりました(他にも仁和寺などがありますが、今回はちょっと割愛)。

空海の入定後、それぞれの寺院が独立の傾向にあり、教団としての団結に欠いてしまったとされています。

教王護国寺と金剛峯寺

寺院の本寺と末寺の間の争いを「本末争い」といいます。平安時代中期ごろ、これが平安京の教王護国寺と、高野山の金剛峯寺の間で起こってしまいました。

本末争いに敗れたのは金剛峯寺。そのため、教王護国寺を本寺、金剛峯寺を待寺とし、さらに一時的に教王護国寺の代表者が真言宗を統括することにもなりました。そこへきて、長年の努力によって整備された高野山に雷が落ちてお堂が焼失、と、泣きっ面に蜂もいいところな散々な目にあいます。これらのことが原因で、金剛峯寺は衰退し、ついには人がいなくなる事態にまで陥ったのです。

金剛峯寺の救世主「藤原道長」

この絶望的な状態を救ったのが、平安時代中期の貴族「藤原道長」でした。藤原氏の中でも最も有名な人物ですね。藤原道長は高野山に参詣したことによって、金剛峯寺の復興が進み、さらには道長に続けとばかりに皇族や貴族たちの参詣が始まったのです。

その後、金剛峯寺は皇族や貴族たちから経済的な援助を受けて安定したのでした。

真言宗の大きな存在

数々の修法を行い、徐々に段階を踏んで秘密の教えを学んでいく密教。そのひとつが、弘法大師空海が日本で開いた「真言宗」でした。空海でなければ成し得なかったと思われるほど彼の活躍はすさまじく、それを証明するように空海の入定後に金剛峯寺は一時的に衰退してしまいますね。本当に空海という存在は真言宗にとって大きかったのです。

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