「天台宗」は平安時代初期に日本に伝わり、今でも滋賀県は比叡山、延暦寺を総本山として教えを広めているぞ。

今回はその「天台宗」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.中国で生まれた「天台宗」

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仏教の起源は、紀元前五世紀のインド。ガウタマ・シッタールダ(釈迦)がブッダガヤで悟りを開き、人々に広めたのが最初です。

そのお釈迦様の死後、仏教は主に「大乗仏教」と「上座部仏教」の二つの流れに分けられました。

簡単に解説すると、「大乗仏教」は修行した僧侶ひとりだけではなく、生きとし生きるものすべてが救われるという教えです。逆に「上座部仏教」は戒律を重視し、修行したもののみが悟りを開いて救われるというものでした。

今回解説する「天台宗」は「大乗仏教」の宗派のひとつです。

「天台宗」の実質的な祖「智顗」

古くから日本に存在する「天台宗」。しかし、その起こりは日本ではなく、六世紀の中国「隋」の時代でした。「隋」は「西晋」が滅んで以来約300年ぶりの中国の統一王朝でしたが、しかし、二代目の皇帝「煬帝(ようだい)」の失策によって短命に終わってしまった国家です。

その煬帝が深く帰依し、尊敬を現したのが「智顗(ちぎ)」という僧侶でした。煬帝が智顗に「智者」の称号を贈ったため「智者大師」とも呼ばれています。

「智者」の称号の通り、智顗はたった一度お経を聞いただけで覚えてしまうような、非常に頭のいい人だったのです。

智顗は十八歳で出家して、高名な僧侶として有名だった「慧思(えし)禅師」に入門して修行を始めました。そこで智顗は「法華経」を学び、悟りを開いたとされています。

また、智顗が修行したのは中国の浙江省にある天台山という山で、昔から聖地とされてきた場所でもありました。智顗の晩年には天台宗の中心的な寺院となる「国清寺」が建設されます。(残念ながら、智顗の生前に完成しませんでしたが。)

「諸経の王」とされる「法華経」

Lotus Sutra (TNM N-12).jpg
C8/9 brushwork - http://www.emuseum.jp/detail/100905, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時、インドから中国に伝わったたくさんの経典を調べた智顗は、そのなかでも「法華経」に「すべての人に悟りの世界を」という教えが述べられていたため、「法華経」が最も尊く、すべての人を救うお経だと確信します。そうして、この教えに注目した智顗は「法華経」を中心にした「天台教学」を完成させたのです。

「天台教学」は、『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三冊の本にまとめられ、日本には、奈良時代に来日した高僧「鑑真」が伝えることとなります。

聖徳太子は智顗の生まれ変わり?

日本に仏教が伝来したのは538年。飛鳥時代のことです。朝廷では朝鮮半島の「百済」の聖王から公伝された仏教を推進するかどうかの論争が起こりました。それで賛成派(崇仏派)の蘇我氏と、反対派(廃仏派)の物部氏の間で揉めに揉め、ついには「丁未の乱」へと発展していきます。このとき、蘇我氏側にはまだ年若かった聖徳太子(厩戸王)がいました。「丁未の乱」は崇仏派の勝利に終わり、かくして、日本に仏教が根付き始めたというわけです。

「丁未の乱」ののちに、聖徳太子は大阪に四天王寺を建立。さらに、「法華経」の注釈書として『法華義疏』、『勝鬘経』の注釈書『勝鬘経義疏』、『維摩経』の注釈書『維摩経義疏』の三冊を自ら執筆しました。この三冊は合わせて『三経義疏』と呼ばれます。

それに加えて、聖徳太子は「十七条の憲法」のふたつめに仏教や僧侶を大切にしなさいという条文をつくりました。

聖徳太子が仏教を厚く保護し、広めたことから、中国には「智顗は聖徳太子として生まれ変わり、日本に法華経を広めた」という伝説があります。

\次のページで「2.最澄によって日本に伝えられる」を解説!/

2.最澄によって日本に伝えられる

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日本の天台宗の正式名称を「天台法華円宗」といいます。

奈良仏教界と朝廷間のゆがみ

奈良時代の終盤、孝謙天皇(称徳天皇)が僧の道鏡を寵愛したことで、孝謙天皇は自らも出家して尼僧となって仏教重視の政策をとったり、また、奈良仏教界からの朝廷への干渉や専横が問題となっていました。この奈良仏教界と朝廷の関係に歪みを失くすべく、桓武天皇は平安京への遷都を決意したのです。

そうして、奈良に寺院を構える宗派が平安京へ移転するのを許さず、新たに奈良の寺院に対抗できる宗派をたてることにしました。

日本天台宗の開祖「最澄」と「一乗止観院」

奈良時代の末期、767年、比叡山のふもとに生まれた「伝教大師最澄」は子どものころから近江の国分寺に入り、19歳で授戒を受け、僧侶として暮らしていました。

「授戒」というのは、僧侶になるための儀式のことで、この当時はふたつの授戒を経てようやく国家の認めた正式な僧侶(官僧)となれるのです。

正式な僧侶となると普通は国分寺の僧になるのですが、最澄は比叡山に登って「一乗止観院」という草庵を建て、そこに薬師如来を祀り山林修行を始めました。この「一乗止観院」こそ現在にまで続く「比叡山延暦寺」のもととなった仏堂です。

「一乗止観院」に込められた意味

最澄が自身の草庵に名付けた「一乗止観院」。この名前は最澄がよりどころとした「法華経」から取られたものでした。

「一乗」は「法華一乗」の「一乗」のこと。

インドの大乗仏教では、悟りを開くための三種類の教えと実践方法をそれぞれ「声聞」「縁覚」「菩薩」といい、乗物に例えて「三乗」と総称しました。この「三乗」を最終的に包括したものが「法華経」だ、という思想が「法華一乗」であり、最澄が開く「天台宗」の中心となる思想です。もう少し簡単な言い方をすると「どんな教えも最終的には「法華経」につながっている」ということですね。

「止観」は静かに自分の心を見つめる瞑想法のことで、天台宗の中心的な修行方法です。

桓武天皇に見いだされる

当時の奈良仏教界は、それぞれ「三論宗」「成実宗」「法相宗」「倶舎宗」「華厳宗」「律宗」という六つの宗派があり、まとめて「南都六宗」と呼ばれていました。しかし、南都六宗には「法華経」を中心にすえた宗派はありません。

「法華経」は聖徳太子の時代に伝来して以来、「鎮護国家」の経典として重要視されてきました。「鎮護国家」とは、「仏教には国家を守護して安定させる力がある」という思想です。

前述した通り、最澄はこの「法華経」をよりどころとしていて、南都六宗のとはまた違った考えの持ち主だということがわかりますね。

平安京へ遷都した三年後、桓武天皇は一乗止観院で修行していた最澄を平安京に呼び出します。そこで最澄を「内供奉十禅師」のひとりに任命しました。「内供奉十禅師」は、宮中の仏事を行う十人の僧侶のこと。天皇の安穏や、国家の安泰、五穀豊穣の祈願などの重大な仕事を担う役目でした。

さらに、桓武天皇は、本場で天台宗を学びたいという最澄を遣唐使の船に乗せて送り出します。すでに中国は「隋」から「唐」へ変わっていましたが、天台宗は唐でも大きな宗派として存続していたのです。

日本の天台宗のはじまり

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たった一年の留学でしたが、最澄はその短い間に智顗が残した天台教学や戒律、密教、禅の四つの思想を学んで帰国します。

それから再び比叡山の一乗止観院に戻って、天台宗の僧侶を国家プロジェクトへ参加できるよう桓武天皇に頼みつつ、一乗止観院を天台宗の僧侶たちの修行の場としました。

「法華一乗」の思想では、他の経典もすべて最終的には「法華経」につながるのですから、天台宗の僧侶たちは一乗止観院で「法華経」以外のいろんな経典も学び、多様な修行を行うのです。

余談ですが、「一乗止観院」が「延暦寺」となるのは最澄が亡くなったあとのこと。現在の「一乗止観院」は比叡山延暦寺の総本堂「根本中堂」です。

\次のページで「最澄の晩年」を解説!/

最澄の晩年

従来の授戒を捨てたり、密教を取り入れたりと、天台宗は新たな取り組みを行ったため、南都六宗からの反発も軽くはありませんでした。最澄の晩年はそんな南都六宗との論争に明け暮れたといいます。

特に、法相宗の徳一との「三一権実の論争」が代表的ですが、この論争は双方が亡くなってしまったため、ふたりの間で決着がつくことはありませんでした。

3.仲違いで山門派と寺門派が誕生

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密教を取り入れた平安二宗

南都六宗は、経典を読めばみんな悟りを開く方法がわかるとして、誰にでも情報公開を行う「顕教」というスタイルでした。

対して、天台宗、そして同じ時期に日本で開かれた「空海」の「真言宗」は、修行者に段階を経て少しずつ教えを公開するという「密教」スタイルです。

現在の天台宗は「台密」とも呼ばれ、「密教」を内包する宗派となっています。ところが、最澄が唐で学んで持ち帰った「密教」は、いわゆる傍系のもので、本家筋の密教を学んで帰った空海に教えを乞うことになりました。しかし、その最中に最澄の弟子が何の断りもなく真言宗に改宗したり、最澄と空海の間で仏教観の違いが起こるなどして、ふたりは決別することとなったのです。

ここで天台宗における密教の編入は止まってしまうのですが、最澄の没後になって最澄の弟子「円仁」と「円珍」が唐へ渡り、天台宗の密教が整えられていきました。

世界三大旅行記

円仁は唐への旅を『入唐求法巡礼行記』と題した日記に書き綴りました。なかには九世紀の中国の社会や風習についても書かれ、史料としても高く評価されています。

その苦難に満ちた旅路の記録から、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、玄奘三蔵(『西遊記』の三蔵法師)の『大唐西域記』と並ぶ「世界三大旅行記」に数えられています。

円仁派と円珍派の対立

円仁、円珍が天台密教を整え、亡くなったあとのこと。ふたりが持ち帰った経典や仏画の研究が比叡山で深められていきましたが、円仁の弟子と円珍の弟子の間で解釈違いが起こったのです。

しかし、両者は一歩も譲らないどころか、争いが高じて円仁派が円珍派の僧房に火をつけるという事件が発生してしまいます。そのため、約1000人にのぼる円珍派の僧侶たちは延暦寺を下り、園城寺(三井寺)へと入りました。園城寺はかつて円珍が拠点としていた寺院です。

こうして、天台宗はふたつの派閥に分かれることとなりました。比叡山に残った円仁派を「山門派」園城寺に移った円珍派を「寺門派」といいます。

4.武装した僧侶たち

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\次のページで「「天下三不如意」のひとつ、僧兵」を解説!/

「天下三不如意」のひとつ、僧兵

「賀茂川の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなはぬもの」

『平家物語』に、平安時代後期に絶大な権力を誇った白河天皇がこのように嘆いたという記述があります。「賀茂川の水」は賀茂川の水害、「双六の賽」はサイコロの目、そして、「山法師」は強訴を繰り返す延暦寺の僧兵のことをさしました。

強訴とは、徒党を組んで訴えること。当時、武装した僧兵たちが御神輿を担いで都までやってきて、いろいろと要求する事態が多発していたのです。要求の内容は、他の寺院より自分たちを優遇することだったり、自分たちの荘園への侵害に対する抗議でした。

朝廷側が武力で封じ込めようにも、神様の権威を借りた御神輿がありますから、うかつなことはできません。だから、白河法皇は山法師こと、比叡山の僧兵たちに相当な手を焼いたのです。

僧兵の誕生した背景

そもそも、平安時代の治安はよくありませんでした。寺院には寄進などによって得た広大な荘園がありましたが、それを守るのは自分たちしかいません。僧侶たちのなかには貴族や武家の出身者も多く、彼らは自衛のために自ら武装する道を選びました。これが僧兵のはじまりです。

延暦寺だけでなく、園城寺や奈良の興福寺、東大寺など大きな寺院は、特に大きな武力を有していきました。戦国時代には織田信長と敵対するほどの大勢力だったんですよ。

最澄の没後も発展し続けた宗派

最初は南都六宗に対する新勢力として買われた最澄と天台宗でしたが、その後の発展は目覚ましく多くの僧侶を排出することになります。

円仁派と円珍派の対立はありながらも、両派ともに現代にまで約1200年も続く大きな寺院となりました。

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平安時代日本史歴史

平安時代から続く「天台宗」とは?歴史オタクがわかりやすく5分で解説

「天台宗」は平安時代初期に日本に伝わり、今でも滋賀県は比叡山、延暦寺を総本山として教えを広めているぞ。

今回はその「天台宗」について歴史オタクのライターリリー・リリコと一緒に解説していきます。

ライター/リリー・リリコ

興味本意でとことん調べつくすおばちゃん。座右の銘は「何歳になっても知識欲は現役」。大学の卒業論文は源義経をテーマに執筆。平安時代は得意分野。

1.中国で生まれた「天台宗」

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仏教の起源は、紀元前五世紀のインド。ガウタマ・シッタールダ(釈迦)がブッダガヤで悟りを開き、人々に広めたのが最初です。

そのお釈迦様の死後、仏教は主に「大乗仏教」と「上座部仏教」の二つの流れに分けられました。

簡単に解説すると、「大乗仏教」は修行した僧侶ひとりだけではなく、生きとし生きるものすべてが救われるという教えです。逆に「上座部仏教」は戒律を重視し、修行したもののみが悟りを開いて救われるというものでした。

今回解説する「天台宗」は「大乗仏教」の宗派のひとつです。

「天台宗」の実質的な祖「智顗」

古くから日本に存在する「天台宗」。しかし、その起こりは日本ではなく、六世紀の中国「隋」の時代でした。「隋」は「西晋」が滅んで以来約300年ぶりの中国の統一王朝でしたが、しかし、二代目の皇帝「煬帝(ようだい)」の失策によって短命に終わってしまった国家です。

その煬帝が深く帰依し、尊敬を現したのが「智顗(ちぎ)」という僧侶でした。煬帝が智顗に「智者」の称号を贈ったため「智者大師」とも呼ばれています。

「智者」の称号の通り、智顗はたった一度お経を聞いただけで覚えてしまうような、非常に頭のいい人だったのです。

智顗は十八歳で出家して、高名な僧侶として有名だった「慧思(えし)禅師」に入門して修行を始めました。そこで智顗は「法華経」を学び、悟りを開いたとされています。

また、智顗が修行したのは中国の浙江省にある天台山という山で、昔から聖地とされてきた場所でもありました。智顗の晩年には天台宗の中心的な寺院となる「国清寺」が建設されます。(残念ながら、智顗の生前に完成しませんでしたが。)

「諸経の王」とされる「法華経」

Lotus Sutra (TNM N-12).jpg
C8/9 brushwork – http://www.emuseum.jp/detail/100905, パブリック・ドメイン, リンクによる

当時、インドから中国に伝わったたくさんの経典を調べた智顗は、そのなかでも「法華経」に「すべての人に悟りの世界を」という教えが述べられていたため、「法華経」が最も尊く、すべての人を救うお経だと確信します。そうして、この教えに注目した智顗は「法華経」を中心にした「天台教学」を完成させたのです。

「天台教学」は、『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の三冊の本にまとめられ、日本には、奈良時代に来日した高僧「鑑真」が伝えることとなります。

聖徳太子は智顗の生まれ変わり?

日本に仏教が伝来したのは538年。飛鳥時代のことです。朝廷では朝鮮半島の「百済」の聖王から公伝された仏教を推進するかどうかの論争が起こりました。それで賛成派(崇仏派)の蘇我氏と、反対派(廃仏派)の物部氏の間で揉めに揉め、ついには「丁未の乱」へと発展していきます。このとき、蘇我氏側にはまだ年若かった聖徳太子(厩戸王)がいました。「丁未の乱」は崇仏派の勝利に終わり、かくして、日本に仏教が根付き始めたというわけです。

「丁未の乱」ののちに、聖徳太子は大阪に四天王寺を建立。さらに、「法華経」の注釈書として『法華義疏』、『勝鬘経』の注釈書『勝鬘経義疏』、『維摩経』の注釈書『維摩経義疏』の三冊を自ら執筆しました。この三冊は合わせて『三経義疏』と呼ばれます。

それに加えて、聖徳太子は「十七条の憲法」のふたつめに仏教や僧侶を大切にしなさいという条文をつくりました。

聖徳太子が仏教を厚く保護し、広めたことから、中国には「智顗は聖徳太子として生まれ変わり、日本に法華経を広めた」という伝説があります。

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