今日は日米和親条約について勉強していきます。1853年、黒船に乗ったペリーが突如日本に来航するとアメリカとの条約締結を希望、その条約となるのが日米和親条約です。

その結果日本は対外政策に終止符を打って開国、そして時代は江戸幕府滅亡の幕末へと突入していく。そこで、今回は日米和親条約について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日米和親条約をわかりやすくまとめた。

幕府の対外政策の始まり

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キリスト教の広まり

最初に解説しておくと、日米和親条約を学ぶ上で欠かせない用語が鎖国です。江戸幕府は長きに渡って外国との交流を絶ってきましたが、これを鎖国と呼んだのは明治時代の話であり、江戸時代当時では幕府の対外政策と呼ばれていました。そのため、ここでは「幕府の対外政策」の表現に統一します。

江戸時代、幕府にとって非常に厄介な教えが全国で広まりつつありました。その厄介な教えとはキリスト教であり、人類平等を思想とするキリスト教は農民達を支配する幕府の考えとは異なるもので、そのため人々がキリスト教の教えに染まってしまうことを怖れたのです。

キリスト教が邪魔ならキリスト教を禁止すれば良いわけで、そこで幕府は1613年に禁教令を発布してキリスト教を禁止しました。とは言え、キリスト教の信者は簡単には思想を捨てられず、中には隠れてキリスト教を信仰する者もいましたし、一方の幕府はそれを発見して弾圧したのです。

スペインとポルトガルの遮断

隠れキリシタンが存在するとは言え、禁教令によってひとまず国内でのキリスト教を絶つことに成功した幕府。次なる手段は、これ以上外国からキリスト教が入ってこないようにすることです。最も、世界の国全てがキリスト教を信仰しているわけではなく、その国は限られていました。

さしあたって幕府が警戒したのは、キリスト教国として知られるスペインとポルトガル。そこで幕府は当時貿易を行っていたスペインとポルトガルの来航禁止を考え、まず1624年にスペイン船の来航を禁止しました。さらに、1636年には外国との交流は長崎の出島のみに限定。

また、日本人の側からキリスト教に接触することがないように日本人の海外渡航も禁止。そして、最後の仕上げとして1639年にポルトガル船の来航を禁止、これが幕府の対外政策の始まりであり、その目的は日本からキリスト教を徹底的に排除することだったのです。

外国の脅威

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異国船打払令から薪水給与令へ

幕府の対外政策が始まってから200年近く経過した頃の1825年、幕府は異国船打払令を出して外国船に対して有無を言わさず追い払うという強気な態度に出ます。しかし、その強気な態度を一変させる事件が起こり、それは1840年のアヘン戦争での清国の敗戦でした。

何しろ清国は幕府……と言うより日本が認めていた強国、その強国がイギリスにあっさり負けてしまったのです。外国の強さを知った幕府は方針転換、1842年には遭難した外国船に対して燃料や食料を与える薪水給与令を出し、外国への強硬な態度を軟化させました。

そんな中、1853年に浦賀沖にペリーが黒船で来航、しかもその黒船は当時の日本で造られていた船の25倍もの大きさ。4隻の艦船を引き連れたペリーは幕府に対して圧倒的な衝撃と恐怖を与えました。空砲を打ち鳴らすペリーに江戸の町は大混乱、浦賀は多くの見物人で溢れたそうです。

\次のページで「ペリーの黒船来航」を解説!/

ペリーの黒船来航

ペリーが来航したのは日本に開国を求めるため、そしてその理由は2つあります。1つ目に捕鯨をするためで、当時欧米ではマッコウクジラの油の需要が高まっていました。そのためアメリカは世界の各地で捕鯨を行っており、しかもそのたびに長い航海を必要としていたのです。

そうなると、捕鯨を行うにあたって薪や水などの物資の補給地点が必要で、その補給地点として日本が最適と考えたのでしょう。2つ目に中国大陸に進出するための寄港地を求めたことで、産業革命によってアメリカは多くの工業製品を生産、それを中国へ輸出しようとしました。

何しろ中国の人口はおよそ4億人、アメリカが中国を市場にしようと考えるのは自然です。ですからアメリカは中国に航海する必要があったのですが、そのためには途中で寄港地があると利便性が高く、日本の箱館を開港させて利用するつもりでした。これが、アメリカが日本に開国を求めた理由です。

日米和親条約の締結

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老中首座・阿部正弘の対応

対外政策を維持してきた日本、しかし黒船の圧力を受けてペリーと交渉に入ります。ペリーはアメリカ大統領の親書を渡す意思を示し、その際に「身分の低い者ではなく最高位につく者に預けたい」と要望。この時に対応した老中首座の阿部正弘は、返答するにあたって1年の猶予が欲しいとペリーに伝えました。

事実、この時の幕府はバタバタ状態で、黒船来航のわずか10日後に将軍の徳川家慶が死去。次期将軍の徳川家定も病弱のため政治ができる状態ではありません。阿部正弘は朝廷にも意見を求めますが、何しろ孝明天皇は尊王攘夷を思想とするほどの外国人嫌い、当然開国には反対しました。

時は過ぎ、ペリーは約束どおり再び訪れて今度は江戸湾に来航しますが、ただそれは約束の1年よりも半年も早い来航。対応に焦った幕府でしたがこれ以上ペリーを待たせるわけにもいかず、およそ1ヶ月の協議を経て1854年に日米和親条約を締結、日本は対外政策を終えて開国することになりました。

アメリカ有利の不平等条約

日米和親条約を締結するにあたり、アメリカの全権を任されていたのはペリー、日本は老中首座の阿部正弘と大学頭である林復斎が対応。日米和親条約は12の条文で構成されており、条文の中で開港地として決まったのは下田と箱館の港でした。さて、ここで疑問なのはなぜ下田と箱館が選ばれたのかという点でしょう。

実は、ペリーも当初は浦賀を含めた5つの港の開港を要求していました。しかし、幕府は下田をすすめた上に開港する港の数も2つにする旨を訴えたのです。ペリーの要求を全て受け入れてしまえば文字どおりなされるがまま、そうならなかった点では幕府もメンツを保つことができました。

こうした開国してアメリカとの交流が始まった日本、しかし日米和親条約は明らかな不平等条約です。例えば、日米和親条約の第9条を要約すると「アメリカには最恵国待遇が付与されるが、日本には付与されない」となっており、アメリカ有利な条約だったことは言うまでもありません。

\次のページで「日米和親条約締結後の日本」を解説!/

日米和親条約締結後の日本

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幕末の始まり

日米和親条約による開国は日本にとって不本意なものだったかもしれません。しかし、開国によって日本の近代化の基礎が築かれたことも否定できず、例えば1855年には幕府が長崎にて長崎海軍伝習所を設立、そこではオランダ船を利用して近代戦艦の動かし方を学んだそうです。

また、各藩は西洋の最新機種戦艦を購入して軍事力を高めていき、これは後の海軍につながっていきます。ただ、日米和親条約の締結によって最も運命を変えたのは幕府でしょう。ペリーが来航した1853年が幕末の始まりであり、幕府は少しずつ滅亡の道を進むことになるのでした。

そのきっかけとなったのは1858年のこと、今度はアメリカのハリスが日本を訪れてさらなる条約の締結を要求します。その条約とは日米修好通商条約で、日米和親条約以上の不平等条約でした。再び対応を迫られる幕府、そしてこの条約の締結には朝廷も強く反対したのです。

さらなる不平等条約の締結

武家政権である江戸時代、政治の権限を握っていたのは幕府でしたが、最も尊い存在が天皇であることには変わりなく、これは鎌倉幕府や室町幕府においても言えることです。ですから、幕府も全ての権限を持っていたわけではなく、外交関係の条約締結に至っては天皇の許可が必要になっていました

こうなると困るのは幕府、ハリスの要求と朝廷の反対で板挟み状態になってしまい、ついにはハリスの圧力に屈して天皇に無許可で日米修好通商条約に調印してしまったのです。この条約締結は朝廷を怒らせただけでなく日本の人々の暮らしにも影響し、怒りの矛先は幕府へと向けられます。

現在の社会で例えるならまさに炎上状態、これに対して幕府は安政の大獄と呼ばれる厳しい弾圧を行って公家までも処罰の対象としました。しかし、強引な弾圧は火に油を注ぐようなもの……安政の大獄の主導者である大老・井伊直弼は白昼堂々と暗殺されてしまったのです。

幕府滅亡までの流れ

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公武合体、尊王攘夷から倒幕へ

日米和親条約の締結をきっかけに幕府は滅亡の道を進んでいきますが、実際にどのような流れで滅亡したのかを辿ってみましょう。安政の大獄での幕府に対する反発もあり、この頃の日本では「外国の前では全くの無力である幕府は頼りにならない」と思われるようになります。

そこで生まれたのが2つの思想でした。1つは、幕府は朝廷と協力して政治を行うべきと考える「公武合体」の思想。もう1つは、外国人を排除して天皇中心の政治を行うべきと考える「尊王攘夷」の思想。このうち幕府が弾圧したのは後者の思想で、なぜなら「天皇中心の思想=幕府は不要」とも解釈できるからです。

最も、尊王攘夷派は道半ばでその思想を改めることになり、なぜなら外国の軍事力の高さを思い知り、そのため外国人の排除は不可能だと悟ったからでした。そして、やがて人々の間で「公武合体」でもなく「尊王攘夷」でもない「倒幕」の考えが生まれます。

大政奉還から戊辰戦争へ

幕府の最後の将軍は第15代・徳川慶喜、この頃になると幕府は権力も武力も低下していました。そんな中で高まる倒幕ムード、そこで徳川慶喜はある考えから大政奉還を行い、天皇に政権を返上して自ら幕府を終わらせます。ただ、徳川慶喜には依然として政治の主導権を握る自信がありました。

なぜなら明治天皇はまだ若く、朝廷もまた政治に慣れていない状態。一方の徳川慶喜にはこれまで徳川家が幕府を担ってきたノウハウを持っており、そのため結局は自分が再び政治を進めることになるだろうと想定していたのです。そして、事態は徳川慶喜の想定どおりに進んでいきました。

倒幕派からすれば、こんな不愉快なことはありません。幕府が終わっても徳川慶喜が政治の実権を握るなら今までと変わらず、そうならないためには徳川慶喜を武力討伐するしかないと判断。そのため徳川慶喜を散々挑発、その末に起こった戦争が戊辰戦争であり、この戦いで新政府軍が勝利するのでした。

阿部正弘、下田・箱館の港は絶対に覚えておこう!

日米和親条約のポイントとして、対応した阿部正弘の名前と開港した下田と箱館の港の名前は絶対に覚えておきましょう。また、注意点として条約締結の年号を間違えるケースが挙げられます。

ペリーが来航したのは1853年、ですから日米和親条約も1853年に締結したと思ってしまいがちですが、それは間違い。この時、幕府は回答を保留しており、実際に条約が締結されたのは翌年の1854年です。

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日本史歴史江戸時代

対外政策に終止符を打った「日米和親条約」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は日米和親条約について勉強していきます。1853年、黒船に乗ったペリーが突如日本に来航するとアメリカとの条約締結を希望、その条約となるのが日米和親条約です。

その結果日本は対外政策に終止符を打って開国、そして時代は江戸幕府滅亡の幕末へと突入していく。そこで、今回は日米和親条約について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日米和親条約をわかりやすくまとめた。

幕府の対外政策の始まり

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キリスト教の広まり

最初に解説しておくと、日米和親条約を学ぶ上で欠かせない用語が鎖国です。江戸幕府は長きに渡って外国との交流を絶ってきましたが、これを鎖国と呼んだのは明治時代の話であり、江戸時代当時では幕府の対外政策と呼ばれていました。そのため、ここでは「幕府の対外政策」の表現に統一します。

江戸時代、幕府にとって非常に厄介な教えが全国で広まりつつありました。その厄介な教えとはキリスト教であり、人類平等を思想とするキリスト教は農民達を支配する幕府の考えとは異なるもので、そのため人々がキリスト教の教えに染まってしまうことを怖れたのです。

キリスト教が邪魔ならキリスト教を禁止すれば良いわけで、そこで幕府は1613年に禁教令を発布してキリスト教を禁止しました。とは言え、キリスト教の信者は簡単には思想を捨てられず、中には隠れてキリスト教を信仰する者もいましたし、一方の幕府はそれを発見して弾圧したのです。

スペインとポルトガルの遮断

隠れキリシタンが存在するとは言え、禁教令によってひとまず国内でのキリスト教を絶つことに成功した幕府。次なる手段は、これ以上外国からキリスト教が入ってこないようにすることです。最も、世界の国全てがキリスト教を信仰しているわけではなく、その国は限られていました。

さしあたって幕府が警戒したのは、キリスト教国として知られるスペインとポルトガル。そこで幕府は当時貿易を行っていたスペインとポルトガルの来航禁止を考え、まず1624年にスペイン船の来航を禁止しました。さらに、1636年には外国との交流は長崎の出島のみに限定。

また、日本人の側からキリスト教に接触することがないように日本人の海外渡航も禁止。そして、最後の仕上げとして1639年にポルトガル船の来航を禁止、これが幕府の対外政策の始まりであり、その目的は日本からキリスト教を徹底的に排除することだったのです。

外国の脅威

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異国船打払令から薪水給与令へ

幕府の対外政策が始まってから200年近く経過した頃の1825年、幕府は異国船打払令を出して外国船に対して有無を言わさず追い払うという強気な態度に出ます。しかし、その強気な態度を一変させる事件が起こり、それは1840年のアヘン戦争での清国の敗戦でした。

何しろ清国は幕府……と言うより日本が認めていた強国、その強国がイギリスにあっさり負けてしまったのです。外国の強さを知った幕府は方針転換、1842年には遭難した外国船に対して燃料や食料を与える薪水給与令を出し、外国への強硬な態度を軟化させました。

そんな中、1853年に浦賀沖にペリーが黒船で来航、しかもその黒船は当時の日本で造られていた船の25倍もの大きさ。4隻の艦船を引き連れたペリーは幕府に対して圧倒的な衝撃と恐怖を与えました。空砲を打ち鳴らすペリーに江戸の町は大混乱、浦賀は多くの見物人で溢れたそうです。

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