その結果日本は対外政策に終止符を打って開国、そして時代は江戸幕府滅亡の幕末へと突入していく。そこで、今回は日米和親条約について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から日米和親条約をわかりやすくまとめた。
キリスト教の広まり
最初に解説しておくと、日米和親条約を学ぶ上で欠かせない用語が鎖国です。江戸幕府は長きに渡って外国との交流を絶ってきましたが、これを鎖国と呼んだのは明治時代の話であり、江戸時代当時では幕府の対外政策と呼ばれていました。そのため、ここでは「幕府の対外政策」の表現に統一します。
江戸時代、幕府にとって非常に厄介な教えが全国で広まりつつありました。その厄介な教えとはキリスト教であり、人類平等を思想とするキリスト教は農民達を支配する幕府の考えとは異なるもので、そのため人々がキリスト教の教えに染まってしまうことを怖れたのです。
キリスト教が邪魔ならキリスト教を禁止すれば良いわけで、そこで幕府は1613年に禁教令を発布してキリスト教を禁止しました。とは言え、キリスト教の信者は簡単には思想を捨てられず、中には隠れてキリスト教を信仰する者もいましたし、一方の幕府はそれを発見して弾圧したのです。
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スペインとポルトガルの遮断
隠れキリシタンが存在するとは言え、禁教令によってひとまず国内でのキリスト教を絶つことに成功した幕府。次なる手段は、これ以上外国からキリスト教が入ってこないようにすることです。最も、世界の国全てがキリスト教を信仰しているわけではなく、その国は限られていました。
さしあたって幕府が警戒したのは、キリスト教国として知られるスペインとポルトガル。そこで幕府は当時貿易を行っていたスペインとポルトガルの来航禁止を考え、まず1624年にスペイン船の来航を禁止しました。さらに、1636年には外国との交流は長崎の出島のみに限定。
また、日本人の側からキリスト教に接触することがないように日本人の海外渡航も禁止。そして、最後の仕上げとして1639年にポルトガル船の来航を禁止、これが幕府の対外政策の始まりであり、その目的は日本からキリスト教を徹底的に排除することだったのです。
異国船打払令から薪水給与令へ
幕府の対外政策が始まってから200年近く経過した頃の1825年、幕府は異国船打払令を出して外国船に対して有無を言わさず追い払うという強気な態度に出ます。しかし、その強気な態度を一変させる事件が起こり、それは1840年のアヘン戦争での清国の敗戦でした。
何しろ清国は幕府……と言うより日本が認めていた強国、その強国がイギリスにあっさり負けてしまったのです。外国の強さを知った幕府は方針転換、1842年には遭難した外国船に対して燃料や食料を与える薪水給与令を出し、外国への強硬な態度を軟化させました。
そんな中、1853年に浦賀沖にペリーが黒船で来航、しかもその黒船は当時の日本で造られていた船の25倍もの大きさ。4隻の艦船を引き連れたペリーは幕府に対して圧倒的な衝撃と恐怖を与えました。空砲を打ち鳴らすペリーに江戸の町は大混乱、浦賀は多くの見物人で溢れたそうです。
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