

最も、この決まりは土地の法令の総称であり、田畑永代売買禁止令が単独で発令されたわけではない。そこで、今回は田畑永代売買禁止令について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から田畑永代売買禁止令をわかりやすくまとめた。
農民が田畑を売買する理由
江戸幕府が誕生したのは1603年、仮に新たな政治政策として田畑永代売買禁止令を制定するなら、幕府が開かれてすぐに発令するのが自然でしょう。しかし、実際にこれが定められたのは1643年であり、なぜ40年経ってから改めて農民の田畑の売買を禁止したのでしょうか。
実は、農民による田畑の売買はずっと以前から行われてきたことで、賄賂のように後ろめたい行為ではありませんでした。当時の日本は田畑で米を育て、そしてその米を収穫して年貢を納めており、言わば田畑は農民にとっての財産です。しかし、不作などによって年貢が納められない場合もあったでしょう。
そうなると農民は貧困状態になってしまい、収入が得られなくなってしまいます。そんな時、困った農民が田畑を売ってお金にするケースがありました。要するに、田畑を質に入れることでひとまずの収入を確保しようとしたのです。そして、これまでは幕府もこのような売買の形を認めていました。
田畑の売買を示す3つのパターン
田畑の売買と言っても、そのパターンは3つ存在しました。まずパターンその1、これは売買よりも質入れに近い感覚のもので、農民は売った田畑を再び買い戻すことが可能です。ただ、みなさんがイメージする質と異なる点は、利子がなく売った時と全く同じ額で買い戻しが可能だという点になります。
この場合、売られた側は買い戻されるまでの期間にその田畑での農業が可能であり、そこで収穫できた分を利子代わりとして利益にしていました。次にパターン2、これは期間限定で売買するもので、「売る」ではなく「レンタルする」とイメージすると分かりやすいでしょう。
この場合、農民は買い戻す必要なく決められた期限を過ぎれば田畑は返ってきました。そしてパターンその3、これは文字どおり完全な売買であり、田畑永代売買禁止令による取り締まりの対象となったのは「永代売」と呼ばれたこのパターンです。

田畑の売買は以前から、それも江戸時代どころか鎌倉時代から行われてきた。それを1643年になって突如禁じた江戸幕府、その理由はこれから解説していくぞ。また、売買には3つのパターンがあり、全てが禁止の対象になったわけではない。
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