日本史

スーパー縁の下の力持ち2代将軍「足利義詮」を室町時代オタクがわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。足利将軍で有名なのは初代の尊氏(たかうじ)と3代目義満(よしみつ)。なぜかうんと飛んで8代義政(よしまさ)とラストの15代義昭。

おっと、初代と3代目の間は?室町幕府を確立した尊氏や南北朝統一や金閣建立の義満のような派手な功績はないけど、2代目義詮の功績も大きい。3代目義満が室町幕府を全盛に持ってこれたのも実は義詮のおかげだ。

そんな地味だけど「縁の下の力持ち」義詮について室町時代オタクのR175と解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

R175

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.室町幕府の縁の下の力持ち

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室町幕府創設者の尊氏と、南北朝合一やら金閣やらで有名な3代目義満。その間に挟まれた2代将軍、足利義詮は何だが影が薄いですね。しかし一朝一夕にして、幕府が全盛期を迎えるわけではありません。

3代将軍足利義満の時代が室町幕府全盛期とするなら、その前に下地が作られていたと考えられますね。義詮自身が派手な功績を残すことはありませんでしたが、その功績は大きいでしょう。まさに「縁の下の力持ち」将軍です。

2.幼少期に鎌倉幕府攻めを指揮

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義詮が生まれたのは1330年。その3年後、3歳にして(形式上とはいえ)鎌倉幕府攻めを指揮しいました。

3歳にして人質

1333年、当時3歳の義詮はまさかの人質に取られていました。父尊氏は鎌倉幕府に仕える優秀な武士でしたが、1333年鎌倉幕府を裏切っていたのです。この頃、後醍醐天皇が鎌倉幕府と対立していて、尊氏は鎌倉幕府から後醍醐天皇攻めを命じられていたのですが、幕府を裏切り、後醍醐天皇と組んでしまいました。

父尊氏は鎌倉幕府に不満あり

尊氏は、優秀な武士ながら鎌倉幕府からあまりいい扱いを受けていませんでした。尊氏の父がなくなり喪中の時も、また病気の時も無理やり出兵を命じられていました。それに加え、出兵中家族は人質。(幕府を裏切らずとも出兵する時点で人質に取られる)

そんな状態なので尊氏は鎌倉幕府に不満を持っていました。

3.関東地区を指揮

人質に取られていた義詮、逃げ出すだけでなく鎌倉幕府滅亡に貢献。後に関東地区の指揮を任されることに。

人質から脱出して鎌倉攻め

鎌倉幕府滅亡に関していうと、尊氏より義詮の方が大きく寄与していると言えます。人質に取られていた義詮、母たちとともに鎌倉を脱出、有力な武士、新田義貞に合流。

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なぜ有力な武士、新田義貞と合流出来たか?新田義貞は優秀な武士だったが、ネームバリューに欠けていた。鎌倉を攻めたいけど、イマイチ仲間が集まりにくい状態。一方、足利家は幕府高官の関係者でありネームバリューがあったが、将軍家とは言え幼い「義詮」を筆頭に動くのは不安が残る。

ネームバリューを求める新田義貞と兵力が欲しい足利家、両者の利害が一致して合流に至ったわけです。

鎌倉幕府滅亡とその手柄の取り合い

軍事力の高い新田義貞と、ネームバリューのある足利氏のコラボにより鎌倉幕府を滅亡させました。さて、これは誰の手柄でしょうか。どちらのお陰でもあるのですが、残念ながら手柄を取り合って新田義貞と足利家は対立。悲しい時代ですね。

父子で役割分担

鎌倉幕府滅亡後、父尊氏は京都へ、息子義詮は関東地区を治めました。

4.義詮、京都へ

父は関西を、息子は関東を治めていい感じに回してましたがそれが出来なくなります。関西での揉め事がややこしくなったため義詮も京都に呼び出されました。さて、どんな事情があったのでしょうか。

北朝内でも仲間割れ

南北朝時代のややこしいところは、南朝と北朝だけでなく、北朝内でも仲間割れが起きていた点。

朝廷派と武士派

武士中心の政権(北朝)ですが、中には多少朝廷も優遇したい人とガッツリ武士を優遇したい人に分かれていたわけです。

保守派〜朝廷寄り

尊氏の弟、足利直義はどちらかと言えば朝廷寄り。直義は寺社や公家からの訴訟を担当していました。「武士に土地を没収された」といった訴訟内容が多かったようです。寺社や公家の利益を考える立場にいた義直は朝廷寄りの考え方。寺社や公家、朝廷を大事にする政策で南朝に歩み寄ろうとしました。

革新派〜武士寄り

一方で、幕府に仕える多くの者は、自分たちも武士。土地争い等は「実力」で決着を付けたい派の人たちで、当然「武士に有利な」政策を好むもの。幕府の執事、高師直(こう もろなお)は武士寄りの政策で武士を集め南朝と戦おうとしました。

5.観応の擾乱

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朝廷寄りの政策を取りたい直義らと、ガチガチの武士寄り派師直が対立。この対立による一連の戦いが観応の擾乱(かんのうのじょうらん)。

朝廷派が武士派を追い出す

朝廷派直義は、武士派師直の悪行の数々を尊氏に訴え執事を辞めさせ、京都から追い出します。

武士派が反撃

追い出された武士派師直も黙っているわけではありません。師直は他の軍勢と協力して京都に攻め込んできます。直義は尊氏の屋敷に逃げ込み危機を脱しようとしました。しかし、師直はまさかの将軍宅にも容赦なく攻め込んできて、義直を幕政から外すよう要求。

朝廷派の挙兵

義直が幕政から外されたことを知った息子の足利直冬は父に味方するため西日本で挙兵。このままいくとまた京都に攻め込んで来る勢い。それは阻止したい尊氏は西日本に出陣。義詮が留守番です。

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南北朝時代は父尊氏と息子義詮2本立てで協力していた。父が京都で活動する間は息子義詮は鎌倉を治め、父が西日本に出陣する際は息子義詮は京都を守る。尊氏の功績が語られがちだが、それは義詮のサポートあってこそのことだった。

当事者死亡による観応の擾乱の終息

武士派の師直が直義に撃たれ亡くなってしまいます。観応の擾乱の当事者の一人が亡くなったことで一旦擾乱が終息したかに見えましたが。

直義派と反直義派とう派閥構造自体は残ったまま。何かと戦争が続いてしまうこの時代。擾乱は収まりません。

反直義派って?

尊氏は元々師直推し気味でした。直義とは対立気味。師直が亡くなってもその構図は変わりませんし、何といっても将軍が生き残った直義と対立しているわけですから、反直義派たる派閥が残るのも当然。

南朝と手を組み尊氏らと対立

北朝で仲間割れ割れした者たちが何とも卑怯な作戦に出ます。それは、最大の敵であるはずの南朝と組むこと。仲間を裏切り敵陣の味方に。南北用時代にはよく見られたことです。

誰が敵で誰が味方かが非常に流動的ですし、いかにまとまりがないかがうかがえます。下手をすれば敵陣の南朝がどんどん強くなっていく危険性が高い。

6.まさかの降伏

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仲間割れで分裂した者はどんどん敵に流れるトレンド。尊氏、義詮らと対立している直義はもちろん南朝と手を組もうとします。しかしそれは困るので、尊氏、義詮らは南朝にお願いをしました。「直義と手を組まないで欲しい」と。敵陣にそのようなお願いをしてもすんなりいかず。

お願いに対する南朝の回答は
「別にいいけど。あなたたちは南朝に降伏しなさい
「北朝が持っていた三種の神器は南朝に渡しなさい
「そして、南朝の天皇を正としなさい
元号は南朝のものに統一しなさい」

非常にしぶしぶながら、尊氏、義詮らはこれらの条件をのみ、事実上南朝に降伏しました。下手に粘って、南朝方に殺されてしまうよりはマシです。

正平一統

前述のとおり尊氏、義詮らは南朝に降伏することで内部分裂をストップさせようとします。南朝と具体的な交渉をしたのは義詮。三種の神器も渡し、南朝の天皇を正と認めました。そして元号も南朝のものに統一。南朝が正平という年号を使ってたのでそれに合わせました(正平一統)。本当にしぶしぶですが。

交渉は義詮が担当。父尊氏は戦い担当。父尊氏一強ではなく、将軍就任前の義詮がばっちり活躍していますね。
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優先順位

・南北朝が対立。
・北朝は仲間割れが盛ん。

ゴールは北朝に1本化。まずはやるべきことは北朝の仲間割れ解消です。しかし、ゴールが北朝1本化なのに南朝に降伏するのはどうにもうなずけないな。結果的に北朝1本化に成功する足利将軍家。その後どのような策をとったのだろうか。

7.北朝再擁立

観応の擾乱のもう一人の当事者義直が亡くなったことで、擾乱自体は収まりました。北朝の内部分裂はマシになりました。しかし、三種の神器を南朝に渡してしまった。もはや北朝は「勝手に言ってるだけ」の政権。このままいくと南朝が正に。困りましたね。でも、そこで諦めなかったのが足利将軍。

北朝独自の天皇立位

義詮は後光厳天皇を北朝天皇に立位。いやでも、天皇が持っているはずの三種の神器がありませんね。気にしません。後で取り返せばいいのです。体裁として天皇がいない政権はまずいので、とりあえず天皇とい存在が必要。

8.義詮将軍に就任

1358年、尊氏が亡くなると義詮が将軍に。北朝、あまりまとまりがない上、三種の神器も南朝に渡してしまっていたためかなりピンチ。ハードルが高い状況で将軍になっています。

南朝への寝返り

この頃になっても、北朝を裏切って南朝につく者がいました。幕府管領と対立した仁木義長が南朝側につきました。その後、管領の細川清氏までもが南朝へ。権力抗争が絶えません。隙を見計らって南朝が京都を奪還することもありました。

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そんなにいいところなら皆んな南朝に行けばいいのでは?相次ぐ対立から、南朝に行くものが多数。しかも三種の神器は南朝が所持。明らかに南朝が有利じゃないか?ではない。北朝は何と言っても足利将軍。それなりに人脈も軍事力もあった。

9.将軍権力拡大

南朝との攻防が続く中、義詮は幕府の仕組を整えていきます。

御前沙汰

御前沙汰(ごぜんさた)とは、義詮が新設した将軍主宰の会議。訴訟に関する決定を行なっていました。

中世の訴訟制度

鎌倉幕府では、評定衆(ひょうじょうしゅう)・引付衆(ひきつけしゅう)という役職が訴訟を担当

どんな訴訟が多かった?

鎌倉、室町時代に多かったかのは土地関連の訴訟。鎌倉時代前期までは、分家して新たな土地を構えることが多かったのですが、鎌倉時代後期以降は既存の土地を分割して子弟で分けるケースが急増。何かに付けて戦乱に発展するこの時代。土地分割は大いに揉め事の原因に。

崩れる訴訟制度

鎌倉幕府には、訴訟担当の役職がありましたが、南北朝時代の混乱で担当が曖昧に。そこで義詮は室町幕府でも訴訟に関する制度を作ります。

将軍の鶴の一声

義詮が新設した訴訟制度は、評定衆や引付衆のような役職ではなく、御前沙汰という制度。参加者も将軍が選べる将軍主体の会議。訴訟問題にも将軍の「鶴の一声」が通ってしまうよになります。

〜には土地を与えない、〜には土地を与えると言った判決内容をほぼ将軍が決めてしまうことが可能。これは最強の権力。

室町幕府全盛期の基礎

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南北朝を合一し室町幕府全盛期を築いたのは3代将軍義満。でも、その前にそもそも北朝同士で仲間割れぐちゃぐちゃだったのをまとめていったのは義詮。南北朝合一の前段階として北朝をまとめました。そういう意味で全盛期のレールを敷いたと言えそうです。

南北朝合一の花芽見ることなく

1367年、10歳の息子義満を残して亡くなりました。交渉、戦い、色々尽力してきましたが、南朝をまとめるには至らず、息子義満に託します。

室町幕府の土台作り

幼少期は鎌倉幕府攻めに貢献し、その後は関東を治世。父尊氏がピンチになると京都に出向き、留守番や交渉事で貢献。そして自分が将軍になると、何とか将軍権力が強くなるような制度を作る。親尊氏のサポートに始まり、息子義満政権の準備に終わる。

地味で目立ちにくい功績ですが、大きな功績。尊氏、義満が目立った功績を残せたのも2代将軍義詮のお陰であることを忘れてはいけません。

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