「モボ モガ」とは、モダンボーイとモダンガールを省略した表現。大正時代の終わりから昭和初期にあらわれた若者を指す言葉です。新しく生まれたサービス業を中心に、当時としては最新のファッションに身を包んで仕事をしていたことも特徴的です。

昭和初期の流行の最先端をいく「モボ モガ」がどのような生活を満喫したのでしょうか。それじゃ、現代に残る影響も踏まえながら、現代社会に詳しいライターひこすけと一緒「モボ モガ」を解説していきます。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。大正時代末期から昭和初期の文化を語るとき「モボ モガ」を避けて通ることはできない。「モボ モガ」を通じて、日本のライフスタイルの変化を読み解くことができる。そこで今回は「モボ モガ」が登場した背景や、関連する現象をくわしく解説する。

「モボ モガ」が登場したのは昭和初期

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「モボ モガ」とは、「モダンボーイ」と「モダンガール」の略。大正末期から昭和初期にかけて台頭した、西洋のライフスタイルを楽しむ若い男性・女性のことを指します。彼ら・彼女らは、生活スタイルだけではなく、職業や価値観の変化を象徴する存在でした。

モダンな生活を楽しむ若者たちを「モボ モガ」という

明治時代、大正時代と、日本人は食事や服装など、徐々に西洋化していきます。昭和初期になると西洋化の波が一気に拡大。モボとモガはそんな西洋風の生活を積極的に取り入れました。モダンな生活には、ファッション、グルメ、娯楽、仕事など、あらゆるジャンルが含まれます。

さらにモボとモガと呼ばれる若者は、日本の伝統的なしきたりとは異なる自由を満喫。たとえば、男女の交際が以前よりもオープンになりました。さらに肌の露出に対する考え方にも変化があらわます。半袖の服や水着を着て人前に出ることに躊躇がなくなりました。

西洋のライフスタイルの発信者となった「モボ モガ」

昭和初期は日本に進出する欧米の企業が増えてきた時期。欧米の企業は、自社の商品の消費者を増やすために、日本人に新たなライフスタイルを提案する必要があります。そこでモボとモガは、最新のファッションやライフスタイルを発信するインフルエンサー的役割も担いました。

モボ・モガを代表するモデルや俳優・女優が登場し、女性向けの雑誌の表紙を飾ることも。さらにモボ・モガたちは、デパートのサービス業務につき、ファッション、メイク、グルメなどの最新情報を、来店者に発信する役割も担いました。

「モボ モガ」を特徴づけるのが洗練されたファッション

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ookikioo - originally posted to Flickr as IMG_9247, CC 表示 2.0, リンクによる

「モダンボーイ」と「モダンガール」をとくに特徴づけているのがファッションです。日本で洋装化が進んだのは明治時代から。ただ、洋装をする人は身分が高い富裕層に限られ、大衆化してはいませんでした。それが昭和初期になると風向きが一気に変わります。

男性は大正時代に和装から洋装にチェンジ

男性の洋装化は女性よりも早く、大正時代になるとかなり増えてきます。外見的な特徴となるのが、断髪、山高帽子、スーツ、ステッキなど。山高帽子はイギリス発祥のファッションアイテムです。羽織袴、マント、山高帽子と合わせて、和洋折衷で利用されることもありました。

さらに大正時代以降、伝統的なキセルたばこから紙巻たばこにシフトし、新しい銘柄が続々と登場します。葉巻たばこのパッケージには、モダンボーイ風のシルエットがデザインされることも。モボ・モガブームを象徴するアイテムとなりました。

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モダンな女性はメイクにもこだわる

モダンな女性の特徴となるのは、ボブカット、ヒラヒラのスカートやワンピース、クローシェ帽、ハイヒールなど。なかでも、この時代に流行したファッションが「アッパッパ」。大きめでゆったりとした夏用の服装のことです。歩くと裾が広がる様子から名付けられました。

そしてモダンガールはメイクにもこだわります。メイクは比較的濃いめで、眉をしっかり描いて赤い口紅を塗りました。はっきりとした顔立ちに仕上げることがモダンガールのこだわり。主にハリウッドの映画女優のメイクがお手本となりました。

「モボ モガ」の活動の拠点は銀座周辺

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モボ・モガが闊歩したエリアが銀座周辺。銀座エリア一帯は、火事対策のため早期から建物のレンガ化が進んでおり、モダンな雰囲気がありました。銀座のシンボルとも言えよう現在の和光の時計台は昭和初期にはすでに存在。当時は和光ではなく服部時計店でした。

昭和初期になると、和光に加えて松屋銀座などモダンな商業施設が立ち並び、モダンなファッションを発信基地となります。銀座は時代をリードするエリアとして発展。モダンなファッションに身を包み、日傘をさして颯爽と歩くモダンガールが、銀座に花を添えました。

銀座のデパートは最新ファッション情報の発信基地

現在の銀座のデパートというと、年配のお客様が多いイメージがあります。若者にとって銀座は、渋谷や池袋と比べるとやや敷居が高い場所。しかしながら昭和初期の銀座は、最新のファッション情報を求める若者で賑わっていました。

最新ファッションの情報基地となっていたのが、続々と誕生していたデパート。三越や高島屋は明治時代からありました。ただ、当初は畳上で接客する「座売り」が基本。徐々に広いフロアに洋服を陳列するスタイルを作り上げていきます。

銀座は「モボ モガ」の職場でもあった

銀座に建てられたデパートの多くは元呉服屋。そのため洋服の販売には力を入れていました。デパートでは、モガが店員とマネキンの両方の役割を担います。デパート店員は、外見も洗練されており、男性との交流も盛んだったことから、かなりモテる存在でした。

ファッションに加えて、デパートで積極的に発信されたのがメイク術。資生堂のような化粧品会社が「美容部員」の先駆けとなる女性たちを雇用。メイクをテーマとする舞台を上演し、そのあとに最新のメイクを実演・解説するということもありました。

「モボ モガ」を代表するのが映画俳優たち

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松竹キネマ - http://www.geocities.jp/yurikoariki/ozuhizyou1ssss.jpg, パブリック・ドメイン, リンクによる

モボ・モガのお手本のひとつがハリウッド映画。当時の俳優・女優のおしゃれなファッションとメイクは外見的な基本となりました。さらに日本映画にもギャング映画など欧米風のジャンルが登場。モダンなファッションに身を包む日本人俳優・女優が増えました。

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上原謙は昭和初期を代表する二枚目モダンボーイ

モダンボーイを代表する俳優のひとりが上原謙。言わずと知れた加山雄三さんのお父様です。1933年に松竹蒲田の採用試験に合格、二枚目のスター俳優としての道を歩みます。さまざまなジャンルの映画に出演し、モダンボーイファッションの浸透に貢献しました。

上原謙が活躍した松竹蒲田撮影所は当時の映画界に新風を吹き込む存在でした。一例となるのが、佐野周二、上原謙、佐分利信が出演した『婚約三羽鳥』。3人のモボによる恋愛コメディです。松竹蒲田は、流行を体現する若者を映画に出演させて新しいスターを生み出しました。

昭和初期の映画を西洋ファッションで彩った田中絹代

日本を代表する女優である田中絹代も、松竹蒲田撮影所で活躍したモダンガールのひとりです。彼女は、妹役、娘役、芸者役など、さまざまな役を見事にこなし、松竹蒲田の看板女優としての地位を確立します。

モガとしての田中絹代の姿が見れる映画のひとつが『大学は出たけれど』。小津安二郎監督による昭和4年の作品です。不況により大学卒業者の就職率が30%ほどであった昭和初期を舞台に、若者が仕事を探して奔走するコメディ映画でした。

「モボ モガ」ファッションは宝塚歌劇団の人気も後押し

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投稿者がスキャン - 「夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史」, パブリック・ドメイン, リンクによる

大正3年初公演を行ってから着実に人気を獲得してきた宝塚歌劇団。デパートで歌を披露していた三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊をヒントに作られました。岸田辰彌が日本で初めてとなるレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を制作。現在の宝塚の基礎がつくられます。

1930年代になると松竹歌劇団で男装スターが登場。そこで宝塚歌劇団も「男役」を導入しました。現在の宝塚歌劇団のスターシステムを支える「男役」と「娘役」のファッションは、山高帽子にヒラヒラのスカートと、モボ・モガを思い出させるものです。

洋装の女性によるラインダンスが大人気

宝塚歌劇団の舞台に欠かせないのがラインダンス。舞台上に全員が並んで、同じステップを踏むダンスのことです。主にカントリーミュージックにて踊られてきました。足を高く上げて踊る場面は、宝塚歌劇団の公演に必ず含まれていると言ってもいいでしょう。

昭和初期のモボ・モガが楽しんだ娯楽のひとつがダンス。パーティーなどで、カントリーやジャズの音楽に合わせて陽気に踊る若者が増えました。宝塚歌劇団のラインダンスは、ダンスに熱狂する当時の若者の心をつかみ、年を追うごとに豪華になっていきました。

男役のファッションはモダンボーイの名残

宝塚歌劇団のレビューのフィナーレで大階段から一人で降りてくるのは女性団員が男装する「男役」。スターシステムの頂点と言えよう存在です。男役は、男役ならではの話し方や振る舞いで女性の心をつかみ、宝塚歌劇団の人気を支える存在となりました。

男役の団員は、黒いスーツ、山高帽子、そして時にはステッキを操るモダンボーイスタイルが基本。当初、男装する団員のヘアスタイルはボブカットで、男装としては中途半端なものでした。松竹歌劇団の水谷八重子が短髪にしてから宝塚歌劇団もそれに倣い、現在に至ります。

\次のページで「「モボ モガ」と共に大流行した西洋風の料理」を解説!/

「モボ モガ」と共に大流行した西洋風の料理

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モボ・モガの台頭と一緒に人気を獲得したのが洋食です。現代のランチの定番であるハンバーグ、オムレツ、カツレツ、カレーが広く食べられるようになったのも時代。洋食メニューを出すレストランや喫茶店が増えて日本人の食生活をガラッと変えました。

大正末期に銀座千疋屋が「フルーツポンチ」を考案

千疋屋とは、日本橋にある千疋屋総本店と、銀座と京橋にあるのれん分け店舗からなる果物の専門店。総本家の起源は古く、江戸時代の天保年間までさかのぼります。銀座千疋屋ができたのが明治27年。大正時代に入ると銀座千疋屋は「フルーツパーラー」を開業しました。

このパーラーで生まれたメニューのひとつがフルーツポンチです。二代目の社長がカクテルのフルーツパンチから発想したメニュー。グラスに盛り付けられた果物がおしゃれと評判になり、フルーツポンチは流行に目がないモダンガールの定番となりました。

昭和初期、中村屋の「純印度式カリーライス」が大人気に

中村屋は日本で初めてインドカレーを提供した店。日本のカレーと言えば、大きめのお皿にごはんとカレーを半々ずつ入れるのが定番です。それに対して中村屋は、カレーとライスを別皿にして提供するスタイルを確立しました。

インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースが日本に亡命したとき、彼をかくまったのが中村屋。滞在中、ボースが日本のカレーを「まずい」と言ったことから、彼の帰化後にインド式のカレーのレシピを譲り受けることに。それが現在の「純印度式カリーライス」のルーツです。

「モボ モガ」は現在の日本のライフスタイルの出発点

「モボ モガ」は、昭和初期のモダンな生活を楽しむ若者たちを指しますが、彼ら・彼女らのライフスタイルは現代に通じる点がたくさんあります。昭和初期に発展したデパート、サービス業、洋食メニューは今でも私たちの生活に欠かせない存在。「モボ・モガも楽しんでいたんだ」と親近感が沸くものばかりです。現代社会のライフスタイルの出発点が、モボ・モガが活躍した昭和初期にあると言ってもいいでしょう。そのような視点で、身近なものを観察してみると、きっと新たな発見があるはずです。

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現代社会

「モボ モガ」のモダンなライフスタイルと現代の影響を大学教員がわかりやすく解説

上原謙は昭和初期を代表する二枚目モダンボーイ

モダンボーイを代表する俳優のひとりが上原謙。言わずと知れた加山雄三さんのお父様です。1933年に松竹蒲田の採用試験に合格、二枚目のスター俳優としての道を歩みます。さまざまなジャンルの映画に出演し、モダンボーイファッションの浸透に貢献しました。

上原謙が活躍した松竹蒲田撮影所は当時の映画界に新風を吹き込む存在でした。一例となるのが、佐野周二、上原謙、佐分利信が出演した『婚約三羽鳥』。3人のモボによる恋愛コメディです。松竹蒲田は、流行を体現する若者を映画に出演させて新しいスターを生み出しました。

昭和初期の映画を西洋ファッションで彩った田中絹代

日本を代表する女優である田中絹代も、松竹蒲田撮影所で活躍したモダンガールのひとりです。彼女は、妹役、娘役、芸者役など、さまざまな役を見事にこなし、松竹蒲田の看板女優としての地位を確立します。

モガとしての田中絹代の姿が見れる映画のひとつが『大学は出たけれど』。小津安二郎監督による昭和4年の作品です。不況により大学卒業者の就職率が30%ほどであった昭和初期を舞台に、若者が仕事を探して奔走するコメディ映画でした。

「モボ モガ」ファッションは宝塚歌劇団の人気も後押し

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投稿者がスキャン – 「夢を描いて華やかに 宝塚歌劇80年史」, パブリック・ドメイン, リンクによる

大正3年初公演を行ってから着実に人気を獲得してきた宝塚歌劇団。デパートで歌を披露していた三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊をヒントに作られました。岸田辰彌が日本で初めてとなるレビュー『モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜』を制作。現在の宝塚の基礎がつくられます。

1930年代になると松竹歌劇団で男装スターが登場。そこで宝塚歌劇団も「男役」を導入しました。現在の宝塚歌劇団のスターシステムを支える「男役」と「娘役」のファッションは、山高帽子にヒラヒラのスカートと、モボ・モガを思い出させるものです。

洋装の女性によるラインダンスが大人気

宝塚歌劇団の舞台に欠かせないのがラインダンス。舞台上に全員が並んで、同じステップを踏むダンスのことです。主にカントリーミュージックにて踊られてきました。足を高く上げて踊る場面は、宝塚歌劇団の公演に必ず含まれていると言ってもいいでしょう。

昭和初期のモボ・モガが楽しんだ娯楽のひとつがダンス。パーティーなどで、カントリーやジャズの音楽に合わせて陽気に踊る若者が増えました。宝塚歌劇団のラインダンスは、ダンスに熱狂する当時の若者の心をつかみ、年を追うごとに豪華になっていきました。

男役のファッションはモダンボーイの名残

宝塚歌劇団のレビューのフィナーレで大階段から一人で降りてくるのは女性団員が男装する「男役」。スターシステムの頂点と言えよう存在です。男役は、男役ならではの話し方や振る舞いで女性の心をつかみ、宝塚歌劇団の人気を支える存在となりました。

男役の団員は、黒いスーツ、山高帽子、そして時にはステッキを操るモダンボーイスタイルが基本。当初、男装する団員のヘアスタイルはボブカットで、男装としては中途半端なものでした。松竹歌劇団の水谷八重子が短髪にしてから宝塚歌劇団もそれに倣い、現在に至ります。

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