今日は彰義隊(しょうぎたい)について勉強していきます。彰義隊とは、明治維新で起きた戊辰戦争の中で旧幕臣によって結成された徳川慶喜を護衛するための警護部隊です。

「大義を彰(あきら)かにする隊」の意味でつけられた彰義隊は上野戦争にて新政府軍と戦う。そこで、今回は彰義隊について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から彰義隊をわかりやすくまとめた。

彰義隊の結成

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徳川慶喜の復権と助命を目指す本多敏三郎

幕末の1868年、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発、その緒戦となったのが鳥羽伏見の戦いでした。兵力の数でこそ新政府軍を上回る旧幕府軍でしたが、性能の高い武器を持つ新政府軍に苦戦、この戦いで旧幕府軍は敗北して徳川慶喜は逃亡してしまいます。

徳川慶喜について調べると「卑怯者」と解説されていることがありますが、それはこの鳥羽伏見での逃亡が理由です。さて、あろうことか逃亡した徳川慶喜が向かった先は江戸城で、彼はそこで新政府側に対して従う意思を見せると上野寛永寺で引きこもってしまいました。

鳥羽伏見の戦いで敗北したとは言え、あくまでそれは戊辰戦争の緒戦。まだ諦める時ではないと徳川慶喜の態度に不満を持った一橋家臣・本多敏三郎は、雑司ヶ谷にあった茗荷屋にて有志を募ります。本多敏三郎の目的は徳川慶喜の復権と助命で、有志を募ってその相談をしようと思っていました。

尊王恭順有志会から彰義隊へ

雑司ヶ谷にあった茗荷屋から四谷鮫ヶ橋にある円応寺へと場所を移す本多敏三郎、そこでもまた相談の場を開こうとしますが、肝心の策が見出せないまま時間は経過します。そこで本多敏三郎は旧幕臣の渋沢成一郎に相談を持ち掛け、他藩の隊士達にも声掛けして有志を集めていきました。

その結果、新政府に反発する17人の有志が集結、こうして尊王恭順有志会が結成されたのです。同じ思想と志を持つ仲間の結束の証として、尊王恭順有志会が結成された際には「尽忠報国」、「薩賊」と掲げた血誓書を作成。「尽忠報国」とは、「国に報いて忠を尽くす」の意味になります。

同年2月23日、浅草本願寺において晴れて尊王恭順有志会の結成式が行われますが、その際に阿部杖策が改名を発案。「大義を彰(あきら)かにする」の意味を込めて改めて彰義隊と命名されました。この時、尊王恭順有志会から彰義隊へと改名されたことで再び血誓書を作成しています。

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彰義隊に対する勝海舟の不安

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次々と集まる新政府に反発する者達

17人で結成された彰義隊の頭取に任命されたのは渋沢成一郎、そして副頭取に任命されたのは天野八郎。メンバーがわずか17人しかいないところは一見して少数精鋭を感じさせるものの、彰義隊のメンバーは次第に増えていき、結成から1ヶ月後の3月末の時点では1000人を超えるほどになりました。

また、彰義隊の拠点は結成式を行った浅草本願寺でしたが、メンバー増加に伴ってなのかは不明ですが、4月3日には寛永寺へと拠点を移しています。そして4月11日、あの西郷隆盛の功績として有名な江戸城無血開城が行われたため、徳川慶喜は水戸に戻ることになりました。

彰義隊は千住から下総松戸までの間、徳川慶喜を警護。ただ、その後も徳川家の霊廟守護を名目にして彰義隊は江戸に残り続けます。そんな中、彰義隊のもとには新政府軍に不満を持つ脱藩兵が次々と集まるようになり、メンバーの数は3000人~4000人まで増加しました。

頭取と副頭取の意見分裂

彰義隊のメンバーが3000人~4000人になったその状況は、言い換えれば新政府軍と対立するメンバーが3000人~4000人集結していることになります。この不穏な雰囲気に危機感を抱いたのが旧幕臣の勝海舟、新政府軍とのムダな武力衝突の可能性を危惧して彰義隊に対して解散を促しました。

最も、旧幕臣である勝海舟は彰義隊と同じく旧幕府側の仲間です。ただ、江戸城無血開城で活躍を見せたことから想像できるとおり、勝海舟はむやみに争う姿勢は好みとしていません。そのため彰義隊にも解散を促したのですが、彰義隊はそれを聞き入れようとしませんでした

彰義隊の頭取である渋沢成一郎は、一旦江戸を出て日光に移動することを提案します。しかし、副頭取である天野八郎は渋沢成一郎の提案に対して強く反対、これによって彰義隊の中では意見が分裂してしまい、血誓書まで作成したほど高かった団結力に亀裂が生じるのでした。

彰義隊の討伐計画

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荒れる江戸の町と大村益次郎の派遣

頭取の渋沢成一郎と副頭取の天野八郎で意見が分裂した彰義隊、やがてその団結力にも亀裂が生じて天野派のメンバーが渋沢成一郎の暗殺を企てます。しかしこれは失敗に終わり、渋沢成一郎は彰義隊を離脱していきました。この後、渋沢成一郎は振武軍を結成しています。

さて、江戸に残った彰義隊でしたが、江戸の治安は酷く悪化していました。江戸では幕府の復興を掲げる旧幕府軍の連中が盗賊に成り果ててしまい、強盗や放火を繰り返していたのです。まるで無法地帯となった江戸の町、そこで勝海舟は彰義隊を江戸市中取締役へと任命、江戸の盗賊を取り締まるように命じます。

一方の新政府軍、新政府は京都に陣を置いていましたが、江戸の治安悪化の状況は把握していました。そして、一連の治安悪化の原因は彰義隊にあると判断、旧幕臣の勝海舟や彼に治安を委任していた西郷隆盛の権限を取り上げ、代わって大村益次郎を派遣して彰義隊の討伐を計画します。

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彰義隊の武力討伐決定

5月1日、新政府は彰義隊に対して「江戸市中取締の任務を解除する」、「新政府軍が彰義隊の武装解除を行う」と通告。5月14日には大村益次郎の指揮によって彰義隊を武力討伐することが決定されました。大村益次郎は上野で彰義隊を壊滅させようと計画、この武力討伐となるのが上野戦争です。

大村益次郎が立てた作戦は上野を封鎖しての包囲戦。三方に兵士を配置すれば、彰義隊の逃げ道はおのずと一か所のみとなります。このようにして敢えて唯一の逃げ道を作り、そこに逃げ込んだ彰義隊に対して大砲や銃で攻撃するのです。まさに「皆殺し」の言葉が相応しい作戦でしょう。

実は、大村益次郎は佐賀藩が所有するアームストロング砲を借りていました。仮に彰義隊との戦いが長期戦になってしまうとアームストロング砲の使用回数が増え、そうなると江戸の町へも被害を与えてしまいます。そうならないためにも一気に決着をつけることを望み、残虐ながらも盤石な作戦を立てたのです。

上野戦争の始まりと結末

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上野戦争の始まり

5月15日、新政府軍の宣戦布告によって上野戦争が始まります。正門である黒門口、そして団子坂、谷中門などで彰義隊と新政府軍が衝突。この時、大村益次郎にとって計算外だったのは当日の天候が雨だったこと、そして雨の影響で藍染川が増水していたことでした。

そのため銃が思うように使用できずに苦戦、新政府軍は彰義隊の攻撃に遭って撃退されていきます。しかし、アームストロング砲という切り札を持つ大村益次郎はいよいよこれを使用、彰義隊は黒門口から撤退して寛永寺本堂へと逃げていくと、新政府軍は総攻撃を仕掛けました。

「戦争」と名付けられた上野戦争でしたが、結局戦いは開戦した当日の午後5時には収まり、彰義隊はたった1日で壊滅してしまったのです。ちなみに、脱退した渋沢成一郎も振武軍を率いて彰義隊に加勢しようと上野に向かっていましたが、彰義隊が敗北した知らせを聞くと退却しました。

彰義隊の壊滅と厳しい処罰

上野戦争によって彰義隊は壊滅しましたが、生き残ったメンバーもいました。彼らは残党として江戸を脱出すると、北陸や会津などに逃れた後に新政府軍との戦いを続けます。そして最後には箱館の地に辿り着き、戊辰戦争の最後の舞台となる箱館戦争にも参戦しました。

新政府は彰義隊に対して厳しい処罰を下します。逃走した天野八郎は密告によって捕縛され、投獄された後に肺炎にかかって死亡。また、死亡したメンバーはそのまま放置され続け、メンバーの関係者が遺体の引き取りを願い出るものの、その申し出は却下されたそうです。

ただし、一方で寛大な措置を受けた人物も存在します。当初彰義隊の頭取を務めていた渋沢成一郎は後に大蔵省へと入省、最もこれは彼の従弟である渋沢栄一の尽力があったためでした。彰義隊は賊軍として扱われ、無残な死を遂げた後も供養されることなく捨て置かれたのです。

彰義隊の墓

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\次のページで「上野に建てられた彰義隊の墓」を解説!/

上野に建てられた彰義隊の墓

雑貨商を営んでいた江戸の商人である三河屋幸三郎は、彰義隊の無残な死に様を見るに見かねて荼毘に付しました。彰義隊の戦死者に対して遺族は供養することも許されませんでしたが、上野戦争から5年経った1874年になってようやく新政府からその許可が下ります。

最も、その時には既に戊辰戦争は終結しており、勝利した新政府軍が明治政府として新たな政治を行っていました。当初、彰義隊の遺骨は円通寺に埋葬、近親者らが墓碑を建立したとのことです。そして、この時はまだ表立った供養はできず、彰義隊はひっそりと葬られていました。

しかし、後に彰義隊の元メンバーである小川興郷らによって供養したい願いが聞き入れられ、正式に上野の地に彰義隊の墓が建てられます。戦場となった寛永寺正面の黒門には未だ無数の弾痕が残っており、そこからは上野戦争での戦闘の激しさが感じられるでしょう。

上野戦争後の日本

上野戦争で敗北した彰義隊は旧幕府軍であり、つまり鳥羽伏見の戦いに続いて上野戦争でも旧幕府軍は新政府軍に敗北しました。これによって新政府軍は江戸から西にかけて掌握、関東における旧幕府軍の勢力も低下して、旧幕府軍は戊辰戦争の敗北が濃厚になります

それでも、北の地付近ではまだまだ抗戦する構えを見せ、奥羽越列藩同盟を中心に東北戦争にて旧幕府軍は新政府軍と戦いました。しかし、新政府軍の勢いは止まることなく旧幕府軍はまたしても敗北、箱館の五稜郭にて最後の戦いとなる箱館戦争が起こります。

箱館戦争で旧幕府軍が敗北するとようやく戊辰戦争は終結、新政府軍は明治政府として新たな時代を作っていくのです。最も、その先に待っていたのは新政府軍として戦った西郷隆盛を始めとする薩摩藩と明治政府の対立、それが西南戦争へとつながっていくのでした。

上野戦争を覚えるのは難しくない!

彰義隊を覚えるポイントですが、重要なのは結成されるまでのいきさつや関係者の名前の把握です。最も、歴史の流れからすれば上野戦争こそ彰義隊にとって最大の戦いかもしれません。
 
しかし、上野戦争はわずか1日で終わっており、キーワードは大村益次郎やアームストロング砲くらいです。このため上野戦争を覚えるのはそれほど難しくなく、それよりも前述した部分の勉強に時間を割きましょう。
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幕末日本史歴史江戸時代

賊軍と扱われて無残な最期を遂げた「彰義隊」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は彰義隊(しょうぎたい)について勉強していきます。彰義隊とは、明治維新で起きた戊辰戦争の中で旧幕臣によって結成された徳川慶喜を護衛するための警護部隊です。

「大義を彰(あきら)かにする隊」の意味でつけられた彰義隊は上野戦争にて新政府軍と戦う。そこで、今回は彰義隊について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から彰義隊をわかりやすくまとめた。

彰義隊の結成

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徳川慶喜の復権と助命を目指す本多敏三郎

幕末の1868年、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発、その緒戦となったのが鳥羽伏見の戦いでした。兵力の数でこそ新政府軍を上回る旧幕府軍でしたが、性能の高い武器を持つ新政府軍に苦戦、この戦いで旧幕府軍は敗北して徳川慶喜は逃亡してしまいます。

徳川慶喜について調べると「卑怯者」と解説されていることがありますが、それはこの鳥羽伏見での逃亡が理由です。さて、あろうことか逃亡した徳川慶喜が向かった先は江戸城で、彼はそこで新政府側に対して従う意思を見せると上野寛永寺で引きこもってしまいました。

鳥羽伏見の戦いで敗北したとは言え、あくまでそれは戊辰戦争の緒戦。まだ諦める時ではないと徳川慶喜の態度に不満を持った一橋家臣・本多敏三郎は、雑司ヶ谷にあった茗荷屋にて有志を募ります。本多敏三郎の目的は徳川慶喜の復権と助命で、有志を募ってその相談をしようと思っていました。

尊王恭順有志会から彰義隊へ

雑司ヶ谷にあった茗荷屋から四谷鮫ヶ橋にある円応寺へと場所を移す本多敏三郎、そこでもまた相談の場を開こうとしますが、肝心の策が見出せないまま時間は経過します。そこで本多敏三郎は旧幕臣の渋沢成一郎に相談を持ち掛け、他藩の隊士達にも声掛けして有志を集めていきました。

その結果、新政府に反発する17人の有志が集結、こうして尊王恭順有志会が結成されたのです。同じ思想と志を持つ仲間の結束の証として、尊王恭順有志会が結成された際には「尽忠報国」、「薩賊」と掲げた血誓書を作成。「尽忠報国」とは、「国に報いて忠を尽くす」の意味になります。

同年2月23日、浅草本願寺において晴れて尊王恭順有志会の結成式が行われますが、その際に阿部杖策が改名を発案。「大義を彰(あきら)かにする」の意味を込めて改めて彰義隊と命名されました。この時、尊王恭順有志会から彰義隊へと改名されたことで再び血誓書を作成しています。

\次のページで「彰義隊に対する勝海舟の不安」を解説!/

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