幕末日本史歴史江戸時代

賊軍と扱われて無残な最期を遂げた「彰義隊」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。今日は彰義隊(しょうぎたい)について勉強していくぞ。彰義隊とは、明治維新で起きた戊辰戦争の中で旧幕臣によって結成された徳川慶喜を護衛するための警護部隊だ。

「大義を彰(あきら)かにする隊」の意味でつけられた彰義隊は上野戦争にて新政府軍と戦う。そこで、今回は彰義隊について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から彰義隊をわかりやすくまとめた。

彰義隊の結成

image by PIXTA / 29641529

徳川慶喜の復権と助命を目指す本多敏三郎

幕末の1868年、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発、その緒戦となったのが鳥羽伏見の戦いでした。兵力の数でこそ新政府軍を上回る旧幕府軍でしたが、性能の高い武器を持つ新政府軍に苦戦、この戦いで旧幕府軍は敗北して徳川慶喜は逃亡してしまいます。

徳川慶喜について調べると「卑怯者」と解説されていることがありますが、それはこの鳥羽伏見での逃亡が理由です。さて、あろうことか逃亡した徳川慶喜が向かった先は江戸城で、彼はそこで新政府側に対して従う意思を見せると上野寛永寺で引きこもってしまいました。

鳥羽伏見の戦いで敗北したとは言え、あくまでそれは戊辰戦争の緒戦。まだ諦める時ではないと徳川慶喜の態度に不満を持った一橋家臣・本多敏三郎は、雑司ヶ谷にあった茗荷屋にて有志を募ります。本多敏三郎の目的は徳川慶喜の復権と助命で、有志を募ってその相談をしようと思っていました。

尊王恭順有志会から彰義隊へ

雑司ヶ谷にあった茗荷屋から四谷鮫ヶ橋にある円応寺へと場所を移す本多敏三郎、そこでもまた相談の場を開こうとしますが、肝心の策が見出せないまま時間は経過します。そこで本多敏三郎は旧幕臣の渋沢成一郎に相談を持ち掛け、他藩の隊士達にも声掛けして有志を集めていきました。

その結果、新政府に反発する17人の有志が集結、こうして尊王恭順有志会が結成されたのです。同じ思想と志を持つ仲間の結束の証として、尊王恭順有志会が結成された際には「尽忠報国」、「薩賊」と掲げた血誓書を作成。「尽忠報国」とは、「国に報いて忠を尽くす」の意味になります。

同年2月23日、浅草本願寺において晴れて尊王恭順有志会の結成式が行われますが、その際に阿部杖策が改名を発案。「大義を彰(あきら)かにする」の意味を込めて改めて彰義隊と命名されました。この時、尊王恭順有志会から彰義隊へと改名されたことで再び血誓書を作成しています。

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彰義隊は、徳川慶喜が謹慎してからわずか10日ほどで結成されている。最も、最初は尊王恭順有志会と命名されたが、阿部杖策の提案によって結成式の日に彰義隊へと改名。結成時には血誓書を作成しており、団結力の高さがうかがえる。

\次のページで「彰義隊に対する勝海舟の不安」を解説!/

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