今回は蕃書調所を取り上げるぞ。幕末に幕府が設立した機関て、どんなところだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、蕃書調所について5分でわかるようにまとめた。

1-1、蕃書調所とは

蕃書調所(ばんしょしらべしょ)は、幕末に幕府が設けた洋学のための教育研究機関のこと。嘉永6年(1853年)ペリー艦隊が来航し、翌年の日米和親条約の締結。開国によって幕府は外交事務を行わざるを得なくなり、専任の外交担当官、翻訳官の養成、そして軍備の充実が緊急課題に。

そしてこれらに対処するため幕府直轄の洋学校の設立が企画され、安政2年(1855年)、に古賀謹一郎を洋学所頭取に任命、翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称して設立。有名な蘭学、洋学の徒が関わり、文久2年(1862年)には、学問所奉行、林大学頭の管轄下に入って昌平黌と同格の幕府官立学校に。また同年6月、「蕃書」の名称が実態に合わなくなって「洋書調所」と改称、翌年「開成所」と改称。明治維新後は明治政府に移管、東京大学の前身校の一つとなったということ。

尚、蕃書とは南蛮(オランダ)語の書物のことで、当時はまだ外国という言葉は使われていなかったそう。

2-1、蕃書調所設立の発端

image by PIXTA / 45551008

江戸幕府では、蕃書調所設立以前に西洋の学問に関わる機関は、暦を作っていた天文方。天文学は蘭学の一端でオランダ語が必要とされたため蘭学者と関係が深く、天文方の中に蛮書和解御用という部署があったということ。

2-2、古賀謹一郎が老中阿部正弘に進言、開設へ

幕府の儒者の家柄で昌平黌学問所の教官だった古賀謹一郎は、独学で漢訳蘭書から西洋の事情を習得した人。この頃にはアメリカから帰国した漂流者から欧米事情を取材して「蕃談」を著したほどの事情通で、嘉永6年(1853年)のロシアのプチャーチン艦隊の来航では応接掛となり、目付筒井政憲、川路聖謨に随行して長崎でロシア使節と交渉。翌年のロシア艦再来日でも伊豆下田で交渉を行って、日露和親条約の締結に貢献。

古賀はこういう経験から日本の学問状況に危機感を抱き、老中阿部正弘に、洋学所設立に加えて、外国領事館の設置や沿海測量許可などを求めて、たびたび建白書を提出したところ、西洋の学問の必要性を痛感していた老中阿部の目に留まり、安政2年(1855年)8月、直々に洋学所頭取(校長)に任命されたということ。

古賀は、蘭書翻訳と教育機関の構想を練って、勝海舟らと草案を作成、同年9月蕃書調所設立案を提出。これがもとになって安政4年(1857年)正月、蕃書調所が正式に開設。

2-3、古賀謹一郎、著名な学者を招聘

古賀は、日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取(校長)として、国内の著名な学者を招聘。すでに蘭学者として高名だった箕作阮甫を教授として招いたのを始め、教授見習として三田藩の川本幸民、周防出身の手塚律蔵、村田蔵六(大村益次郎で当時は宇和島藩に出仕)、薩摩藩の松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、中村敬輔(中村敬宇)、箕作秋坪、加藤弘之、大鳥圭介ら、幕臣だけでなく身分を問わない各藩の俊才も幅広く採用。

最初の年は幕臣の子弟が対象だったが、翌年の安政5年(1858年)以降は諸藩士の入学も認めたということで、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は降盛、書籍は留学生が仕入れたりなどで次第に充実し、自然科学部門も設けられたということ。

\次のページで「2-4、蕃書調所の場所」を解説!/

2-4、蕃書調所の場所

最初の洋学所は神田小川町に所在したが、安政の大地震で倒壊、壊滅。蕃書調所としては新たに九段坂下に講舎を新築して開講。その後、万延元年(1860年)井伊直弼が大老となると洋学軽視政策の影響で、小川町の狭い講舎に移転、文久2年(1862年)には一橋門外の護持院原(現在の神田錦町)の広大な校地に移転し、後身機関の開成所、開成学校、東京大学法理文三学部に継承。1000人余りの希望者の中から幕臣とその子弟に限った191人が入学。

2-5、蕃書調所の活動内容

蕃書調所は、学生に勉学を教えて開国後の対応ができる人材育成という目的以上に、当時の政府である幕府直轄の西洋情報や技術の翻訳、移植についての調査研究機関だったよう。実質の活動としては、洋書洋文の翻訳、研究、洋学教育、洋書、翻訳書などの検閲、印刷、出版、一部の技術伝習と言った具合で、横浜で発行されている外国人向けの新聞の翻訳とかオランダ風説書の翻訳などの情報収集も重要な仕事だったということ。

また蕃書調所は当初はオランダ語の習得やオランダ語の書物の翻訳が目的だったが、英語の隆盛があきらかになったこと、安政5年(1858年)の5カ国条約では、日本は調印日から5年間はオランダ語を外交文書に使用してもよいが、それ以後は相手国の言語での交渉が義務づけられたこともあり、英語、フランス語、ドイツ語の教授も教育。そして精煉、器械、物産、数学といった、科学技術部門諸科が次々に開設。

3-1、蕃書調所の主な教職員

当時のエリート教授たちをご紹介しますね。

3-2、古賀謹一郎 創設者

江戸昌平黌官舎の生まれで、祖父に寛政の三博士の儒者古賀精里という儒者の家系の出身。幼い頃から漢籍、経典に精通し、31歳で昌平黌(昌平坂学問所)の儒者見習、翌年、儒者となったが、洋学の必要性をいち早く感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋の事情を習得してアメリカの漂流者から欧米の事情を取材した「蕃談」を著したということ。

この時期の昌平坂学問所の教官としての同僚には、安積艮斎、佐藤一斎、林復斎らが、昌平黌、家塾久敬舎で教えた儒学での門人として、一橋慶喜家臣原市之進、会津藩士秋月悌次郎、越後長岡藩家老河井継之助、白洲退蔵、平田東助らがいるということ。

老中阿部への提言で蕃書調所が開設されたが、文久2年(1862年)5月、御留守居番就任に伴ってこの年に要所調べ書と改称していた蕃書調所の頭取を解任、以後4年間は失職し、不遇に。慶応2年(1866年)製鉄所奉行として復職。翌年には目付となり、筑後守に。

明治維新後は、新設した大学校(昌平黌、蕃書調所の後身)の教授として新政府から招聘されたが、幕臣としての節を守り、明治新政府に仕えず静岡へ移住。

3-3、箕作阮甫(みつくり げんぽ) 教授 

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不明 - [1]、苫田郡教育会『苫田郡誌』、1927年, パブリック・ドメイン, リンクによる

曽祖父の代からの町医者で、父の代で津山藩の藩医となり、12歳で家督相続、儒学を学び、京都に出て医術を習得後、藩主のお供で江戸へ下向して宇田川玄真の門下で洋学を学んだということ。

幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に。日本最初の医学雑誌「泰西名医彙講」「外科必読」「産科簡明」「和蘭文典」「八紘通誌」「水蒸船説略」「西征紀行」など、訳述書は99部160冊余り、医学、語学、西洋史、兵学、宗教学と広範囲の分野にわたるそう。

3-4、箕作秋坪(みつくり しゅうへい) 教授手伝

備中岡山の儒者の家の生まれで、最初に美作国津山藩士の箕作阮甫、次に緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、阮甫の2女つねと結婚して婿養子に(次男は数学者の大麓で父秋坪の実家・菊池家の養嗣子、3男は動物学者の佳吉、4男は歴史学者の元八)。

幕府天文方で翻訳に従事した後、安政6年(1859年)、幕府蕃書調所の教授手伝に就任。文久元年(1861年)には、文久遣欧使節として、福澤諭吉、松木弘安 (寺島宗則)、福地源一郎らと随行しヨーロッパを視察。慶応2年(1866年)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣。

明治維新後はかつての攘夷論者がいる明治新政府に仕えるのを嫌い、三叉学舎を開設。三叉学舎は当時、福沢諭吉の慶應義塾と並び称される洋学塾の双璧で、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などが学んだということで、専修大学の前身である専修学校の開設についても協力。

明治12年(1879年)、教育博物館(国立科学博物館の前身)の館長となり明治18年(1885年)には東京図書館(帝国図書館及び国立国会図書館の前身)の館長、東京師範学校摂理も務めたということ。 また、明治6年(1874年)、森有礼らと明六社を創立してまもなく社長に就任。福澤諭吉、西周、加藤弘之らとともに東京学士会院の創設に参画。

\次のページで「3-5、村田蔵六 教授手伝」を解説!/

3-5、村田蔵六 教授手伝

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エドアルド・キヨッソーネ - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

のちの大村益次郎、長州の村医者の息子で蘭学を学ぶために緒方洪庵の適塾へ入塾し塾頭に。その後、宇和島藩に出仕し、オランダ語の教授や翻訳をしていたが、安政3年(1856年)4月、藩主伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出た後、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾、蘭学、兵学、医学を教えたが、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳、兵学講義、オランダ語講義などを行ったということ。

安政4年(1857年)11月、築地の幕府の講武所教授となったが、桂小五郎(木戸孝允)の推薦で長州藩にヘッドハンティングされ、第二次長州征伐の指揮を執って幕府軍に連戦連勝、戊辰戦争でも指揮を執り、上野の彰義隊を制圧するなどで維新の十傑の一人と言われる存在に。事実上の日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖。

3-6、赤松則良 句読教授

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不明 - 佐世保市編『佐世保志 上巻』、1915年, パブリック・ドメイン, リンクによる

幕府の御家人の家に生まれ、安政4年(1857年)に長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学び、万延元年(1860年)日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行して、咸臨丸で渡米。文久元年(1861年)に幕府のアメリカ留学生として選任されたが、南北戦争勃発でオランダ留学生に変更となり、内田正雄、榎本武揚、西周、澤太郎左衛門らと共に文久2年(1862年)オランダへ留学し、開陽丸の建造と同時進行で、運用術、砲術、造船学などを学び、完成した開陽丸に乗船して帰国する榎本武揚ら留学生達と別れてオランダへ残留、留学を継続。

慶応4年(1868年)大政奉還を知り、留学を中止し帰国、同年5月17日、横浜港へ帰着後、榎本武揚と合流して江戸脱走を試みるが果たせず、徳川家臣らと共に静岡藩へ移り、静岡藩沼津兵学校陸軍一等教授方となり、明治政府に出仕して海軍中将となったそう。

3-7、杉田玄端 教授手伝、後に教授

杉田玄白の曾孫杉田白元の養子となって杉田家の家督を相続。若狭国小浜藩主の侍医を務め、幕府お抱えの医師となり、戸塚文海と共に勝海舟らの主治医もつとめ、蕃書調所教授から慶応元年(1865年)に外国奉行支配翻訳御用頭取に就任。

医学書だけでなく、嘉永4年(1851年)には、吉田松陰や橋本左内らの世界観を構築する基になった幕末最高の世界地理知識書といわれる「地学正宗図」を完成させたということ。

\次のページで「3-8、松木弘安 教授手伝」を解説!/

3-8、松木弘安 教授手伝

寺島宗則と改名し、明治後外務大臣となって日本の電気通信の父と呼ばれるように。薩摩藩の郷士出身で蘭方医の伯父の養子となり、長崎ついで江戸で伊東玄朴、川本幸民に蘭学を学んで、安政2年(1855年)より中津藩江戸藩邸の蘭学塾に出講し、 安政3年(1856年)、蕃書調所教授手伝に。

その後、帰郷して薩摩藩主島津斉彬の侍医に、再び江戸へ出て蕃書調所に復帰。蕃書調所で蘭学を教えつつ、安政4年(1857年)から英語を独学、文久元年(1861年)、幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として、福澤諭吉、箕作秋坪とともに派遣。文久2年(1862年)、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として派遣。翌年、鹿児島に戻り、文久3年(1863年)の薩英戦争では五代友厚とイギリス軍の捕虜に。そして慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団として再び欧州を歴訪。明治維新後は初代の在イギリス日本公使に就任。

3-9、西周 (にしあまね) 教授手伝

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

津和野藩のご典医の家柄の出身で、藩校で漢学と蘭学を学び、安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほかの西欧の学問を研究。文久2年(1862年)、幕府から派遣されて津田真道、榎本武揚らとともにオランダに留学、シモン・フィッセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学び、明治後は哲学者、教育家、啓蒙思想家に。

3-10、津田真道 教授手伝

美作国津山藩上之町(現岡山県津山市)の生まれで、嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学び、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用され、文久2年(1862年)、西周らとオランダに留学。ライデン大学のシモン・フィッセリングに法律を学び、講義録を慶応2年(1866年)に「泰西国法論」として翻訳したものが、日本初の西洋法学の紹介に。

明治維新後は新政府の司法省に出仕し「新律綱領」の編纂に参画。その後、日清修好条規提携のために全権伊達宗城の副使で外務権大丞としてとして清国へ。そして陸軍省で陸軍刑法を作成、裁判官、元老院議官となり、第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、大成会に属して初代衆議院副議長に就任。

3-11、川本幸民(こうみん) 教授手伝、後に教授

三田藩の生まれで日本化学の祖ともいわれるそう。文政12年(1829年)、三田藩藩主の九鬼隆国の命令で、西洋医学を学ぶため江戸に留学して、足立長雋、坪井信道らに蘭学を学び、物理や化学に精通、「気海観瀾広義」などの多くの翻訳、著作を出版し、薩摩藩藩主島津斉彬に見出され、薩摩藩籍となり、薩摩藩校学頭をつとめ、造船所建造の技術指導のため薩摩に赴き、松木弘安(寺島宗則)、橋本左内等も教えたそう。

幸民は化学新書をはじめ、科学技術分野の多数の書物を執筆しただけでなく、白砂糖、マッチ、銀板写真、そしてビールを試作、日本の技術の発展に貢献。また、当時用いられていた「舎密」の代わりに「化学」という言葉を初めて用いたということ。

3-12、柳川春三(しゅんさん) 教授

尾張藩士で、漢学を学んだのち、尾張の藩医伊藤圭介のもとで蘭医学を習得し、江戸に出て紀州藩に出仕。洋学者として評判高く、元治元年(1864年)幕府の開成所教授職に抜擢。

開成所では職務として外国新聞を翻訳、しだいに新聞雑誌に興味をもち同僚と会訳社を組織して回覧雑誌を編集。また伝聞したニュースを集め「新聞薈叢(わいそう)」を出版。その後、「西洋雑誌」慶応3年(1867年)、「中外新聞」慶応4年(1868年)を発行、日本のジャーナリズム活動に先駆的役割を。慶応4年(1868年)3月、開成所頭取となったが、明治維新後、「中外新聞」は佐幕派とみなされて発行禁止。明治2年(1869年)3月に一時再刊したが、翌年に廃刊。明治2年(1869年)7月、大学少博士に任ぜられたが、10月に免官。明治3年(1870年)2月死去。

当時の洋学エリートを集め、必要に迫られて出来た幕府の研究機関

蕃書調所はペリー来航後、開国して諸外国との外交交渉が始まり、外国語取得から情報収集などの必要に迫られた幕府が、古賀謹一郎の提言を聞き入れて老中阿部正弘が設立した機関。

当時の日本の主だった蘭学者や洋学者が集結し、学生に語学を教えたり翻訳したり、技術を学んだりと大忙しだったはず。学者以外には勝海舟や大久保一翁も頭取や総裁の役職に就いていますが閑職だったようで、学者たちに任せっぱなし。そして蕃書調所に関わった教授、教授手伝いたちはその後、様々な道を歩み、明治新政府に仕えるのを良しとしなかった人もいたが、明治後も教育や技術で貢献した人も多くいたということ。

蕃書調所は洋書調所、開成所と名前を変え、幕府瓦解とともに明治新政府の管轄となり、東京大学の前身となったわけですが、蕃書調所がいかに日本での西洋文化の黎明期的存在だったかは、個性的な教授陣のバラエティーに富んだその後の人生をみると明白ではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

幕末に幕府が設立した「蕃書調所」をわかりやすく歴女が解説

今回は蕃書調所を取り上げるぞ。幕末に幕府が設立した機関て、どんなところだったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、蕃書調所について5分でわかるようにまとめた。

1-1、蕃書調所とは

蕃書調所(ばんしょしらべしょ)は、幕末に幕府が設けた洋学のための教育研究機関のこと。嘉永6年(1853年)ペリー艦隊が来航し、翌年の日米和親条約の締結。開国によって幕府は外交事務を行わざるを得なくなり、専任の外交担当官、翻訳官の養成、そして軍備の充実が緊急課題に。

そしてこれらに対処するため幕府直轄の洋学校の設立が企画され、安政2年(1855年)、に古賀謹一郎を洋学所頭取に任命、翌年2月に洋学所を蕃書調所と改称して設立。有名な蘭学、洋学の徒が関わり、文久2年(1862年)には、学問所奉行、林大学頭の管轄下に入って昌平黌と同格の幕府官立学校に。また同年6月、「蕃書」の名称が実態に合わなくなって「洋書調所」と改称、翌年「開成所」と改称。明治維新後は明治政府に移管、東京大学の前身校の一つとなったということ。

尚、蕃書とは南蛮(オランダ)語の書物のことで、当時はまだ外国という言葉は使われていなかったそう。

2-1、蕃書調所設立の発端

image by PIXTA / 45551008

江戸幕府では、蕃書調所設立以前に西洋の学問に関わる機関は、暦を作っていた天文方。天文学は蘭学の一端でオランダ語が必要とされたため蘭学者と関係が深く、天文方の中に蛮書和解御用という部署があったということ。

2-2、古賀謹一郎が老中阿部正弘に進言、開設へ

幕府の儒者の家柄で昌平黌学問所の教官だった古賀謹一郎は、独学で漢訳蘭書から西洋の事情を習得した人。この頃にはアメリカから帰国した漂流者から欧米事情を取材して「蕃談」を著したほどの事情通で、嘉永6年(1853年)のロシアのプチャーチン艦隊の来航では応接掛となり、目付筒井政憲、川路聖謨に随行して長崎でロシア使節と交渉。翌年のロシア艦再来日でも伊豆下田で交渉を行って、日露和親条約の締結に貢献。

古賀はこういう経験から日本の学問状況に危機感を抱き、老中阿部正弘に、洋学所設立に加えて、外国領事館の設置や沿海測量許可などを求めて、たびたび建白書を提出したところ、西洋の学問の必要性を痛感していた老中阿部の目に留まり、安政2年(1855年)8月、直々に洋学所頭取(校長)に任命されたということ。

古賀は、蘭書翻訳と教育機関の構想を練って、勝海舟らと草案を作成、同年9月蕃書調所設立案を提出。これがもとになって安政4年(1857年)正月、蕃書調所が正式に開設。

2-3、古賀謹一郎、著名な学者を招聘

古賀は、日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取(校長)として、国内の著名な学者を招聘。すでに蘭学者として高名だった箕作阮甫を教授として招いたのを始め、教授見習として三田藩の川本幸民、周防出身の手塚律蔵、村田蔵六(大村益次郎で当時は宇和島藩に出仕)、薩摩藩の松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)、津田真一郎(津田真道)、中村敬輔(中村敬宇)、箕作秋坪、加藤弘之、大鳥圭介ら、幕臣だけでなく身分を問わない各藩の俊才も幅広く採用。

最初の年は幕臣の子弟が対象だったが、翌年の安政5年(1858年)以降は諸藩士の入学も認めたということで、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当。語学教育は降盛、書籍は留学生が仕入れたりなどで次第に充実し、自然科学部門も設けられたということ。

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