今日は五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)について勉強していきます。1868年、江戸幕府が滅亡したことで日本は天皇中心の政治を目指すようになった。

新政府側は今後の政治の進め方を示すための文章を作成、それが五箇条の御誓文です。そこで、今回は五箇条の御誓文について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から五箇条の御誓文をわかりやすくまとめた。

戊辰戦争が起こったいきさつ

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高まる幕府への不満

1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は、250年以上の歴史を築きます。しかし、そんな江戸幕府に陰りが見え始めたのは1854年の開国がきっかけでした。これまで日本は幕府の対外政策によって外国を遮断してきましたが、1853年に突如ペリーが黒船で来航すると、翌1854年に日米和親条約を結んで開国したのです。

以後、幕府は衰退の道を辿ります。アメリカの圧力に屈して調印した不平等条約、それに反発する人々に対する強引な弾圧……行う政策に対する人々の不満は蓄積されていきました。そして、やがて幕府ではなく天皇による政治を求める声が高まり、その声は倒幕を掲げるようになったのです。

最も、全盛期の幕府ならその気になれば人々の反発など一掃できたかもしれません。しかし、衰退した幕府にそこまでの力はなく、そのため最後の将軍・徳川慶喜は大政奉還を行って政権を朝廷の天皇へと返上、倒幕ムードが高まる中で意外にも自ら幕府の歴史に幕を降ろしたのでした。

徳川慶喜の目論み

徳川慶喜は頭の切れる人物で、大政奉還を行ったことには理由がありました。いくら世間で天皇の政治を支持する意見が高まっているとは言え、若い明治天皇の政治の腕は素人同然。一方の徳川慶喜には、これまで徳川家が江戸幕府で代々政治を行ってきたことでのノウハウがあります。

ですから、徳川慶喜は例え幕府を失っても政治の実権を握れると考え、しかもその考えは半ば的中したのです。これに業を煮やしたのが倒幕派、依然として徳川慶喜が政治に携わるようでは幕府の時代と何も変わらず、そうさせないためにはもはや徳川慶喜を討伐するしかないと決意します。

最も、徳川慶喜にも味方がいなかったわけではありません。未だ徳川慶喜を支持する人々は旧幕府軍として新政府軍に対抗、こうして新政府軍と旧幕府軍は衝突、その末に起こったのが1868年1月に起こった戊辰戦争であり、五箇条の御誓文は同年の4月に出されたのでした。

\次のページで「五箇条の御誓文の作成」を解説!/

五箇条の御誓文の作成

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五箇条の御誓文・原案

1868年1月、つまりちょうど戊辰戦争が始まった頃、政府の中では人々に対して天皇親政の基本方針を示す文章の作成が検討されていました。つまり、五箇条の御誓文は戊辰戦争の開戦と同じくらいの時期に検討され始めたのです。そして、五箇条の御誓文の起草文が完成しました。

起草文とはすなわち原案であり、これを考えたのは福井藩出身の由利公正。彼は坂本竜馬と仲が良く、この起草文には坂本竜馬が起草したとされる新国家体制の基本方針を示す船中八策が取り込まれているとも伝えられています。さて、完成した起草文は次のようになりました。

1.「庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを欲す」、2.「士民心を一にし盛に経綸を行ふを要す」、3.「智識を世界に求め広く皇基を振起すべし」、4.「貢士期限を以って賢才に譲るべし」、5.「万機公論に決し私に論ずるなかれ」となっています。

五箇条の御誓文・完成版

由利公正の起草文の特徴を挙げると、「新政府では身分関係なく全員が天皇のために協力しよう」と訴える内容になっており、「庶民」や「士民(士族と平民の総称)」のキーワードからそれが感じられますね。また、士民が活躍するためには世界に知識を求めるべきと説かれていて、それを示しているのが「3」の御誓文です。

さらに「4」に注目すると、貢士(大名が天皇に推薦した人材)に期限を設けて入れ替えするべきと説かれています。おそらくこれは、現在で例えるなら選挙制度のようなものを意味していると考えられ、この起草文に基づいて修正を行い五箇条の御誓文は完成、1868年4月に公布されました

1.「広く会議を興し万機公論に決すべし」、2.「上下心を一にしてさかんに経綸を行うべし」、3.「官武一途庶民にいたるまで各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」、4.「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」、5.「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」……これが最終的な五箇条の御誓文になります。

五箇条の御誓文の説明1

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1.「広く会議を興し万機公論に決すべし」

これは「日本全国の中から優秀な人材を集めて会議をして決めるべき」と解釈できます。これまでは政治を進めていたのは幕府であり、意見できるのは老中などに限られていました。言い換えれば、権力の低い外様大名や農民は蚊帳の外状態であり、例え優秀でもその才能を発揮する場面は与えられなかったのです。

これでは有能な人材は埋もれてしまい、それどころか老中の考え次第で政治は混乱してしまうでしょう。そうなると人々に不満を与えてしまい、事実日本の歴史の中では政治に不満を募らせた人々の反乱が幾度となく起こっていました。そこで、政府はそんな現状を変えようとしたのです。

これからは身分関係なく優秀な人材を集めていき、そのメンバー達で会議を開いて様々なことを決めようと考えます。五箇条の御誓文は公卿や諸侯などに対して示されたものですが、この考えは自由民権運動によって一般の人々にも広まり、後に国会開設を実現させました。

\次のページで「2.「上下心を一にしてさかんに経綸を行うべし」」を解説!/

2.「上下心を一にしてさかんに経綸を行うべし」

「上下」の表現から連想できると思いますが、これは「身分関係なく日本を治めよう」と解釈できます。ただし「身分関係なく=身分や格差はない」と捉えると少々矛盾してしまい、明治時代にも華族などの身分の差は存在しており、そこには格差もありました。

実際、起草文の段階ではこの御誓文は「上下」ではなく「士民」と表現されていたため、それを「上下」に修正したことはむしろ身分格差を強調したとも考えられるでしょう。ですから、ここでの意味は「身分格差はあるものの、各々が天皇のために協力しよう」の解釈が正確です。

また、近年ではそもそも江戸時代に身分制度はなかったことが判明しています。以前は士農工商の身分差があったと解説されていたものの、士農工商はあくまで職を4つに分けた表現でしかなく、身分差を示す言葉ではないと判明しました。政府は四民平等を掲げましたが、実質身分制度は残っていたのです。

五箇条の御誓文の説明2

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3.「官武一途庶民にいたるまで各々その志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」

長い文章ですが、まとめると「政府も武士も一般の国民もそれぞれの責任を果たして目標を達成していきましょう」と解釈できます。五箇条の御誓文は天皇親政に向けた今後の方針を示すものですが、この文章に至っては全ての国民に伝えているようにも思えますね。

政府は日本を近代化させ、欧米諸国と対等に渡り合える強い日本を作ろうとしていました。そのために、これから政府が行っていくことに対して国民も応えて目標を達成してほしいと伝えているのでしょう。そんな政府の気持ちが伝わったのかは分かりませんが、明治時代になると産業が発達していきました。

例えば、生糸の生産に力を入れた日本はハイテク機器を導入して工場を建てます。その工場とは富岡製糸場であり、作られた生糸の評価は大変高く、日本の生糸の取引の輸出量は一時期において世界一になるほど成長を遂げました。また、船や鉄道の建造も積極的に進められていったのです。

4.「旧来の陋習を破り天地の公道に基づくべし」

これは「今までの古い風習を捨てて道理に叶った方法で行動するべき」と解釈できます。古い風習とは江戸時代までの風習を意味しており、それにこだわるのではなく欧米諸国の新しい風習を積極的に取り入れるべきだと説き、それが近代化につながると考えられていました。

最も、これは現在でも同じことを思う機会があるのではないでしょうか。それが良いか悪いかはともかく、世間の年長者の意見に対して「そんな昔の考えにこだわらず、現代に合わせた考えを持たなければならない」と思った経験のある人は多いでしょう。

ただし、これについては後に士族の不満を高めることになりました。江戸時代の主役は武士ですから、江戸時代の風習が排除されるということは武士が排除されるということでもあり、事実政府は後に廃刀令を発令してこれまで当然だった刀の帯刀を禁止してしまったのです。

五箇条の御誓文の説明3

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\次のページで「5.「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」」を解説!/

5.「智識を世界に求め大いに皇基を振起すべし」

これは「知識を世界に広め、天皇中心として日本の伝統を大切にして発展させていきましょう」と解釈できます。先程の御誓文では「古い風習を捨てよう」と示されていましたが、あくまでそれは不要な風習であり、政府も日本の良き伝統や文化は世界に伝えるべきだと考えました。

実際、現在でも外国で日本食がブームとなるケースも少なくなく、それもまた日本の文化の伝わりの一つだと言えるでしょう。さて、五箇条の御誓文に示された五箇条はここまでになりますが、五箇条の御誓文の最後には天皇の言葉が記されていて、それは次のように解釈できます。

「日本は未だかつてない大きな改革を行おうとしている。私は自ら天地の神々や祖先に誓い、重大な決意をして国政に関するこの基本方針を定めた。そして、国民の生活を安定させる道を確立しようとしているところだ。だから国民もこの趣旨に従い、心を合わせて努力しましょう」と。

五箇条の御誓文の評価

五箇条の御誓文では、天皇が君主であることが強調されています。そして、記された内容は人々に希望を与えるものでしたが、実際にそのための政策を行われると、人びとの気持ちに変化が起こりました。「理想は素晴らしいがそのための政策が気に入らない」……特にそう感じたのは士族でしょう。

江戸時代、武士は時代の主役となって権力を手にしていましたが、近代化を目指す日本において武士は時代に取り残されていきました。廃刀令で刀を失い、徴兵制度で活躍の場を失い、次々と特権を奪われた士族は明治政府に反発して不平士族となって各地で次々と反乱を起こします。

その果てに起こったのが西南戦争であり、その意味で五箇条の御誓文の評価は高くなかったかもしれません。しかし、そもそも五箇条の御誓文の役割は戊辰戦争において人々を新政府の味方につけることでしたから、戊辰戦争の勝敗から判断してその役割は充分に果たしたと言えるでしょう。

五箇条の御誓文とは明治天皇の神々への誓い!

五箇条の御誓文で分かりづらいのは、誰が誰に対して出した文章なのかという点です。文章の内容から国民に向けてのものだと思われがちですが、実は明治天皇が神々に対して誓いとして出したものでした。

では、国民に対しては何も出さなかったのか?……国民に対しては五榜の掲示を出しており、この五榜の掲示と五箇条の御誓文を区別できるようにすることも大切なポイントです。

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日本史明治明治維新歴史

明治天皇が日本の未来を示した神への誓い「五箇条の御誓文」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)について勉強していきます。1868年、江戸幕府が滅亡したことで日本は天皇中心の政治を目指すようになった。

新政府側は今後の政治の進め方を示すための文章を作成、それが五箇条の御誓文です。そこで、今回は五箇条の御誓文について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から五箇条の御誓文をわかりやすくまとめた。

戊辰戦争が起こったいきさつ

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高まる幕府への不満

1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は、250年以上の歴史を築きます。しかし、そんな江戸幕府に陰りが見え始めたのは1854年の開国がきっかけでした。これまで日本は幕府の対外政策によって外国を遮断してきましたが、1853年に突如ペリーが黒船で来航すると、翌1854年に日米和親条約を結んで開国したのです。

以後、幕府は衰退の道を辿ります。アメリカの圧力に屈して調印した不平等条約、それに反発する人々に対する強引な弾圧……行う政策に対する人々の不満は蓄積されていきました。そして、やがて幕府ではなく天皇による政治を求める声が高まり、その声は倒幕を掲げるようになったのです。

最も、全盛期の幕府ならその気になれば人々の反発など一掃できたかもしれません。しかし、衰退した幕府にそこまでの力はなく、そのため最後の将軍・徳川慶喜は大政奉還を行って政権を朝廷の天皇へと返上、倒幕ムードが高まる中で意外にも自ら幕府の歴史に幕を降ろしたのでした。

徳川慶喜の目論み

徳川慶喜は頭の切れる人物で、大政奉還を行ったことには理由がありました。いくら世間で天皇の政治を支持する意見が高まっているとは言え、若い明治天皇の政治の腕は素人同然。一方の徳川慶喜には、これまで徳川家が江戸幕府で代々政治を行ってきたことでのノウハウがあります。

ですから、徳川慶喜は例え幕府を失っても政治の実権を握れると考え、しかもその考えは半ば的中したのです。これに業を煮やしたのが倒幕派、依然として徳川慶喜が政治に携わるようでは幕府の時代と何も変わらず、そうさせないためにはもはや徳川慶喜を討伐するしかないと決意します。

最も、徳川慶喜にも味方がいなかったわけではありません。未だ徳川慶喜を支持する人々は旧幕府軍として新政府軍に対抗、こうして新政府軍と旧幕府軍は衝突、その末に起こったのが1868年1月に起こった戊辰戦争であり、五箇条の御誓文は同年の4月に出されたのでした。

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