新政府側は今後の政治の進め方を示すための文章を作成、それが五箇条の御誓文です。そこで、今回は五箇条の御誓文について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から五箇条の御誓文をわかりやすくまとめた。
高まる幕府への不満
1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は、250年以上の歴史を築きます。しかし、そんな江戸幕府に陰りが見え始めたのは1854年の開国がきっかけでした。これまで日本は幕府の対外政策によって外国を遮断してきましたが、1853年に突如ペリーが黒船で来航すると、翌1854年に日米和親条約を結んで開国したのです。
以後、幕府は衰退の道を辿ります。アメリカの圧力に屈して調印した不平等条約、それに反発する人々に対する強引な弾圧……行う政策に対する人々の不満は蓄積されていきました。そして、やがて幕府ではなく天皇による政治を求める声が高まり、その声は倒幕を掲げるようになったのです。
最も、全盛期の幕府ならその気になれば人々の反発など一掃できたかもしれません。しかし、衰退した幕府にそこまでの力はなく、そのため最後の将軍・徳川慶喜は大政奉還を行って政権を朝廷の天皇へと返上、倒幕ムードが高まる中で意外にも自ら幕府の歴史に幕を降ろしたのでした。
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徳川慶喜の目論み
徳川慶喜は頭の切れる人物で、大政奉還を行ったことには理由がありました。いくら世間で天皇の政治を支持する意見が高まっているとは言え、若い明治天皇の政治の腕は素人同然。一方の徳川慶喜には、これまで徳川家が江戸幕府で代々政治を行ってきたことでのノウハウがあります。
ですから、徳川慶喜は例え幕府を失っても政治の実権を握れると考え、しかもその考えは半ば的中したのです。これに業を煮やしたのが倒幕派、依然として徳川慶喜が政治に携わるようでは幕府の時代と何も変わらず、そうさせないためにはもはや徳川慶喜を討伐するしかないと決意します。
最も、徳川慶喜にも味方がいなかったわけではありません。未だ徳川慶喜を支持する人々は旧幕府軍として新政府軍に対抗、こうして新政府軍と旧幕府軍は衝突、その末に起こったのが1868年1月に起こった戊辰戦争であり、五箇条の御誓文は同年の4月に出されたのでした。
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