今日は遣唐使(けんとうし)について勉強していきます。遣唐使とは日本が中国大陸の唐に派遣した使節であり、奈良時代~平安時代にかけて日本の政治に強く影響を与えた。

ただ遣隋使との区別が難しいなど、遣唐使については分かりづらい部分も多いでしょう。そこで、今回は遣唐使について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から遣唐使をわかりやすくまとめた。

遣隋使の始まりと終わり

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不安定だった中国大陸を統一した「隋」

遣唐使を勉強する時に誰もが悩むのが遣隋使との違い。そこで、遣隋使の歴史から辿っていきましょう。日本よりも遥かに広い中国大陸では、隋が誕生するまで様々な王朝が建てられては滅亡を繰り返し、国としては非常に不安的な状態になっていました。

ですから日本も中国大陸の国との交流は考えず、なぜならせっかく関係性を築いてもすぐに滅亡するのが目に見えていたからです。しかし、そんな中で中国大陸にもようやく安定の兆しが見え始め、581年に建てられた「隋」と呼ばれる国が中国大陸の統一に成功しました。

大陸の広さから分かるように隋はまさに大国、しかも国として安定もしていたため、日本は将来的にも隋との関係を築くことを得策だと考えて使節の派遣を決意します。600年、とうとう日本は隋に初めての使節を送ることになり、これが遣隋使の始まりでした。

遣隋使の派遣と「隋」の滅亡

日本が遣隋使の送った目的は2つです。1つは日本が隋と対等に付き合える国だと知ってもらうこと、もう1つは隋の文化を日本に取り入れるために学ぶことでした。ただ、1つ目の目的は失敗に終わります。遣隋使から日本の状態を聞いた隋の皇帝は、まるで文明の進んでいない国だとバカにされたそうです。

当時日本は推古天皇が国を治めており、聖徳太子や蘇我馬子が政治を行う時代でした。その中で冠位十二階十七条憲法が制定されていきましたが、このような制度や憲法の制定は隋に認められる国作りが一つの目的であり、実際に中国の思想などを参考にした部分も多々見受けられました。

その甲斐あってやがて日本は隋との外交を結ぶことに成功、しかし遣隋使の派遣も614年が最後になります。なぜなら、隋は618年に起こった反乱によって混乱に陥ってしまい、皇帝が殺害されたことで滅びてしまったのです。そしてその翌年……つまり、619年に新たに「唐」が建国されました

遣唐使の始まり

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遣隋使から遣唐使へ

隋が滅亡したとは言え、中国大陸が消滅したわけではありません。隋の滅亡後には新たな国となる「唐」が建国され、唐は高い文明を築いていました。日本は隋の滅亡後も中国との外交を止めるつもりはなく、そのため唐に対しても使節を派遣……これが遣唐使です。

618年に建国された唐、そして日本が初めて遣唐使を派遣したのは630年のことでした。遣唐使を派遣した目的は遣隋使の場合とさほど変わらず、やはり唐の文化や政治制度を学ぶこと、政治的な外交関係を結ぶことです。実際、遣唐使が持ち帰った唐の文化は日本の文学・芸術・宗教などに影響を与えました。

幸いにも唐との関係は良好で、多くの日本の留学僧が仏教を学ぶ目的で遣唐使の使節として唐に行き、また唐の僧侶が日本に訪れることもあったそうです。こうして630年に始まった遣唐使でしたが、思わぬきっかけで両国の関係を崩壊させかねない事態が起こります。

白村江の戦いでの日本と唐の対立

645年、唐は朝鮮半島に進出して高句麗に攻め入ります。一方で高句麗は新羅を攻めており、新羅と唐は協力して連合軍を作りました。また、654年には百済が飢饉に見舞われたことで危機的状況に陥り、そこに目をつけて百済を攻めて滅亡させたのが新羅と唐の連合軍です。

百済は滅ぼされ、生き残った人々が援助を求めたのが日本でした。日本は以前から百済に援軍を送っていたため両国の関係は深く、その上当時の日本には百済の王子が滞在していたのです。そこで百済は日本を頼り、日本は悩んだ挙句に百済を援助することを決意しました。

しかし、百済を援助するということは新羅と唐の連合軍と戦うということ。新羅はともかく、唐と戦うことは遣唐使で築いた関係を壊すことになってしまいます。それでも日本は百済の援助のために戦いを決意、日本と唐は663年の白村江の戦いにて衝突することになり、日本はこの戦いで大敗してしまうのでした。

遣唐使の功績

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山下憶良の才能が開花

白村江の戦いで大敗した日本は唐に怯えます。百済が滅ぼされたように日本も滅ぼされてしまう可能性を危惧、そのためには唐が日本を敵国とみなさないよう配慮する必要があり、白村江の戦いの後も日本は遣唐使を派遣しました。遣唐使を派遣することで唐との国交が途絶えようにしたのです。

とは言え、日本は唐と戦って大敗した立場。そのため唐の朝廷に対して貢ぎ物も贈っており、この時の遣唐使は文化を学ぶよりも政治的な理由で派遣されていたと考えられるでしょう。幸い、日本の誠意ある対応が伝わったのか、白村江の戦いの後も唐との外交関係は維持できました。

さて、長く続く遣唐使の歴史の中で、日本では多くの人物が才能を開花させます。702年、遣唐使で派遣された使節の中には歌人で知られる山上憶良がいました。山上憶良は唐で儒教や仏教を学んでおり、その成果として「貧窮問答歌」「万葉集」で数々の歌を残しています。

吉備真備、阿倍仲麻呂、空海の才能が開花

さらに717年、遣唐使で派遣された使節の中には吉備真備阿倍仲麻呂がいました。吉備真備が唐で学んだのは経書、天文学、音楽、兵学などで、この時の経験を日本の政治で活かしています。また、阿倍仲麻呂に至っては唐の国家試験である科挙に合格、唐の王朝にて高官になるほど出世しました。

そんな阿倍仲麻呂は後に日本へ帰ろうとしたそうですが、航路が危険だったため結局日本へ帰国することはできず、唐で一生を終えることになったそうです。帰国できなかったことで悲劇的な扱いをされていますが、仮に阿倍仲麻呂が日本に帰国できていたとしたら、政治で大きな活躍を見せたことでしょう。

他にも803年に遣唐使で派遣された使節の中には、後に真言宗を開くことになる空海がいました。このように遣唐使で学んだ多くの人物が日本で才能を開花、そして文化も学んだ日本は都を建造する上でも唐の都・長安を参考にしており、遣唐使は日本の発展に大きく貢献したのです。

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遣唐使の廃止

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唐の崩壊

遣唐使は894年に廃止されますが、日本の発展に大いに貢献した使者の派遣をなぜ継続しなかったのでしょうか。それは、日本が唐に見切りをつけたのが理由です。平安時代の中期に入った頃、日本では当時の天皇・宇多天皇が久しぶりとなる遣唐使の派遣を計画しました。

一方、これに反対したのが家臣の菅原道真。なぜなら唐では大規模な内乱が起こるようになり、菅原道真はもはや唐に未来はないと考えたからです。874年、唐では農民の反乱となる黄巣の乱が勃発、これは腐敗した政治によって貧困に陥った民衆の怒りの反乱でした。

民衆が続々と反乱に参加するものの、ひとまず反乱の鎮圧には成功。しかし黄巣の乱によって唐は事実上崩壊となり、菅原道真は「そんな崩壊寸前の国に対して今更学ぶことは何もない」と宇多天皇に進言したのです。宇多天皇もこれに納得して、遣唐使は廃止となりました。

命懸けだった中国大陸までの航海

遣唐使の派遣が手軽にできるものなら、もしかすると唐が崩壊するまでそれは続いていたかもしれません。しかし、遣唐使を派遣することは日本にとっても非常に危険度が高く、なぜなら中国大陸までの航海の道のりは大変険しいものだったからです。

元々、遣唐使は遣隋使同様の航海ルートを辿っており、そのルートとは朝鮮半島を伝うものでした。しかし、663年の白村江の戦いによって日本は新羅と対立、そのため朝鮮半島の経由が難しくなったのです。そこで日本は以後ルートを変更、沖縄・奄美大島を経由して東シナ海を通ることにしました。

ただこの東シナ海が厄介で、何しろその海は相当荒れていたからです。事実、遣唐使として派遣されたものの船が沈没したケースは稀ではなく、さらに沈没した場合は乗員の大半が溺死するほどでした。つまり、遣唐使の派遣は命に関わる危険を伴うものだったのです。

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遣唐使と遣隋使の違い

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派遣期間、目的の違い

最後に、遣唐使と遣隋使の違いをまとめてみましょう。まず派遣された期間ですが、遣唐使は630年~894年、遣隋使は600年~618年です。年数を比較すると遣唐使の方が圧倒的に長いですが、これは唐に比べて隋が早く滅びてしまったためでしょう。

次に派遣の目的ですが、これはどちらも似ています。遣唐使の場合は「唐の文化を取り入れるため」であり、遣隋使の場合は「隋の文化を取り入れるため」、どちらも文化を学んで吸収することが最大の目的でした。ただし、遣唐使の場合は663年の白村江の戦いも影響してきます。

この時、日本は百済を援助するため唐と戦うことになってしまいました。しかも結果は大敗、このまま唐に敵国だと思われてしまえば日本の滅亡を招くでしょう。そのため遣唐使の派遣を続けて唐との関係修復に努めており、その点で遣唐使の派遣は「政治的な外交」も目的の一つになっています。

主要人物、廃止の理由の違い

次にそれぞれの主要人物をまとめると、遣唐使では山上憶良、吉備真備、阿倍仲麻呂、空海、菅原道真ですね。山上憶良、吉備真備、阿倍仲麻呂、空海の4人は遣唐使として派遣されたことで才能が開花した人物、一方の菅原道真は唐の衰退を察して遣唐使廃止を進言した人物です。

次に遣隋使ですが、これは小野妹子でしょう。小野妹子は遣隋使として有名ですが、同時に冠位十二階で出世した人物としても有名になっていますね。そして、それぞれの廃止の理由はどちらも国の滅亡が関わってきます。ただ、これについては一つだけ注意しておきましょう。

確かに、遣隋使の場合は隋が滅びて廃止となりました。しかし遣唐使の場合はあくまで滅亡寸前のための見切りによって廃止となっています。つまり遣唐使を廃止した時点では唐は何とか存続しており、そのため「遣唐使を廃止した年=唐が滅亡した年」ではありません。

遣隋使と比較できるようにしておこう!

遣唐使を覚えるポイントは2つです。1つ目に遣隋使と比較できるようにしておくことで、そのためには派遣期間の年号はもちろんとして、それぞれの主要人物を抑えておく必要がありますね。

そして、ポイントの2つ目は遣唐使の成果を覚えることで、例えば日本の都は唐の長安を見本にしています。遣唐使として派遣された事実だけでなく、その派遣によって日本にどんな成果をもたらしたのかも覚えておきましょう。

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平安時代日本史歴史

遣隋使との違いも完璧!「遣唐使」を元塾講師が分かりやすく5分でわかりやすく解説

今日は遣唐使(けんとうし)について勉強していきます。遣唐使とは日本が中国大陸の唐に派遣した使節であり、奈良時代~平安時代にかけて日本の政治に強く影響を与えた。

ただ遣隋使との区別が難しいなど、遣唐使については分かりづらい部分も多いでしょう。そこで、今回は遣唐使について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。

ライター/リュカ

元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から遣唐使をわかりやすくまとめた。

遣隋使の始まりと終わり

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不安定だった中国大陸を統一した「隋」

遣唐使を勉強する時に誰もが悩むのが遣隋使との違い。そこで、遣隋使の歴史から辿っていきましょう。日本よりも遥かに広い中国大陸では、隋が誕生するまで様々な王朝が建てられては滅亡を繰り返し、国としては非常に不安的な状態になっていました。

ですから日本も中国大陸の国との交流は考えず、なぜならせっかく関係性を築いてもすぐに滅亡するのが目に見えていたからです。しかし、そんな中で中国大陸にもようやく安定の兆しが見え始め、581年に建てられた「隋」と呼ばれる国が中国大陸の統一に成功しました。

大陸の広さから分かるように隋はまさに大国、しかも国として安定もしていたため、日本は将来的にも隋との関係を築くことを得策だと考えて使節の派遣を決意します。600年、とうとう日本は隋に初めての使節を送ることになり、これが遣隋使の始まりでした。

遣隋使の派遣と「隋」の滅亡

日本が遣隋使の送った目的は2つです。1つは日本が隋と対等に付き合える国だと知ってもらうこと、もう1つは隋の文化を日本に取り入れるために学ぶことでした。ただ、1つ目の目的は失敗に終わります。遣隋使から日本の状態を聞いた隋の皇帝は、まるで文明の進んでいない国だとバカにされたそうです。

当時日本は推古天皇が国を治めており、聖徳太子や蘇我馬子が政治を行う時代でした。その中で冠位十二階十七条憲法が制定されていきましたが、このような制度や憲法の制定は隋に認められる国作りが一つの目的であり、実際に中国の思想などを参考にした部分も多々見受けられました。

その甲斐あってやがて日本は隋との外交を結ぶことに成功、しかし遣隋使の派遣も614年が最後になります。なぜなら、隋は618年に起こった反乱によって混乱に陥ってしまい、皇帝が殺害されたことで滅びてしまったのです。そしてその翌年……つまり、619年に新たに「唐」が建国されました

遣唐使の始まり

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