しかし、603年に冠位十二階が制定されたことで、生まれた身分は関係なく能力で人が選ばれるようになった。そこで、今回は冠位十二階について日本史に詳しいライターリュカと一緒に解説していきます。
ライター/リュカ
元塾講師で、現役のライター。塾講師とライター業に共通して「わかりやすい伝え方」に定評がある。今回は得意分野のひとつである「歴史」から冠位十二階をわかりやすくまとめた。
推古天皇の即位と二頭政治
飛鳥時代の592年、日本では第33代天皇として推古天皇が即位、それは歴代天皇の中で初となる女性天皇誕生の瞬間でした。しかし、当時の日本にはそんな推古天皇を上回るほどの権力を持つ者が存在、その者とは蘇我馬子です。蘇我馬子は力を持つ豪族でしたが、皇族でない以上は天皇になることはできません。
そこで自分の息がかかる人物を天皇に即位させ、実質政治の権力を握ろうとしていました。一方、そんな蘇我馬子の野望を見抜いていた推古天皇は、蘇我馬子に邪魔されずに天皇中心の政治を行えるよう有能かつ信頼の厚い聖徳太子を摂政へと任命したのです。
摂政とは天皇の補佐役にあたる役職で、天皇がまだ幼い、もしくは女性天皇が即位した場合に存在するものでした。このようにして、推古天皇は聖徳太子と蘇我馬子による二頭政治を実現、そして、冠位十二階は聖徳太子と蘇我馬子によって作られ、603年に制定されたのです。
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氏姓制度で成り立っていた朝廷
さて、冠位十二階を解説する前に、それが制定されるまでの朝廷について触れておきましょう。冠位十二階が作られるまで、朝廷には氏姓制度と呼ばれる制度が存在しており、氏姓制度とは朝廷に仕える一族に対して「氏(うじ)」の名前を与え、さらにそれぞれの一族の身分の高さに応じて「姓(かばね)」の名前を与える制度でした。
また、氏の名前が与えられた一族の姓は親から子への引き継ぎが可能となっていて、つまり氏姓制度は世襲制になっていたのです。例を挙げるなら、有力な豪族である蘇我馬子は蘇我一族に含まれており、蘇我一族は「蘇我一族」ではなく「蘇我氏」と呼ばれていました。事実、教科書でも「蘇我氏」の表現は何度も登場してきますね。
天皇は朝廷に仕える人物を指名しますが、氏姓制度においては個人を指名することはできず、指名できるのはあくまで一族のみ。天皇が一族を指名した後、実際にその一族の中で誰が朝廷に仕えるのかを決める権利は一族のトップにあったのです。ただ、この氏姓制度には欠陥とも言える問題点がいくつかありました。
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