日本史

箱館戦争を戦い明治後も貢献した蘭学者「大鳥圭介」を歴女がわかりやすく解説

3-2、圭介、教育者としても活躍

圭介は、工学寮美術学校が開校されると校長となり、ヘンリー・ダイアー(明治日本で西洋式技術教育の導入に大きな貢献をしたスコットランド人)を教頭に就任させたそう。そして工学権頭、工学頭、工部省工作局長を経て、明治10年(1877年)、圭介が工作局長のとき、工部大学校(工部省が創設した技術者養成機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つ)が発足し、初代校長に任命。この工部大学校からは、適塾の後輩でタカジアスターゼを発明した高峰譲吉、近代建築家の辰野金吾、琵琶湖疎水の設計者田辺朔郎などが輩出されたということ。

圭介は、その後も明治14年(1881年)12月、工部技監(勅任官となり技術者としては最高位)に昇進し、同年、東京学士会院会員に任命され、明治18年(1885年)12月に元老院議官に就任、そして明治19年(1886年)4月、学習院院長兼華族女学校校長となり、技術、教育関係の役職を歴任。

3-3、圭介、外交官として日清戦争前夜の外交交渉に

圭介は、その後は外交官に転身し、明治22年(1889年)6月、清国在勤全権公使に任命。これは圭介が、漢学、儒学の素養があり、幅広い教養、知識と日清両国が共同して欧米列強の帝国主義に対抗するべきという見解を持っていることが、当時の主要閣僚に歓迎されたからだということ。

圭介は公使として、清国の最高実力者だった李鴻章や側近らと交流を重ねて外交の実績をあげたということ。そして明治26年(1893年)7月、圭介は朝鮮公使を兼任。当時の君主高宗の実父として政治の実権を握っていた大院君に対し、朝鮮の近代化を建言、朝鮮の反日派から発砲されたりと、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たったがうまくいかず、明治27年(1894年)10月、公使を解任。帰国後には枢密顧問官となり、明治33年(1900年)5月、多年の功により男爵を受爵

晩年、小田原大海嘯で被災、息子に先立たれるなどの不幸に見舞われ、明治44年(1911年)、 神奈川県足柄下郡国府津町の別荘で78歳で死去。

4-1、圭介の逸話

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

なぜかポジティブで楽天的な言動が多い人で、色々な逸話があります。

4-2、大地震でも

圭介は安政の大地震を江戸で経験、当時住んでいた長屋が全壊して危うく命が助かったのですが、本人は、自分にはなくす物など何もないと平然と笑っていたということ。

4-3、負けても笑っていた

箱館戦争では、圭介が出ると必ず負けると言われたが、また負けたよと、にこにこして逃げてきたということ。

用兵に通じていても、実際の戦闘指揮はうまくなかったと本人も後年にかたったが、官軍を率いていた板垣退助によれば、圭介が兵を進めるときは、まず進むべき道を普請をしてからやって来るので、どこからくるかすぐわかり撃破するのは容易だったということだし、同じ伝習隊で西洋兵学に精通した沼間守一には、愛想をつかされてしまったそう。

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ははは、道を作ってから進軍か、教科書通りなんだろうな

4-4、箱館戦争で玉砕を阻止

箱館の五稜郭に立てこもって戦ったとき、敗北が決定的になっても徹底抗戦を主張する仲間に対して圭介は、「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」と降伏を促したということで、榎本武揚をはじめ、欧州留学経験者の多かった蝦夷共和国の幹部たちは圭介のおかげで死なずにすみ、明治後の日本にも貢献できたのでは。

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angelica