今回は大鳥圭介を取り上げるぞ。幕末の蘭学者だって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治維新と蘭学者大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末、明治維新と蘭学者には興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、大鳥圭介について5分でわかるようにまとめた。

1-1、大鳥圭介は赤穂の生まれ

大鳥圭介(けいすけ)は、天保4年(1833年)2月、播磨国赤穂郡赤松村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の村医者である小林直輔の息子として誕生。幼名は慶太郎。別名は大鳥純彰、号は如楓(じょふう)。

1-2、圭介の子供時代

幼少時の圭介は、初め祖父純平について四書の素読などを受けていたが、13歳で、父も学んだ岡山藩の閑谷学校(しずたに)で、漢学、儒学、漢方医学を5年間学び、嘉永2年(1849年)に帰郷。

成績も良かったため父から跡継ぎとして医業の勉強をすすめられ、父と懇意の赤穂の蘭方医、中島意庵の助手として2年間薬箱持ちを務め、蘭学がこれからの時代に必要と言われて、名前を圭介とあらためて蘭学を学ぶことを決心。

閑谷学校(しずたにがっこう)とは
岡山藩主池田光政によって開設された日本最古の庶民学校で、岡山藩士のための教育施設である藩校の岡山学校に続き、岡山藩立の学校として開校。長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館と並んで、日本三大学府の一つと称されたが、この学校の特色は、地方の指導者育成のため、武士に限らず庶民の子弟も教育したうえ、広く門戸を開いて他藩の子弟も受け入れたということ。

2-1、緒方洪庵の適塾に入塾、その後江戸へ

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圭介は嘉永5年(1852年)5月、蘭学修行の為に大坂へ行き緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学ぶことに。この年に適塾では圭介の他に33名が入塾、住み込みの内塾生は60名ほど。圭介は適塾で2年間勉学に励み、あんまや筆写で稼ぎ、芝居好きで役者の声色をまねるお調子者だったとか、洪庵先生にあんま術を誉められたエピソードあり。しかし適塾でオランダ語は上達したが、医学への興味はなかったようで家業は継がず。

2-2、圭介、江戸へ上り、兵学教授に

その後、安政元年(1854年)に適塾の仲間村山代三郎、三木芳策と共に親に無断で江戸へ行き、薩摩藩でオランダ語の翻訳や技術指導などを行い、幕府の奥医師だった坪井信良の坪井塾に入塾。適塾でのレベルの高さもあって、すぐに塾頭となり、軍学、工学に関心を持ったため、西洋式兵学や写真術を学ぶように。同時期に勝海舟とも知り合い、篤姫が写真を撮る際に指導したそう。

安政4年(1857年)、縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれ、黒田清隆、大山巖らと出会い、また中浜万次郎に英語を学ぶようになり、同じく英語を学んでいた榎本武揚とも出会ったそう。

そして安政5年(1858年)、服部元彰の紹介で故郷の上郡を領地とする尼崎藩に8人扶持で取り立てられ、武士階級となったということ。その後、徳島藩を経て安政6年(1859年)に幕府の蕃書調所へ出仕。翌年、「砲科新編」を翻訳出版。そして日本初の合金製活版を作り、大鳥活字と呼ばれたということで、その後も大鳥活字を使って多数の本を出版。

大鳥活字とは
圭介が安政7年(1860年)に縄武館や陸軍所での印刷に際して、オランダ伝来の技術書を参照して明朝風楷書体活字を鋳造、「築城典刑」「砲科新論」など数十点を出版。ただし、全ての本に活字が使用されたわけではなく、活字を利用した本でも製版で印刷を行ったページもあったそう。尚、活字の材質は亜鉛、錫だということだが、戊辰戦争の時に行方不明となったために印刷された本がわずかに残されているだけ。

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2-3、蘭学者特需の時代となり、圭介も幕臣に

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不明 - 幕末名家寫眞集. 第1集, パブリック・ドメイン, リンクによる

文久元年(1861年)12月、圭介は江川英敏(英竜の息子)の推挙で、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として江戸幕府に出仕。文久3年(1863年)8月には海陸軍兵書取調方になり、開成所教授も兼務、二院制議会の採用を幕府に建言するまでに。そして元治2年(1865年)1月、陸軍所に出仕した後、富士見御宝蔵番格として正式に幕臣に取り立てられ、俸禄50俵3人扶持の旗本に。

2-4、圭介、伝習隊として訓練、徹底抗戦派に

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

慶応2年(1866年)、圭介は34歳で開成所の洋学教授となったが、慶応3年(1867年)1月には、幕府のなかでは小栗上野介忠順らの発議で、幕府陸軍にフランス式操練を施すことが決定。

圭介は同じく幕臣の沼間守一、矢野次郎、荒井郁之助らとともに参加し、集まった1000人ほどの一隊を機動力ある精兵として育成(伝習隊)、歩兵隊長としてまた幕府軍事顧問のフランス人ブリュネより兵学を学んだということ。

そして慶応4年(1868年)1月28日、圭介は歩兵頭に昇進。鳥羽伏見の戦いでの敗戦後、15代将軍慶喜が単身船で帰ってきた後の江戸城での評定で、小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。2月28日には陸軍の最高幹部(老中1人、若年寄2人、歩兵奉行3人)の歩兵奉行に昇進。

2-5、圭介、江戸を脱走して、函館まで転戦

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圭介は江戸開城と同日の4月11日、500名の伝習隊を率いて江戸を脱走。その後は、本所、市川、小山、宇都宮、今市、藤原から会津へ、幕臣松平太郎、新選組副長の土方歳三等と合流して転戦。会津では藩主松平容保に農兵を募ることを提案したが、容保は領民を巻き込みたくないと断ったそう。

そして母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたが、かろうじて残った部隊が仙台へ。仙台で幕府の艦隊を率いた榎本武揚と合流、船に分乗して蝦夷地に渡ったのち、圭介は箱館政権の蝦夷共和国の陸軍奉行に就任、五稜郭での大砲台などを設置して迎戦準備をしたということ。

箱館戦争では遅滞戦術を駆使して粘り強く戦ったが、連戦連敗してしまい、徐々に新政府軍に追い詰められて敗色濃厚となり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏。圭介らは東京へ護送され、なんと、かつて圭介が設計した軍務局糺問所へ投獄されたということ。 牢獄では榎本武揚らと同様、ひとりずつ一般罪人と同房にされて牢名主となったが、圭介は牢名主制度を廃止させ合議制に変更させたそう。

3-1、明治新政府に出仕し、北海道開拓や先進技術の普及に尽力

明治5年(1872年)1月、圭介は榎本武揚らとともに、江川塾で教えた黒田清隆らの助命嘆願もあって明治政府によって赦免されたのち、黒田清隆の強力な推しで、新政府に出仕。

開拓使御用掛に任命され、大蔵小丞に就任、開拓機械の視察と公債発行の交渉のために欧米各国歴訪へ。2月18日、横浜からアメリカへ出発。1000万ドルを融資され、サンフランシスコからワシントンへ向かい、岩倉使節団の木戸孝允と会談後、5月にロンドンへいき、1000万円の公債を融資されてイギリスの工場を見学したあとは、6月にニューヨークへ、8月にカナダ各地を見学して、明治7年(1874年)に帰国。

圭介は帰国後は、開拓使に戻って北海道の天然資源の報告書をまとめたということ。その後は陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕し、技術官僚として殖産興業政策に貢献。また工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス製造、造船業、紡績業などについて、モデル事業を推進して、インフラ開発にも関わることに。そして内国勧業博覧会の審査員を務めて、国内諸産業の普及と民力向上のために尽力、日本初の工業雑誌「中外工業新報」を発刊するなどして先進的技術を普及させたそう。明治15年(1882年)には「堰堤築法新按」の翻訳、民間への水利、ダム技術を紹介。

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3-2、圭介、教育者としても活躍

圭介は、工学寮美術学校が開校されると校長となり、ヘンリー・ダイアー(明治日本で西洋式技術教育の導入に大きな貢献をしたスコットランド人)を教頭に就任させたそう。そして工学権頭、工学頭、工部省工作局長を経て、明治10年(1877年)、圭介が工作局長のとき、工部大学校(工部省が創設した技術者養成機関で、現在の東京大学工学部の前身の一つ)が発足し、初代校長に任命。この工部大学校からは、適塾の後輩でタカジアスターゼを発明した高峰譲吉、近代建築家の辰野金吾、琵琶湖疎水の設計者田辺朔郎などが輩出されたということ。

圭介は、その後も明治14年(1881年)12月、工部技監(勅任官となり技術者としては最高位)に昇進し、同年、東京学士会院会員に任命され、明治18年(1885年)12月に元老院議官に就任、そして明治19年(1886年)4月、学習院院長兼華族女学校校長となり、技術、教育関係の役職を歴任。

3-3、圭介、外交官として日清戦争前夜の外交交渉に

圭介は、その後は外交官に転身し、明治22年(1889年)6月、清国在勤全権公使に任命。これは圭介が、漢学、儒学の素養があり、幅広い教養、知識と日清両国が共同して欧米列強の帝国主義に対抗するべきという見解を持っていることが、当時の主要閣僚に歓迎されたからだということ。

圭介は公使として、清国の最高実力者だった李鴻章や側近らと交流を重ねて外交の実績をあげたということ。そして明治26年(1893年)7月、圭介は朝鮮公使を兼任。当時の君主高宗の実父として政治の実権を握っていた大院君に対し、朝鮮の近代化を建言、朝鮮の反日派から発砲されたりと、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たったがうまくいかず、明治27年(1894年)10月、公使を解任。帰国後には枢密顧問官となり、明治33年(1900年)5月、多年の功により男爵を受爵

晩年、小田原大海嘯で被災、息子に先立たれるなどの不幸に見舞われ、明治44年(1911年)、 神奈川県足柄下郡国府津町の別荘で78歳で死去。

4-1、圭介の逸話

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不明 - この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

なぜかポジティブで楽天的な言動が多い人で、色々な逸話があります。

4-2、大地震でも

圭介は安政の大地震を江戸で経験、当時住んでいた長屋が全壊して危うく命が助かったのですが、本人は、自分にはなくす物など何もないと平然と笑っていたということ。

4-3、負けても笑っていた

箱館戦争では、圭介が出ると必ず負けると言われたが、また負けたよと、にこにこして逃げてきたということ。

用兵に通じていても、実際の戦闘指揮はうまくなかったと本人も後年にかたったが、官軍を率いていた板垣退助によれば、圭介が兵を進めるときは、まず進むべき道を普請をしてからやって来るので、どこからくるかすぐわかり撃破するのは容易だったということだし、同じ伝習隊で西洋兵学に精通した沼間守一には、愛想をつかされてしまったそう。

4-4、箱館戦争で玉砕を阻止

箱館の五稜郭に立てこもって戦ったとき、敗北が決定的になっても徹底抗戦を主張する仲間に対して圭介は、「死のうと思えば、いつでも死ねる。今は降伏と洒落込もうではないか」と降伏を促したということで、榎本武揚をはじめ、欧州留学経験者の多かった蝦夷共和国の幹部たちは圭介のおかげで死なずにすみ、明治後の日本にも貢献できたのでは。

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4-5、箱館戦争で亡くなった仲間を慰霊

圭介は、欧米視察から帰国後に、北海道開拓使に戻り北海道へ出張した際、箱館戦争で戦死した土方歳三や中島三郎助などをはじめとして、約800人の幕府軍の人たちを慰霊する供養碑の建立のために場所を検分したりと奔走。「碧血碑」(「義に殉じた忠臣の血は3年経つと碧色に変わるという中国の故事)という碑の文字も圭介が書いて、箱館戦争戦死者の7回忌に函館山に建てられたということ。

4-6、その他の圭介の功績


圭介はまた、江戸で蘭学医で幕府の奥医師の松本良順と交流し、コレラの治療法を研究。蒸気船の模型を設計、製作したり、日本初の温度計、気球を制作したりも。そして圭介は漢詩や和歌にも通じていたため、戊辰戦争前後に「南柯紀行」を記録、またイギリスを視察したときにダーウィンの「種の起源」を読んで「進化論」を解説したことも。

蘭学者から幕臣に取り立てられて箱館まで戦った

大鳥圭介は播州の田舎の村医者の子として生まれ、緒方洪庵の適塾で蘭学をおさめて蘭学医になるはずが、江戸へ出て諸藩、幕府に頼まれたオランダ語の兵書などの翻訳をしているうちに幕府の蕃書調所の教授として召し抱えられて幕臣となり、軍事担当となって箱館まで転戦した人。

これって適塾の先輩でもある大村益次郎の経歴にそっくり。大村益次郎は幕府の誘いを蹴って故郷の長州藩に召し抱えられ、オランダ語の兵学書などの知識だけで戦って連戦連勝し、アスペルガー症候群的先覚者として気遣いがなく敵を作って暗殺されたが、かたや圭介は幕臣となり幕府軍として奥州から北海道まで転戦、同じく本からの知識だけで連戦連敗して降伏、入獄したが許され、明治新政府で知識を生かして技術者、教育者、外交官として活躍、天寿を全うしたという、幕臣になるかならないかで運命が違ってきたのでした。

どちらがどうとは言えませんが、圭介は負けてもポジティブ思考で楽天的だったということで、五稜郭でも死のうと思えばいつでも死ねるという圭介の助言のおかげか、幹部は土方歳三をのぞいてほとんどが生き残って明治日本に貢献。こういう姿勢が最近、やはり再評価されているようで、圭介も人材が輩出した幕末、明治維新の逸材として意味がある人生を送ったと言えるのではないでしょうか。

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幕末日本史歴史江戸時代

箱館戦争を戦い明治後も貢献した蘭学者「大鳥圭介」を歴女がわかりやすく解説

2-3、蘭学者特需の時代となり、圭介も幕臣に

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不明 – 幕末名家寫眞集. 第1集, パブリック・ドメイン, リンクによる

文久元年(1861年)12月、圭介は江川英敏(英竜の息子)の推挙で、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として江戸幕府に出仕。文久3年(1863年)8月には海陸軍兵書取調方になり、開成所教授も兼務、二院制議会の採用を幕府に建言するまでに。そして元治2年(1865年)1月、陸軍所に出仕した後、富士見御宝蔵番格として正式に幕臣に取り立てられ、俸禄50俵3人扶持の旗本に。

2-4、圭介、伝習隊として訓練、徹底抗戦派に

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

慶応2年(1866年)、圭介は34歳で開成所の洋学教授となったが、慶応3年(1867年)1月には、幕府のなかでは小栗上野介忠順らの発議で、幕府陸軍にフランス式操練を施すことが決定。

圭介は同じく幕臣の沼間守一、矢野次郎、荒井郁之助らとともに参加し、集まった1000人ほどの一隊を機動力ある精兵として育成(伝習隊)、歩兵隊長としてまた幕府軍事顧問のフランス人ブリュネより兵学を学んだということ。

そして慶応4年(1868年)1月28日、圭介は歩兵頭に昇進。鳥羽伏見の戦いでの敗戦後、15代将軍慶喜が単身船で帰ってきた後の江戸城での評定で、小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。2月28日には陸軍の最高幹部(老中1人、若年寄2人、歩兵奉行3人)の歩兵奉行に昇進。

2-5、圭介、江戸を脱走して、函館まで転戦

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圭介は江戸開城と同日の4月11日、500名の伝習隊を率いて江戸を脱走。その後は、本所、市川、小山、宇都宮、今市、藤原から会津へ、幕臣松平太郎、新選組副長の土方歳三等と合流して転戦。会津では藩主松平容保に農兵を募ることを提案したが、容保は領民を巻き込みたくないと断ったそう。

そして母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたが、かろうじて残った部隊が仙台へ。仙台で幕府の艦隊を率いた榎本武揚と合流、船に分乗して蝦夷地に渡ったのち、圭介は箱館政権の蝦夷共和国の陸軍奉行に就任、五稜郭での大砲台などを設置して迎戦準備をしたということ。

箱館戦争では遅滞戦術を駆使して粘り強く戦ったが、連戦連敗してしまい、徐々に新政府軍に追い詰められて敗色濃厚となり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏。圭介らは東京へ護送され、なんと、かつて圭介が設計した軍務局糺問所へ投獄されたということ。 牢獄では榎本武揚らと同様、ひとりずつ一般罪人と同房にされて牢名主となったが、圭介は牢名主制度を廃止させ合議制に変更させたそう。

3-1、明治新政府に出仕し、北海道開拓や先進技術の普及に尽力

明治5年(1872年)1月、圭介は榎本武揚らとともに、江川塾で教えた黒田清隆らの助命嘆願もあって明治政府によって赦免されたのち、黒田清隆の強力な推しで、新政府に出仕。

開拓使御用掛に任命され、大蔵小丞に就任、開拓機械の視察と公債発行の交渉のために欧米各国歴訪へ。2月18日、横浜からアメリカへ出発。1000万ドルを融資され、サンフランシスコからワシントンへ向かい、岩倉使節団の木戸孝允と会談後、5月にロンドンへいき、1000万円の公債を融資されてイギリスの工場を見学したあとは、6月にニューヨークへ、8月にカナダ各地を見学して、明治7年(1874年)に帰国。

圭介は帰国後は、開拓使に戻って北海道の天然資源の報告書をまとめたということ。その後は陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕し、技術官僚として殖産興業政策に貢献。また工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス製造、造船業、紡績業などについて、モデル事業を推進して、インフラ開発にも関わることに。そして内国勧業博覧会の審査員を務めて、国内諸産業の普及と民力向上のために尽力、日本初の工業雑誌「中外工業新報」を発刊するなどして先進的技術を普及させたそう。明治15年(1882年)には「堰堤築法新按」の翻訳、民間への水利、ダム技術を紹介。

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