日本史

箱館戦争を戦い明治後も貢献した蘭学者「大鳥圭介」を歴女がわかりやすく解説

2-3、蘭学者特需の時代となり、圭介も幕臣に

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不明 – 幕末名家寫眞集. 第1集, パブリック・ドメイン, リンクによる

文久元年(1861年)12月、圭介は江川英敏(英竜の息子)の推挙で、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として江戸幕府に出仕。文久3年(1863年)8月には海陸軍兵書取調方になり、開成所教授も兼務、二院制議会の採用を幕府に建言するまでに。そして元治2年(1865年)1月、陸軍所に出仕した後、富士見御宝蔵番格として正式に幕臣に取り立てられ、俸禄50俵3人扶持の旗本に。

2-4、圭介、伝習隊として訓練、徹底抗戦派に

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

慶応2年(1866年)、圭介は34歳で開成所の洋学教授となったが、慶応3年(1867年)1月には、幕府のなかでは小栗上野介忠順らの発議で、幕府陸軍にフランス式操練を施すことが決定。

圭介は同じく幕臣の沼間守一、矢野次郎、荒井郁之助らとともに参加し、集まった1000人ほどの一隊を機動力ある精兵として育成(伝習隊)、歩兵隊長としてまた幕府軍事顧問のフランス人ブリュネより兵学を学んだということ。

そして慶応4年(1868年)1月28日、圭介は歩兵頭に昇進。鳥羽伏見の戦いでの敗戦後、15代将軍慶喜が単身船で帰ってきた後の江戸城での評定で、小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張。2月28日には陸軍の最高幹部(老中1人、若年寄2人、歩兵奉行3人)の歩兵奉行に昇進。

2-5、圭介、江戸を脱走して、函館まで転戦

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圭介は江戸開城と同日の4月11日、500名の伝習隊を率いて江戸を脱走。その後は、本所、市川、小山、宇都宮、今市、藤原から会津へ、幕臣松平太郎、新選組副長の土方歳三等と合流して転戦。会津では藩主松平容保に農兵を募ることを提案したが、容保は領民を巻き込みたくないと断ったそう。

そして母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたが、かろうじて残った部隊が仙台へ。仙台で幕府の艦隊を率いた榎本武揚と合流、船に分乗して蝦夷地に渡ったのち、圭介は箱館政権の蝦夷共和国の陸軍奉行に就任、五稜郭での大砲台などを設置して迎戦準備をしたということ。

箱館戦争では遅滞戦術を駆使して粘り強く戦ったが、連戦連敗してしまい、徐々に新政府軍に追い詰められて敗色濃厚となり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏。圭介らは東京へ護送され、なんと、かつて圭介が設計した軍務局糺問所へ投獄されたということ。 牢獄では榎本武揚らと同様、ひとりずつ一般罪人と同房にされて牢名主となったが、圭介は牢名主制度を廃止させ合議制に変更させたそう。

3-1、明治新政府に出仕し、北海道開拓や先進技術の普及に尽力

明治5年(1872年)1月、圭介は榎本武揚らとともに、江川塾で教えた黒田清隆らの助命嘆願もあって明治政府によって赦免されたのち、黒田清隆の強力な推しで、新政府に出仕。

開拓使御用掛に任命され、大蔵小丞に就任、開拓機械の視察と公債発行の交渉のために欧米各国歴訪へ。2月18日、横浜からアメリカへ出発。1000万ドルを融資され、サンフランシスコからワシントンへ向かい、岩倉使節団の木戸孝允と会談後、5月にロンドンへいき、1000万円の公債を融資されてイギリスの工場を見学したあとは、6月にニューヨークへ、8月にカナダ各地を見学して、明治7年(1874年)に帰国。

圭介は帰国後は、開拓使に戻って北海道の天然資源の報告書をまとめたということ。その後は陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕し、技術官僚として殖産興業政策に貢献。また工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス製造、造船業、紡績業などについて、モデル事業を推進して、インフラ開発にも関わることに。そして内国勧業博覧会の審査員を務めて、国内諸産業の普及と民力向上のために尽力、日本初の工業雑誌「中外工業新報」を発刊するなどして先進的技術を普及させたそう。明治15年(1882年)には「堰堤築法新按」の翻訳、民間への水利、ダム技術を紹介。

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