

レーウェンフックといえば顕微鏡の作成で有名だが、どんな人生を送ったのかを知っているだろうか?彼は大学で科学や生物学を習ったわけでもないのに、生物学史に名を遺している。とても興味深い生涯だったので、ぜひ多くの人に知ってほしい。
大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/小野塚ユウ
生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。
レーウェンフック
レーウェンフックは17世紀から18世紀にかけて生きたオランダの商人、科学者です。
フルネームはアントーニ・ファン・レーウェンフック(Antonie van Leeuwenhoek)。レーベンフックという読みで記載されることもあります。
生涯
レーウェンフックは1632年にオランダのデルフトで生まれました。父親はかご作り職人、母親は酒造家の娘だったそうです。
8歳ごろに学校に入って教育を受け、16歳になるとアムステルダムで仕事につきます。織物商人の手伝いをしていましたが、6年ほど勤めるとまたデルフトにもどり、呉服商をはじめました。このころには結婚して家庭をもっています。
1660年、28歳でデルフト市役所の役人に任命され、その後測量士としても働きました。

ここまでの経歴では、科学史に名をのこす学者…という雰囲気はないな。
仕事を転々とするかたわら、彼は自宅でオリジナルの顕微鏡をつくり、その精度を高めることを楽しみとしていました。
「レーウェンフックが顕微鏡を発明した」と勘違いしている人も少なくないのですが、この時代、すでに顕微鏡は発明されています。普及が少しずつ進み、科学者や上流階級が手にできるような時代になってきていました。1665年にはロバート・フックが『顕微鏡図譜(ミクログラフィア)』を発表し、大きな話題を呼んでいますね。

image by iStockphoto
レーウェンフックが黙々とつくり続ける顕微鏡は少しずつ改良され、いつの間にやらその当時の最高レベルの性能にまで高められていました。それまでの研究者が見つけていなかった精子や微生物の観察にも成功します。
ところが、彼は大学の研究者でも名のある科学者でもない、一介の測量士です。自分の顕微鏡を紹介したり、観察結果を発表するような機会はありませんでした。
当時の有名な科学者たちの知らないところで、歴史に残る顕微鏡と観察記録が積み重なっていたのです。
1673年、レーウェンフックがついに表舞台に立つときがやってきます。レーウェンフックの顕微鏡による観察記録に気づいたある解剖学者が、彼をイギリス・ロンドンの王立協会に紹介する手紙を書いたのです。
\次のページで「レーウェンフックの功績」を解説!/