
熱心な浄土宗の熱心な信者として幼少期を過ごす
中山みきは庄屋である前川半七正信のもとに生まれました。彼女が生まれた地は、津藩領の大和国山辺郡三昧田村。現在の奈良県天理市エリアとなります。天理教の拠点が同市にあるのは、彼女が生まれ育ったエリアだからです。
中山みきの幼少期を知る手掛かりとなるのが『稿本天理教教祖伝』などの書物。それらによると、幼少期のみきは人への思いやりにあふれた性格だったそうです。また、前川家が檀家だったことから浄土宗の熱心な信者となりました。
長男の祈祷中に神が憑依した中山みき
中山みきが最初に憑依したのは庄屋である中山善兵衛との結婚後。長男が原因不明の足の病気になって、祈祷を依頼していたときでした。憑依しているみきは「あなたは誰か」という問いに対して「我は天の将軍なり」と答えたそうです。
この奇跡が話題となりますが、中山みきはすぐに宗教の道に進みませんでした。子育てが一段落していなかったこと、夫の善兵衛が反対したことなどが理由です。また彼女自身も、屋敷内にこもって人と関わらない日々が続き、一時期は人々から距離を置かれました。
中山みきが教えたのは歌と身体の動き

宗教者としての道を歩み始めた中山みきは、集まってきた人々に対して教えを伝えます。彼女が教えを伝える方法は歌と身体の動き。教育を受けていない人でも理解できるように考えられたものでした。
伝えられた歌が「天理教」の原典となる
中山みきが「みかぐらうた」を教え始めたのは慶応2年 。西暦1866年からでした。「みかぐらうた」とは、現在の天理教の経典のひとつです。それは、覚えやすいようにすべてひらがな。鳴り物のリズムにあわせて陽気に歌うものでした。
「みかぐらうた」には、中山みきが考えた信仰の基本となる心得が含まれています。江戸時代に親しまれていた三味線音楽である地歌を導入。それにより、一般民衆にとって覚えやすく、親しみやすいものとしました。
天理教の教え「陽気ぐらし」の基礎を作った
地歌を歌うとき、使用するのは9種類の鳴り物。それでリズムをとりながら身体を動かします。これらの動きはすべて意味づけされました。現在の「みかぐらうた」ができるまでに、なかりの年月を要することに。中山みきによるものはその一部となります。
「みかぐらうた」は身体を動かしながら「陽気」に歌うことを推奨されました。江戸時代末期の人々の生活は苦しく、フラストレーションも蓄積。そのため陽気に歌い踊るスタイルが歓迎されたのでしょう。直接の関係はありませんが「ええじゃないか」を想起させる部分もありますね。
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