
それじゃ、江戸時代末期に天理教が広がる経緯を、中山みきの生き方にも着目しながら、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していきます。
- 現在の「天理教」とは?
- 「天理教」は奈良県天理市になる宗教団体
- 「天理教」を統括するのは中山みきの子孫
- 江戸時代末期の人々の生活は不安だらけ
- 飢饉による生活苦で一揆が多発
- お祭りや集団行動を幕府は規制
- 現世での救済を求める風潮から新興宗教が増加
- 伝統的な宗教に対して不信感が抱かれるように
- 疫病の流行から人々は「現世」の救済を望む
- 「天理教」の教祖中山みきとは
- 熱心な浄土宗の熱心な信者として幼少期を過ごす
- 長男の祈祷中に神が憑依した中山みき
- 中山みきが教えたのは歌と身体の動き
- 伝えられた歌が「天理教」の原典となる
- 天理教の教え「陽気ぐらし」の基礎を作った
- 「天理教」の位置づけは神道系
- 吉田神道を継承する吉田家当主により認可
- 江戸時代後期に神道系3代新興宗教が台頭
- 「天理教」は江戸時代末期の新興宗教ブームに起源がある
この記事の目次

ライター/ひこすけ
文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。江戸時代末期を語るとき「天理教」を避けて通ることはできない。「天理教」は、徳川幕府を中心とする政治体制がゆらぐなか生まれた新興宗教のひとつ。そこで今回は「天理教」が生まれた背景を、中山みきの生き方を絡めながら解説する。
現在の「天理教」とは?

天理と聞くと、天理高校、天理大学、そして天理ラーメンと、思い浮かぶものは多いでしょう。天理教の拠点があるのは、それらと同じく奈良県の天理市です。そのため、天理市内を歩くと、関連する宗教施設があちらこちらにあることに気が付きます。
「天理教」は奈良県天理市になる宗教団体
天理教とは、奈良県天理市にある本部「宗教法人天理教」と「宗教法人天理教教会本部」により構成されています。協会本部の下あるのが一般教会。教会は日本各地に点在しており、天理教の信者が布教活動をしたり信仰生活を送ったりしています。
一般教会の起源は、中山みきが生きている時代の信者により結成された講社に由来。ちなみに講社とは同じ神仏を信仰する人々により結成された団体のことです。つまり江戸時代末期から継承された形態と言うことができますね。
「天理教」を統括するのは中山みきの子孫
天理教を統括する人が「真柱」。教祖である中山みきの血を引いた人物のなかから推薦により選ばれます。実は、中山みきは教祖と位置づけられているものの天理教の初代ではありません。初代の真注となったのは、中山みきの孫にあたる中山眞之亮でした。
宗教法人として天理教を運営するのが「教庁」と呼ばれる事務組織。布教部、海外部、教義及史料集成部、教化育成部、輸送部などから構成されます。教団の拠点となっている天理市には、天理教の建築物である「おやさとやかた」が点在。教育や福利厚生の施設として利用されています。
江戸時代末期の人々の生活は不安だらけ

天理教が生まれたのは江戸時代の末期までさかのぼります。教祖である中山みきに神が憑依したとされるのが天保年間。そこで、江戸時代の天保年間はどのような時代だったのか、振り返ってみましょう。
飢饉による生活苦で一揆が多発
江戸時代を通じて、飢饉や増税により農民の生活が困窮すると、一揆が多発していました。そのなかでも天保年間は農民による一揆が多かった時期のひとつです。その他、洪水、冷害、凶作が続き、とりわけ農民は生き延びるだけで精一杯の状況になります。
生活苦が続いたことで、人々の国や藩に対する不信感が増幅。日本各地で一揆が起こされるようになります。そのひとつが近江天保一揆。江戸幕府を揺るがすほどの大規模な一揆へと発展します。最終的に鎮圧されますが、多くの農民が拷問などにより命を落としました。
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