幕末日本史歴史江戸時代

「天理教」とは?江戸時代末期に生まれた背景を元大学教員がわかりやすく解説

よぉ、桜木建二だ。天理教は中山みきを教祖とする宗教団体。現在、奈良県天理市に天理教の本部がある。それ以外にもさまざまな教派があるそうだ。中山みきが神の啓示を受けたのは天保9年。西暦1838年のことだった。徳川時代の末期にあたるこの時期、不作や疫病流行が続いたこともあり多くの人々の生活は困窮。信仰により救済を望むようになる。

それじゃ、江戸時代末期に天理教が広がる経緯を、中山みきの生き方にも着目しながら、日本史に詳しいライターひこすけと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/ひこすけ

文化系の授業を担当していた元大学教員。専門はアメリカ史・文化史。江戸時代末期を語るとき「天理教」を避けて通ることはできない。「天理教」は、徳川幕府を中心とする政治体制がゆらぐなか生まれた新興宗教のひとつ。そこで今回は「天理教」が生まれた背景を、中山みきの生き方を絡めながら解説する。

現在の「天理教」とは?

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天理と聞くと、天理高校、天理大学、そして天理ラーメンと、思い浮かぶものは多いでしょう。天理教の拠点があるのは、それらと同じく奈良県の天理市です。そのため、天理市内を歩くと、関連する宗教施設があちらこちらにあることに気が付きます。

「天理教」は奈良県天理市になる宗教団体

天理教とは、奈良県天理市にある本部「宗教法人天理教」と「宗教法人天理教教会本部」により構成されています。協会本部の下あるのが一般教会。教会は日本各地に点在しており、天理教の信者が布教活動をしたり信仰生活を送ったりしています。

一般教会の起源は、中山みきが生きている時代の信者により結成された講社に由来。ちなみに講社とは同じ神仏を信仰する人々により結成された団体のことです。つまり江戸時代末期から継承された形態と言うことができますね。

「天理教」を統括するのは中山みきの子孫

天理教を統括する人が「真柱」。教祖である中山みきの血を引いた人物のなかから推薦により選ばれます。実は、中山みきは教祖と位置づけられているものの天理教の初代ではありません。初代の真注となったのは、中山みきの孫にあたる中山眞之亮でした。

宗教法人として天理教を運営するのが「教庁」と呼ばれる事務組織。布教部、海外部、教義及史料集成部、教化育成部、輸送部などから構成されます。教団の拠点となっている天理市には、天理教の建築物である「おやさとやかた」が点在。教育や福利厚生の施設として利用されています。

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天理教は中山みきを教祖とするものの、彼女の仕事と宗教法人天理教は必ずしも同一ではないようだ。例を出すなら、日蓮の活動=日蓮宗ではないのと同じイメージだろう。それじゃ、江戸時代にさかのぼり、中山みきが支持された背景を見ていこう。

江戸時代末期の人々の生活は不安だらけ

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天理教が生まれたのは江戸時代の末期までさかのぼります。教祖である中山みきに神が憑依したとされるのが天保年間。そこで、江戸時代の天保年間はどのような時代だったのか、振り返ってみましょう。

飢饉による生活苦で一揆が多発

江戸時代を通じて、飢饉や増税により農民の生活が困窮すると、一揆が多発していました。そのなかでも天保年間は農民による一揆が多かった時期のひとつです。その他、洪水、冷害、凶作が続き、とりわけ農民は生き延びるだけで精一杯の状況になります。

生活苦が続いたことで、人々の国や藩に対する不信感が増幅。日本各地で一揆が起こされるようになります。そのひとつが近江天保一揆。江戸幕府を揺るがすほどの大規模な一揆へと発展します。最終的に鎮圧されますが、多くの農民が拷問などにより命を落としました。

\次のページで「お祭りや集団行動を幕府は規制」を解説!/

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