
2-1、長政、京都奉行職に
天正10年(1582年)本能寺の変が勃発。秀吉は、備中高松城水攻めの最中だったが、毛利と講和して中国大返しで京都に引き返し、山崎の戦いで明智光秀を撃破。そして信長亡き後の織田家中で存在感を増し、清洲会議で信長亡き後の後継者を決め、光秀の近江や山城の遺領を手中に。
秀吉に従っていた長政は北政所寧々の伯父杉原家次とともに、京都奉行に任命、秀吉の蔵入地の代官、太閤検地のはじまりとされる山城国検地の奉行も務めるなど、杉原家次が病気で前田玄以と交代後も長政と玄以で禁裏御領、門跡領などが多くある土地の複雑な問題を処理、秀吉の内政面を支えたということ。
その後、長政は、天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳合戦で功績を挙げて、近江国瀬田城主として8月、近江国甲賀郡栗太郡で2万300石の大名となり、その後、瀬田城から坂本城、大津城に移ることに。
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2-2、長政、秀吉の天下統一を補佐
天正12年(1584年)、秀吉対織田信雄、徳川家康の連合軍との小牧・長久手の戦いでは、長政は1500の兵を率いて秀吉に従軍。そして合戦の後、天正14年(1586年)家康との和解のための妹の朝日姫が家康と政略結婚の際、浜松に同行。
その後も天正15年(1587年)の九州平定に従軍して活躍したので、若狭国小浜8万石をもらって国持ち大名になり、翌年には従五位下弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)に叙任。また、天正18年(1590年)の小田原征伐では忍城の戦いに参加、攻城戦の終盤から戦後処理にかけて、石田三成に代わり長政が主導的な役割を果たしたということで、同年の奥州仕置きと呼ばれる奥羽検地でも長政は石田三成と大谷吉継とともに奉行を務め、この「奥州仕置き」に反発した葛西大崎一揆翌年の九戸政実の乱には、羽柴秀次の軍奉行として従軍。
こうして長政は東国の大名と関係が深くなり、そして秀吉が諸大名から没収した金銀山の管理も担当。
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2-3、長政、文禄の役でも軍監に
秀吉は、関白となり天正13年(1585年)朝廷から豊臣姓を下賜され、一門や家来に豊臣姓を与えたが、天正20年(1592年には)長政にも豊臣姓が。
そして文禄元年(1592年)文禄の役で長政は肥前名護屋城に陣したが、渡海前に肥後国葦北郡佐敷で梅北一揆が起こり、秀吉は激怒して長政に鎮圧を命じ、軍の大将に長政の嫡男幸長(よしなが)を、そして徳川家康に要請して副将に本多忠勝を付けたが、現地到着前に一揆は鎮圧。幸長はその後渡海、長政は奉行として一揆の沙汰を行ったそう。幸長は朝鮮では3000の軍勢を率いて伊達政宗を後見人とし、加藤清正の隊と合流して各地を転戦したということ。
文禄2年(1593年)11月、秀吉は、長政と幸長親子に、8月に挑戦で陣没した加藤光泰の所領であった甲斐国府中22万5000石を、幸長に16万石、長政に5万5000石、1万石は公料(蔵入地)として与えたそう。
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