室町時代戦国時代日本史歴史

織田、豊臣、徳川時代を生き抜いた「浅野長政」秀吉の義弟を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回は浅野長政を取り上げるぞ。秀吉の身内だったって、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを戦国武将も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、戦国武将にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、浅野長政について5分でわかるようにまとめた。

1-1、浅野長政は尾張の生まれ

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Bariston投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, リンクによる

浅野長政は、尾張春日井郡北野で、天文16年(1547年)、父安井重継、母浅野長勝の姉の間に長男として誕生。弥左衛門、弥兵衛が通称。尚、近江の戦国大名浅井3代の浅井長政と名前が似ているが、長政は晩年に改名したもので、初名の長吉(ながよし)を名乗っていた時期が長いということ。ここでは長政で統一。

長政の父安井重継は、尾張丹羽郡宮後村の宮後城主安井弥兵衛尉重幸の子で、諸説あるが、重継の姉の安井御前が蜂須賀正利の側室になり生まれたのが蜂須賀小六正勝(長政と小六は従兄弟)。その後、正利が信長の父織田信秀に領地を奪われて正室の実家の大橋家に逃げ込み、姉の安井御前と息子の小六が重継の宮後城に移り住んだそうで、重継は甥である小六正勝に城と家督を譲り、安井家は蜂須賀家へ吸収。

1-2、長政、北政所寧々の妹と結婚

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不明 – 東京大学史料編纂所, パブリック・ドメイン, リンクによる

そういうわけで長政は、男子のなかった母の兄の浅野又右衛門長勝の養子となり、長勝の養女だったややと結婚して浅野家を継承。養父長勝は、当時は織田信長の弓衆を務めていたということ。

尚、ややは長勝の妻の姉妹の娘でのちの北政所寧々の妹という説と、長勝の実の娘説があるそう。ともあれ、長政は北政所寧々の夫のちの豊臣秀吉とは相婿(秀吉が長政よりも10歳年長)、義理の弟になり、同じ信長家中の同僚から、親族のよしみと信長の命令で秀吉の寄騎として、信長なき後は秀吉に仕えるように。また秀吉は信長に仕える前に蜂須賀小六正勝に仕えていた説もあるが、長政が小六と血縁がある説をとれば、義弟として秀吉に小六を紹介したことが小六を配下に組み入れるきっかけとなったかも。

長政とやや夫婦、木下藤吉郎と言った頃の秀吉と寧々夫婦が住んでいたのは、ウコギ長屋と言う織田家の下級武士の住む長屋で、養父の浅野長勝家、それにのちの前田利家とお松夫婦も住んでいたという、後々のことを考えるとすごい長屋。

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うわあ、すごい長屋だな、秀吉ファミリーかよ

1-3、長政の初陣

image by PIXTA / 10545227

天正元年(1573年)、長政は26歳のときの浅井攻めが初陣。秀吉が信長に浅井氏滅亡後の遺領を与えられたときには近江で120石の知行をもらい、長男幸長(よしなが)も天正4年(1576年)、近江国滋賀郡坂本で誕生。

長政はその後、信長から中国攻めの司令官とされた義兄秀吉とともに各地を転戦、天正7年(1579年)、北近江で300石を、秀吉が姫路城主として播磨の国を平定した天正9年(1581年)、播磨国で5600石を加増。各地で良政を行い領民に慕われたそう。

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