今回も生物学史に名をのこす有名な科学者を紹介しよう。この記事の主役は科学者、ロバート・ブラウンです。
ロバート・ブラウンという名前を聞いて何をした科学者かを答えられるやつは、なかなかの科学史通です。生物学だけでなく、化学や物理にも影響を与えた重要な人物です。
大学で生物学を学び、現在は講師としても活動しているオノヅカユウに解説してもらおう。
ライター/小野塚ユウ
生物学を中心に幅広く講義をする理系現役講師。大学時代の長い研究生活で得た知識をもとに日々奮闘中。「楽しくわかりやすい科学の授業」が目標。
ロバート・ブラウン(Robert Brown)は18世紀から19世紀にかけて生きたイギリスの植物学者です。
ロバート・ブラウンは1773年にイギリス・スコットランドのモントローズで生まれました。
彼は1790年には家族でエディンバラに引っ越し、エディンバラ大学へ入学します。初めは医学を学ぶつもりでしたが、大学で学ぶうちに植物学に興味を持つようになりました。
1793年に医療を学ぶコースをドロップアウト。1794年には軍隊に入隊しましたが、兵役中にあっても植物学への意欲が衰えず、時間のある時にはあちこちへ植物採集に行っていました。1800年ごろには植物学者の中でも名の知れた存在になっています。
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1798年、オーストラリアの自然を調査するチームに空きがあるという話を聞きつけ、ブラウンは参加を表明。紆余曲折がありましたが、著名な博物学者であるジョセフ・バンクスの推薦もあり、調査に加われることとなりました。
1801年からオーストラリアで植物を収集すること数年。1805年にイギリスで知られていなかった植物の標本をたくさん持ち帰り、植物の分類についての研究を行います。帰国後5年もかかってオーストラリアの1200種にも上る植物を記載し、数々の分類群を提唱しました。
その後ブラウンは、ジョセフ・バンクスの蔵書と植物標本を受け継ぎ、管理を任されます。1827年にはその標本がロンドンの大英博物館へ譲渡されることとなり、ブラウン自身も管理者として大英博物館に所属することになりました。
それから約30年間、亡くなるまでブラウンは植物標本部門の管理者として大英博物館に身をおきます。1858年、84歳のときにロンドンで亡くなりました。
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1827年、ブラウンは花粉の観察中に不思議な現象をみつけます。水に浮かべた花粉を顕微鏡で観察していたのですが、水中には一部の花粉が破れ、中から出てきた粒子が浮遊していました。
その粒子をよく見ると、上下左右に不規則な運動を続けているのです。水の流れが生じるような状態にもなく、なにが粒子を動かしているのかはわかりません。しくみは不明ながらも、ブラウンはこの現象を記録しました。
ブラウン以外にもこの現象を発見した人はいましたが、ブラウンの観察記録が詳細で有名なことから、この運動はブラウン運動と名付けられたのです。
「ブラウン運動がなぜ起きるのか」。粒子が動くという現象は一見簡単そうですが、理論的な説明がなされるまではかなりの時間を要し、ブラウンの生前に解明されることは叶いませんでした。
ブラウンが詳細にブラウン運動を確認したのが植物(花粉)由来の微粒子であったことから、「微粒子が生きている」とか、「生命の源そのものである」と考えることもあったようです。
しかしその後、ブラウンは石の微粒子、つまり無機物でも同じような運動を観察できることを見つけます。生物でも生物以外でも関係なく、ある程度の大きさの微粒子ではブラウン運動が起きることがわかりました。
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1905年、かの有名なアルベルト・アインシュタインがブラウン運動に言及します。アインシュタインは「気体や液体は分子が集まってできており、微粒子の周りに存在している分子が衝突することで、微粒子が不規則に運動する」と考え、それを数学を用いて説明したのです。
じつはこの時代、まだ原子や分子の存在が完全には認められていません。液体や気体が分子という、花粉の中の微粒子よりもさらに小さなものの集まりであるということを信じることのできない科学者もいたのです。
その3年後、1908年に物理学者のジャン・ペランが精密な実験によってアインシュタインの理論を証明し、ブラウン運動が水分子の不規則な運動(熱運動)の影響で起きていることが示されました。それと同時に、水が分子の集まりであるということも広く認められるようになったのです。
生物学の教科書の初めには、だいたい細胞のイラストが描かれ、その構造が説明されています。遺伝情報そのものであるDNAが収納されている細胞核は、細胞の真ん中あたりに大きく描かれ、抜群の存在感を放っていますよね。ロバート・ブラウンは、この細胞核の発見に携わった科学者の一人としても知られているんです。
はじめて細胞核を観察したのは、顕微鏡の作成に執念を燃やしていたオランダのレーウェンフックだといわれています。レーウェンフックの描き残した魚(サケ)の赤血球のスケッチに、丸い細胞核とみられるものが見て取れるのです。
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\次のページで「裸子植物と被子植物を区別した」を解説!/
Antoni van Leeuwenhoek - Dieter Gerlach, Geschichte der Mikroskopie. Verlag Harry Deutsch, Frankfurt am Main, Germany, 2009. ISBN 978-3-8171-1781-9.(Accompanying CD-ROM). Source given in there: Leeuwenhoek, A. van: Opera Omnia, seu Arcana Naturae ope exactissimorum Microscopiorum detecta, experimentis variis comprobata, Epistolis ad varios illustres viros. J. Arnold et Delphis, A. Beman, Lugdinum Batavorum 1719–1730. – Reprint: Georg Olms Verlag, Hildesheim, New York 1971–1972, パブリック・ドメイン, リンクによる
また、1802年ごろにはオーストリア生まれのフランツ・バウアーという植物学者も細胞核を観察したといわれています。しかしながら、レーウェンフックやバウアーの発見はあまり着目されることなく、時代が過ぎていきました。
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ブラウン自身が細胞核を確認したのは1831年。ラン科の植物の細胞を観察中のことでした。
細胞の中に丸い構造物があることに気づいた彼は、それが他の部分からとった細胞にも、ラン科以外の細胞にもみられることに気づきます。これはあらゆる細胞に共通にふくまれている物質なのではないかと考え、丸い構造物に細胞核という名前を与えたのです。
ブラウンが、これをロンドンのリンネ協会で発表したことにより、細胞核の存在を多くの研究者が知ることとなりました。
オーストラリアのものも含め、たくさんの植物を観察し、その分類方法を考え続けたロバート・ブラウン。彼は植物が“裸子植物と被子植物”に分けられるということに気づきました。
被子植物は、将来的には種子になる胚珠が子房に包まれている植物。反対に、裸子植物は胚珠がむき出しの状態になっている植物をいいますね。ブラウンは種子植物がこの2グループに大きく分類できることに気づいた最初の人物なのです。
植物の分類の基礎をつくった一人といえるでしょう。
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以上のように、ロバート・ブラウンはその人生を植物の分類や観察にささげた人物です。しかしながら、高校で学ぶ学習内容では、細胞核の発見者としてよりも、ブラウン運動の発見者としての方が重要視されることが多いかもしれません。
化学の授業でその名前を見た際には、彼が植物学者であるということを思い出していただければと思います。