今回は前田利常を取り上げるぞ。前田利家の息子で百万石の3代目の大名か、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の大名にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、前田利常について5分でわかるようにまとめた。

1-1、前田利常は金沢の生まれ

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前田利常(としつね)は、文禄2年(1594年)、加賀藩の祖である前田利家の4男として誕生。幼名は猿千代または犬千代。初名は利光で、寛永6年(1629年)、諱を利常と改名。母は側室の千代保(寿福院)で、利家が文禄の役で肥前名護屋城に在陣していたとき身の回りの世話に出向していた、下級武士の娘でお松夫人の侍女だった生母との間に出来た庶子で、当時利家は56歳だったということ。

1-2、利常の子供時代

父前田利家には子だくさんで、跡取りとして利常より32歳年長の長男利長、次男の利政もいた晩年の子の利常は、長姉幸姫の夫で越中守山城代の前田長種のもとに預けられて育ったということ。そして父の利家との初対面は、父の死の前年慶長3年(1598年)守山城で、利家は4歳の利常が大柄で自分によく似ているために気に入り、大小の刀を授けたそうで、その後、利常は子供のいなかった長兄利長の養嗣子となり、前田家の跡継ぎに決定。

1-3、慶長の危機を利常の婚約で乗り切る

加賀藩前田家の慶長の危機とは、慶長4年(1599年)、藩祖利家が亡くなり継承直後の利長に対して、徳川家康が謀反の疑いを抱いて加賀征伐を企てたが、前田家の重臣横山長知が家康に弁明し、利長の生母で利家正室の芳春院(お松)を江戸へ人質に差し出すことと、徳川家康の孫で秀忠の次女珠姫と利常との婚約を交わすことで乗り切った事件。以後、前田家は親徳川路線に切り替わることに。

2-1、利常、徳川珠姫と結婚、藩主に就任

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利常は、慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いのあとの西軍敗北で一時的に小松城の丹羽長重の人質に。このとき、長重が利常に自ら梨をむいて食べさせてくれたことを、晩年まで梨を食べるたびに思い出話としたそう。

同年、跡継ぎのいなかった長兄利長の養子となって元服、名を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の次女で5歳年下のわずか3歳の珠姫と結婚。慶長10年(1605年)6月、長兄で養父の利長は隠居、13歳の利常が家督を継いで藩主になり、将軍秀忠からは松平の名字と源の本姓を与えられたが、利常は父以来の菅原姓にこだわって固守したそう。

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2-2、利常、大坂の陣に出陣

21歳の利常は、慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に徳川方として参戦するため江戸から金沢へ帰り、2万以上の軍勢を率いて大坂へ出陣。11月17日、利常は住吉で家康に謁見、阿倍野に陣を敷き、大坂方の真田信繁(幸村)軍と対峙。家康は大坂城を包囲し、心理的圧力を加える作戦で利常に攻撃命令を出さず。しかし利常は功に焦ったため、12月4日丑刻(午前2時頃)に軍令に反し、独断で真田丸を攻撃、井伊直孝、松平忠直の軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北。

また、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月6日に家康から岡山口の先鋒を任され、後方には利常の舅の将軍秀忠の軍勢が陣取ったそう。そして1万5千の前田軍は大坂方の4千の大野治房軍と戦い、苦戦しつつ勝利。

そして大坂の陣の終了後、家康から利常への感状によると阿波、讃岐、伊予、土佐の四国をまるっと恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞。これまでの加賀(尚、白山麓18村は天領)、能登、越中3か国の安堵を認められたそう。固辞したのは、転封を危険視、または越中七金山の鉱山経営が軌道に乗り始めたことが理由ということ。

2-3、家康の遺言

 そして元和2年(1616年)4月、家康が死の床に就いた際、家康は見舞いに来た利常に、自分は利常を殺すように、たびたび将軍秀忠に申し出たが、秀忠は同意せず何も手を打たなかったので、自分に対しては恩義は感じなくてよいが、秀忠の厚恩を肝に銘じるようにと言ったという話があるそう。

2-4、利常の治世は

父利家は、利長に子供がないため、利長の後継には次男の利政をと遺言したが、利政は関ヶ原合戦の時の対応がまずかったため、利長の判断で利常が後継者となったいきさつがあり、親子ほど年の離れた長兄利長との関係は良好だったよう。

しかし利常には同母の兄弟がいなくて異母兄弟ばかりで、すぐ上の兄の知好や、弟たちと協調することができなかったということ。また、利家の正室で前田家では北政所寧々のような存在(実際、親しかったが)で利常には嫡母と言っていい芳春院(お松)と利常の生母寿福院の仲が、利政の子で芳春院の孫の直之の処遇をめぐって対立したりなど、険悪な仲だったという噂もあり、内憂に苦しめられたということ。

2-5、利常の加賀藩内の内政

利常は後述のように、江戸では鼻毛を伸ばしたりとうつけを装っていたが、藩内では幕府が攻めて来る想定で、金沢城をはさんだ犀川と浅野川を自然の濠に見立て、その外側に妙立寺などの寺院を移築して防備の一部としたりと、いざというときに出城として中心的な役割を果たすための備えを怠らなかったということ。

また内政でも優れた治績を上げていて、治水事業をおこない、「十村制(とむらせい)」という、有力な農民を現場監督に任じて農村全体を管理させ円滑に徴税する制度や、「改作法(かいさくほう)」という農民の暮らしを安定させて税収を増やす制度などの農政改革も積極的で、「政治は一加賀、二土佐」と称えられたたということで、 常に江戸幕府から警戒され、にらみをきかされていたが、巧みにかわして、120万石に及ぶ加賀前田家の家領を保全。

2-6、加賀ルネサンスを開花させた

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寛永19年(1642年)、利常の4女富姫が八条宮智忠親王妃(後水尾院の従弟)となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交するように。後水尾院の中宮徳川和子は亡くなった珠姫の末妹で、義兄弟関係だったということ。また前田家の尽力で、先代の八条宮智仁親王が造営開始した、後の桂離宮の八条宮別業が完成。

またその影響で加賀国にも京風文化を移入、御細工所と呼ばれる工房を設立し、蒔絵師の五十嵐道甫、清水九兵衛、美金工師の後藤顕乗、後藤覚乗など、京都や江戸から優れた一流の名工たちを高禄で召し抱え、藩内の美術工芸の振興に努め、「加賀ルネサンス」とよばれる華麗な金沢文化も開花させたということ

\次のページで「2-7、寛永の危機もクリア」を解説!/

2-7、寛永の危機もクリア

寛永の危機とは、徳川3代将軍家光の時代の寛永8年(1631年)に、2代将軍秀忠の病中、加賀藩が幕府に無断で金沢城を修築したとか、他国から船舶を購入、また大坂の陣で武功があった者に追加の褒美を与えたことなどで、謀反の疑いをかけられた事件のこと。

利常と嫡男光高は弁明しようと江戸に赴くが、将軍家光には目通りできず。しかし、慶長の危機を救った横山長知の息子の横山康玄(やすはる)が、老中土井利勝に弁明して嫌疑を晴らしてクリア。

その後、利常は嫡男光高と家光の養女で水戸徳川家の徳川頼房の娘大姫を結婚させ、寛永16年(1639年)6月に光高に家督を譲り、珠姫の生んだ次男利次に富山藩10万石を、同じく3男利治に大聖寺藩7万石を分封、20万石を自らの養老領として小松に隠居。

2-8、晩年の利常

正保2年(1645年)4月、息子で当主の光高が31歳で急死、跡を継いだ綱紀が3歳だったため、利常は6月に義弟でもある将軍家光の命令で綱紀の後見人として藩政を補佐することに。

利常は、孫の綱紀の養育のため、戦国時代の生き残りたちと接触させて尚武の気風を吹き込もうとしたということで、当時賢君として知られていた伊達政宗の息子で仙台藩主伊達忠宗、池田輝政の孫で岡山藩主池田光政(珠姫の姉千姫の娘婿)らを招いて話をよく聞かせ、他にも利常にお客が来ると綱紀を次室に座らせて傍聴させたということ。

また、利常は綱紀の正室に、将軍家光の異母弟で信頼厚い保科正之の娘摩須姫を選び、さらに徳川家とのつながりを深くしたということで、利常亡き後は岳父正之が綱紀の藩政改革の助言を行ったそう。

利常は、万治元年(1658年)10月12日に66歳で死去。法名は微妙院殿一峯克巌大居士なので、死後は戒名から微妙公と呼ばれたそう。

3-1、利常の逸話

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不明 - 那谷寺所蔵, パブリック・ドメイン, リンクによる

前田家は利家、慶次など、けっこう変わった人が多いけれど、利常もなかなかです。
色々な逸話をご紹介しますね。

3-2、正室珠姫と相愛だった

珠姫は徳川秀忠とお江の方の次女、姉の千姫は5歳で豊臣秀頼に輿入れしたが、珠姫の方が先に3歳で加賀にお輿入れ。輿入れの際は江戸から金沢まで道が整備、一里ごとに茶屋を建てて幼い珠姫のために狂言師や諸芸人つきで、道中に領地のある大名たちに歓待されつつ、豪勢な輿入れ道中だったそう。

3歳と8歳の夫婦は円満で、珠姫はその後、3男5女を出産。利常が江戸在府中に、父秀忠宛に、利常を早く加賀に帰してくれるよう要請する手紙が現存。しかし珠姫の乳母は、前田家に幕府の情報が筒抜けになることを恐れて、元和8年(1622年)5女夏姫の出産後、母体の調子がよくないと珠姫を隔離したが、事情を知らない珠姫は利常と会えないのは寵愛が薄れたからと誤解し、24歳で衰弱死。

利常は臨終の床に駆けつけ、珠姫の遺言で事情が判明、怒りを爆発させて珠姫の乳母を蛇責めにして処刑したということ。

3-3、父利家にそっくりだったらしい

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不明 - 投稿者自身による作品 (個人所蔵品), パブリック・ドメイン, リンクによる

前田家は利家と糟糠の賢夫人お松が作り上げたものだが、お松の子ではない庶子で4男の利常が当主になったのは、前述のように長兄利長の判断と、利常が利家によく似た立派な体格の持ち主であったためだったということ。そして徳川家康も遺言などからみて、かつてのライバルだった利家の面影を利常に見出し、かなりの警戒ぶりだったということで、当然のごとく江戸幕府は「底の知れぬ人」と警戒したということ。

3-4、かぶき者を装って鼻毛を伸ばす

江戸幕府は初期の頃、親豊臣大名を取り潰すのに命をかけていたところがあり、福島正則とかも、ちょっとしたことでインネンをつけられて取り潰されたため、利常は幕府の警戒をかわすのに、わざとうつけを装っていた、または前田家にありがちの「かぶき者」の気質か、色々と奇行の逸話が。

そのなかでも有名なのは、故意に鼻毛を伸ばして暗愚を装ったというもので、家臣が見かねて手鏡などを差し出すと「これは加州・能州・越中の三国を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛」と言ったそう。

また病で江戸城への出仕を休んだときに、老中酒井忠勝が皮肉を言ったとき、「疝気でここが痛くてかなわぬ」と殿中の満座の大名がいる中で裾をたくし上げて陰嚢を晒して弁解する有様。

そして江戸城中に「小便禁止。違反は黄金一枚の罰金」と札が立てられたとき利常は、その立て札に向かって立ち小便をして、大名が黄金惜しさに小便を我慢するものかと言い放ち、金一枚を投げつけた話も。

そのうえ殿中で頭巾をかぶるのはご法度だったが、利常は頭巾をかぶって登城、目付が注意させたが脱がなかったため、老中松平信綱、酒井忠勝に言いつけたが、逆に叱られたという話や、将軍以外は下馬という江戸城でも、利常はかまわず籠を降りなかったという話も。

\次のページで「3-5、戦没した家臣の菩提を弔ったが、東照宮には皮肉を言った」を解説!/

3-5、戦没した家臣の菩提を弔ったが、東照宮には皮肉を言った

大坂の役の後、利常は加賀に報恩寺を建立し、戦死した家臣たちの菩提を弔い遺族たちと寺に参って涙を流したために、「見る人聞く人、此殿の為に死せし事、露塵計りも押しからじとて、一同に哭し泣けるとぞ」と賞賛されたという話。

しかし、息子の光高が金沢城内に東照宮を建てたときは、老中酒井忠勝に対して利常は表面的に謝し、光高に対して「若気の至りでいらざることをする」と不快をあらわにしたそうで、もし天下が改まって徳川の権力が衰えた場合、どこへ遷宮するんだと諭したということ。光高は確かに前田家の跡取りだが、家康は母方の曽祖父でもあるのでこれはしょうがないような気も。

前田家の跡取りらしいユニークな方法で百万石を守った

前田利常は、前田利家の晩年の子でお松夫人の子ではありませんが、長兄利長に子供がなく、次兄たちの事情もあって利家によく似ていたことで跡継ぎに決定。そして関ヶ原合戦前のややこしい時期に、前田家存続をかけて徳川秀忠の娘と婚約、これで前田家は豊臣家から徳川寄りに方向転換が決定。

兄の後を継いだ利常は、父利家譲りは見かけだけでなく家康が警戒するほどの器量だったらしく、江戸幕府に警戒されましたが、鼻毛を伸ばしたり、ちょっと何を考えてるのかわからない態度を見せたりと、父讓りの個性的な方法で取り潰しを狙う江戸幕府をかわし、加賀藩内では農政事業や美術工芸などの文化を奨励し、120万石の家領を保ったということ。他の多くの藩が改易や転封で断絶が相次ぐなか、前田家は外様大名の中でも別格の待遇を受けて明治まで存続したのは、前田家3代目の利常の鼻毛のおかげかも。

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日本史歴史江戸時代

鼻毛を伸ばして加賀百万石を守った3代目「前田利常」を歴女がわかりやすく解説

今回は前田利常を取り上げるぞ。前田利家の息子で百万石の3代目の大名か、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを江戸時代も大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、江戸時代の大名にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、前田利常について5分でわかるようにまとめた。

1-1、前田利常は金沢の生まれ

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前田利常(としつね)は、文禄2年(1594年)、加賀藩の祖である前田利家の4男として誕生。幼名は猿千代または犬千代。初名は利光で、寛永6年(1629年)、諱を利常と改名。母は側室の千代保(寿福院)で、利家が文禄の役で肥前名護屋城に在陣していたとき身の回りの世話に出向していた、下級武士の娘でお松夫人の侍女だった生母との間に出来た庶子で、当時利家は56歳だったということ。

1-2、利常の子供時代

父前田利家には子だくさんで、跡取りとして利常より32歳年長の長男利長、次男の利政もいた晩年の子の利常は、長姉幸姫の夫で越中守山城代の前田長種のもとに預けられて育ったということ。そして父の利家との初対面は、父の死の前年慶長3年(1598年)守山城で、利家は4歳の利常が大柄で自分によく似ているために気に入り、大小の刀を授けたそうで、その後、利常は子供のいなかった長兄利長の養嗣子となり、前田家の跡継ぎに決定。

1-3、慶長の危機を利常の婚約で乗り切る

加賀藩前田家の慶長の危機とは、慶長4年(1599年)、藩祖利家が亡くなり継承直後の利長に対して、徳川家康が謀反の疑いを抱いて加賀征伐を企てたが、前田家の重臣横山長知が家康に弁明し、利長の生母で利家正室の芳春院(お松)を江戸へ人質に差し出すことと、徳川家康の孫で秀忠の次女珠姫と利常との婚約を交わすことで乗り切った事件。以後、前田家は親徳川路線に切り替わることに。

2-1、利常、徳川珠姫と結婚、藩主に就任

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利常は、慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いのあとの西軍敗北で一時的に小松城の丹羽長重の人質に。このとき、長重が利常に自ら梨をむいて食べさせてくれたことを、晩年まで梨を食べるたびに思い出話としたそう。

同年、跡継ぎのいなかった長兄利長の養子となって元服、名を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の次女で5歳年下のわずか3歳の珠姫と結婚。慶長10年(1605年)6月、長兄で養父の利長は隠居、13歳の利常が家督を継いで藩主になり、将軍秀忠からは松平の名字と源の本姓を与えられたが、利常は父以来の菅原姓にこだわって固守したそう。

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