室町時代ってどんな時代だ?平たく言えば「戦乱」の時代。その時々で将軍はどんなことをしてきたか?

戦乱の多い時代は登場人物が多くややこしい。「将軍」を軸にした室町時代の説明はあまり見かけない。

そこで、この記事では室町時代オタクのR175と一緒に「足利将軍家」を軸に室町時代の流れを説明していきます。

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.戦争に始まり戦争に終わる

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室町時代の始まりは別名南北朝時代。3代将軍の足利義満が南北朝の合一に成功するまで南北朝の内乱が続いていました。室町時代開始から60年ほどはモロ戦争の時代。

そして、室町時代の後半は別名戦国時代。織田信長、明智光秀等戦国武将が登場しているのも実は室町時代の一部。

応仁の乱から後、室町時代の後半100年ほどもモロ戦争の時代。

2.どんな将軍が居たか

2.どんな将軍が居たか

image by Study-Z編集部

徳川将軍家と同じく、足利将軍と15代続きました。初代から順におっていきましょう。なお、タイトルは「将軍名」+「各将軍のやったこと」を一言でまとめました。

2-1.尊氏(たかうじ、初代)~鎌倉幕府に対抗してMy政権を確立~

歴史の教科書に頻出の有名人。1336年に室町幕府を築いた人物です。

足利尊氏は元々、鎌倉幕府に仕える武士(幕臣)でした。しかも、幕府や北条氏から期待される存在でした。

鎌倉幕府からの仕打ち

尊氏は幕府に期待される存在だったにもかかわらず、鎌倉幕府からの仕打ちを受けます。

1331年、鎌倉幕府と後醍醐天皇が対立し「元弘の乱」が勃発。この時、尊氏は父の喪中でしたが鎌倉幕府に無理やり出兵されられました。これがきっかけで尊氏は幕府に反感を持ったようです。

反感を持ちながらも何とか戦いきり、この時は鎌倉幕府側が勝利しました。

後醍醐天皇と組んで幕府に反抗

幕府側の軍だった尊氏ですが、1333年再び幕府への反乱が起きた際、尊氏は反幕府側(後醍醐天皇側)につき、鎌倉幕府を滅亡させてしまいます。

 

天皇とも対立してMy政権確立

府を滅亡させた後、仲間だった後醍醐天皇とも対立関係に。そこで尊氏はもう一つの政権を作り、後醍醐天皇に対抗し光明天皇というもう一人の天皇を立位させました。かくして南朝、北朝の2つの政権があり、2人の天皇がいる南北朝時代に突入。

2-2.義詮(よしあきら、2代目)~幼少期に鎌倉幕府攻めを指揮~

初代尊氏と3代義満に挟まれ、2代目将軍義詮は影が薄い感ありますが、功績は大きいです。

足利家から鎌倉幕府を攻めた時、(形式上)指揮を取ったのは当時3歳の義詮。当時、父の尊氏は出兵中。子の義詮らは幕府に人質に取られていましたが、尊氏の指示で上手く逃げ出します。そして義詮が指揮をとって鎌倉幕府を攻めました。

尊氏の死後、1358年将軍に就任。御前沙汰とよばれる将軍主体の会議体を作るなどし、将軍の権力を拡大して国をまとめようとしますが、南北朝合一には至りませんでした。

2-3.義満(よしみつ、3代目)~国をまとめ上げ幕府の権力強化~

室町幕府の全盛期を敢えて選ぶなら、義満の時代と言えるかもしれません。

\次のページで「2-4.義持(よしもち、4代目)~アンチ義満な政治によりやや弱体化」を解説!/

南北朝合一

室町時代が始まって以来ずっと、南朝と北朝2つの政権がある状態でした。いわゆる南北朝時代(足利家は北朝側)。

義満は南朝をある程度軍事的に制圧した上で以下条件を提示。

・正規の朝廷は南朝だが、これからは情勢的に有利な北朝側にも天皇即位権をゆずってほしい。

・天皇へは南朝からと北朝から交互に即位

劣勢だった南朝、変に粘って徹底的に制圧されるよりは条件を飲んで北朝にも天皇即位権を譲った方が好都合。

かくして、南朝が持っていた天皇の証である「三種の神器」を譲り受け北朝側の天皇が即位。

単なる軍事攻撃だけでなく、南朝をうまく説得することで南北朝の合一を達成したわけです。

日明貿易による財政強化

義満は、明と貿易を始めたら儲かりそうだという情報を入手。

明が相手にしてくれそうなタイミングを上手く見計らって明に使者を送り、国交を樹立に成功。

日明貿易を始めることで財政が潤いました。

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権威を示す

明への使者を送る際に添えた手紙にて、義満は自らを「日本国王」と名乗っていました。

単なる将軍ではなく、非常に権威が高いと言いたかったようです。

また、金閣を建てることで財力や権力があると周りに印象付けました。

2-4.義持(よしもち、4代目)~アンチ義満な政治によりやや弱体化

わずか8歳で幼くして将軍となりますが、実権は父義満が持っているため、優秀すぎる義満にずっと抑圧されるような状態。

父義満には不満だらけで、不仲だったようです。

義満の死後にはなんと日明貿易も中止してしまうくらいアンチ義満な政治。

2-5.義量(よしかず、5代目)~重圧に応えられず短命

5代将軍義量(よしかず)は若くしてなくりました。義満、義持の時代は室町幕府がそれなりに、安定していた。

16歳で将軍に就任。政治の実権は父義持が持っていました。

その状態を維持するのはハードルが高い任務。それに実権は父が持っていて、「ああやこうや」と言われる。そのプレッシャーからか、お酒に走ってしまい身体を壊してしまい17歳で亡くなりました。

当然この若さでは子孫もなく、よって将軍跡継ぎ問題が発生しました。

2-6.義教(よしのり、6代目)~将軍決め苦労の末に誕生した「くじ引き将軍」

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義量の死後、将軍不在状態に。義持が実質的に政治を指揮。

しかし、義持が居るからといって、いつまでも将軍不在では困りますね。

苦渋の末、くじ引きで将軍を決めることになりました。かくして、くじ引き将軍が誕生。

幕府の権威復活

義教が将軍になったきっかけは「くじ引き」ですが、彼は非常に熱心でした。

幕府権力が強かった時代の義満政策を参考に。

一旦中止されていた日明貿易を復活。

さらに、御前沙汰と呼ばれる将軍主宰の会議での決定権を拡大。

従来、御前沙汰で扱えなった年貢回収のルールなどを決められるようにしました。

独裁政治・恐怖政治

義教が徹底的に「しめて」いったおかげで幕府の権力は強くなり国としてまとまりやすくなりました。

しかし弊害も。

将軍に権力が偏り過ぎたたため、独裁色が強くなります

幕府関係者や大名たちは義教を恐れる一方不満を持つものもあらわれました。

\次のページで「2-7.義勝(よしかつ、7代目)~混乱の最中誕生した短命将軍」を解説!/

足利将軍初の暗殺死

独裁政治を行い、常に周囲をビビらせている。そんな義教への不満が爆発しました。

播磨・備前・美作を治める守護大名、赤松満祐がついに義教を暗殺していまいます。

満祐は、義教が戦いに勝ったタイミングで祝賀会と称して自宅に招待。宴会の最中に義教を襲うという手口でした。

この事件を発端に、幕府と赤松満祐との一連の戦いは「嘉吉の乱(かきつのらん)」と呼ばれています。

独裁者没後の混乱

驚いたことに、義教が亡くなった後、満祐は播磨まで逃げ切ってしまいます。

独裁者が居なくなったことで幕府は混乱状態に。指揮する人がいないため、満祐を処罰しようにも、誰がどのように動いていくか作戦がまとまらず。

また、一説によれば義教はあまりにも嫌われていたから、暗殺した満祐を誰も積極的に罰しようとしようとしなかったともいわれています。

いずれにせよ、独裁者が突然消えたことで大混乱状態。

 

2-7.義勝(よしかつ、7代目)~混乱の最中誕生した短命将軍

義教の後継ぎとして注目されていた義勝。父義教が突然亡くなったため、わずか9歳で将軍に就任。

管領(将軍の次に偉い役職)・細川持之と伊勢貞国らが政務を行いました。

幼くして将軍になった義勝ですが、その翌年10歳で亡くなってしまいます。就任期間は数ヶ月。

2-8.義政(よしまさ、8代目)〜幕府権力復活も応仁の乱でやる気喪失

将軍暗殺からの混乱の最中、次の将軍義勝も1年足らずで亡くなる。

次に将軍に選ばれたのが銀閣で有名な足利義政。わずか8歳で将軍に就任。

幕府の権力強化

義教に続き義政も幕府の権力復活に尽力。

でも、義教とは少し方法が違いました。

義教はとにかく将軍の権力強化、一頭集中を目指しましたが、義政は逆に周りを強くして、その力を借りる手法に出ました。

将軍側近集団の強化

政所は財政関連、奉行衆は司法関連、奉公衆は軍事関連を担当する役所。義政はこれら組織の団結力を強化し、有力な守護大名に対抗できるようにしました。

将軍とはいえ、1人の力は限られているため、将軍に仕える者たちを強くして力を借りました。独裁政治からの反省でしょうか。

またしても後継ぎ問題からの応仁の乱

うまく政治を回していた義政にトラブルが。

9代目将軍を誰にするかという問題です。

義政には息子が居なかったため、出家していた弟の足利義視(よしみ)を還俗(還俗)させました。還俗とは、一度出家した人が俗人に戻ること。出家の反対と考えましょう。

ところが、その後義政に息子義尚(よしひさ)が誕生。時期将軍候補は義尚に。

いやいや、義視が将軍になるんじゃなかったのか?

この後継ぎ問題をきっかけに応仁の乱が勃発。

 

2-9.義尚(よしひさ、9代目)~応仁の乱最中で将軍に就任~

応仁の乱で政治がぐちゃぐちゃ。義政は将軍職を息子の義尚に譲り、将軍別荘(後の銀閣)に隠居。

応仁の乱最中の最悪なタイミングで将軍にされ、将軍自体は引退している父に色々と口出しされ苦労。父とは不仲だったようです

幕府の権力回復のため、揉め事が起きた際は自ら出陣。

公家や寺社などの所領を押領したとして近江の守護の六角高瀬を討伐するため、近江に出陣中病死してしまいます。

\次のページで「2-10.義稙(よしたね、10代目)~返り咲き将軍~」を解説!/

2-10.義稙(よしたね、10代目)~返り咲き将軍~

一旦将軍候補にあがりましたが「やっぱいいわ」で断られ将軍になれなかった父義視に代わり、10代将軍になりました。

9代将軍義尚に後継ぎが居なかったため、順番が回ってきました。

ところが管領と喧嘩をして、将軍職を追い出されてしまいます。しかしその後、諸大名たちの軍事力を借りて京都を奪還し、将軍に返り咲きました。

しかし、またもや管領と対立し、逃亡先で死亡しました。

2-11.義澄(よしずみ、11代目)~将軍職の奪い合い

11代将軍足利義澄(よしずみ)は、10代将軍が京都から追い出されたタイミングで就任。8代将軍義政の甥。

管領、細川政元と対立することが多かったようです。

そして、1502年お寺に引きこもります。

細川政元が説得に行くと、京都位戻る代わりに次世代将軍候補である10代将軍義稙の弟を殺害するよう要求。

要求は飲まれ将軍候補の1人は殺されました。そこで安堵していると、今度は管領細川政元が暗殺されてしまい、細川家が混乱している中、前将軍の義稙が京都に攻めてきて将軍職を奪い返されました。

2-12.義晴(よしはる、12代目)~管領と揉めた将軍の後に就任

12代将軍、足利義晴は11代将軍義澄の息子。

11代将軍義澄から将軍職を奪還した10代将軍義稙ですが、またもや管領と揉めて追い出されます。

そのタイミングで12代将軍義晴が就任。なんかややこしいですが、父義澄との間に一旦義稙に将軍職を奪還されているということ。

この頃になると、将軍の主な任務は戦いの指揮。

戦いに明け暮れる中、1546年、敵陣から逃れる時、息子の義輝に急いで将軍職を譲ります。

2-13.義輝(よしてる、13代目)〜喧嘩をやめさせ幕府権威復活を試みる

父、義晴が逃亡した後将軍に。

既にゴタゴタの戦国時代ですが、何とか幕府の権威を復活させようと努力します。

各地で起こる大名同士の抗争をやめさせることで幕府権威復活を試みました。

しかし、この時期に来て将軍の権力が強い状態はあまり好まれず

恨みを買って暗殺されてしまいます。

2-14.義栄(よしひで、14代目)〜名ばかり将軍

先述の義輝暗殺を行った大名たちにより、立てられた将軍。

一度も京都の地に足を踏み入れることがなかった。

2-15.義昭(よしあき、15代目)〜信長に立てられるも追い出され

この頃には織田信長の勢力が強くなっていました。京都に入れなかった14代将軍義栄が病死すると、織田信長が擁立していた義昭が将軍に。

室町幕府最後の将軍です。

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室町幕府の最後

信長に立てられ将軍になった義昭ですが、1573年信長と対立し京都から出ていきました。

義昭その後長期に渡り京都戻らなかったたため、この1573年をもって室町幕府滅亡とされています。

しかし、豊臣秀吉政権が確立した1588年までは将軍職という扱い。

最後の最後は無血開城だったわけですね。

戦いに始まり戦いに終わる

南北朝分裂状態から無理やり成立した室町幕府。

その後戦いを制しながら、権力をつけるも後が続かなかったり反発を招いたりで苦労。

戦国期に入ると将軍同士で地位を奪い合う様。幕府権威は弱まり、有力大名の言いなりに。最後は織田信長に京都を追い払われ室町幕府は滅亡。

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南北朝時代室町時代戦国時代日本史歴史

足利将軍家とは?15人の将軍と流れを室町時代オタクがわかりやすく解説

室町時代ってどんな時代だ?平たく言えば「戦乱」の時代。その時々で将軍はどんなことをしてきたか?

戦乱の多い時代は登場人物が多くややこしい。「将軍」を軸にした室町時代の説明はあまり見かけない。

そこで、この記事では室町時代オタクのR175と一緒に「足利将軍家」を軸に室町時代の流れを説明していきます。

ライター/R175

京都府在住の室町時代オタク。理系出身であるが、京都の寺社仏閣を巡るのが趣味。理系らしく論理立てて説明することを心掛ける。

1.戦争に始まり戦争に終わる

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室町時代の始まりは別名南北朝時代。3代将軍の足利義満が南北朝の合一に成功するまで南北朝の内乱が続いていました。室町時代開始から60年ほどはモロ戦争の時代。

そして、室町時代の後半は別名戦国時代。織田信長、明智光秀等戦国武将が登場しているのも実は室町時代の一部。

応仁の乱から後、室町時代の後半100年ほどもモロ戦争の時代。

2.どんな将軍が居たか

2.どんな将軍が居たか

image by Study-Z編集部

徳川将軍家と同じく、足利将軍と15代続きました。初代から順におっていきましょう。なお、タイトルは「将軍名」+「各将軍のやったこと」を一言でまとめました。

2-1.尊氏(たかうじ、初代)~鎌倉幕府に対抗してMy政権を確立~

歴史の教科書に頻出の有名人。1336年に室町幕府を築いた人物です。

足利尊氏は元々、鎌倉幕府に仕える武士(幕臣)でした。しかも、幕府や北条氏から期待される存在でした。

鎌倉幕府からの仕打ち

尊氏は幕府に期待される存在だったにもかかわらず、鎌倉幕府からの仕打ちを受けます。

1331年、鎌倉幕府と後醍醐天皇が対立し「元弘の乱」が勃発。この時、尊氏は父の喪中でしたが鎌倉幕府に無理やり出兵されられました。これがきっかけで尊氏は幕府に反感を持ったようです。

反感を持ちながらも何とか戦いきり、この時は鎌倉幕府側が勝利しました。

後醍醐天皇と組んで幕府に反抗

幕府側の軍だった尊氏ですが、1333年再び幕府への反乱が起きた際、尊氏は反幕府側(後醍醐天皇側)につき、鎌倉幕府を滅亡させてしまいます。

 

天皇とも対立してMy政権確立

府を滅亡させた後、仲間だった後醍醐天皇とも対立関係に。そこで尊氏はもう一つの政権を作り、後醍醐天皇に対抗し光明天皇というもう一人の天皇を立位させました。かくして南朝、北朝の2つの政権があり、2人の天皇がいる南北朝時代に突入。

2-2.義詮(よしあきら、2代目)~幼少期に鎌倉幕府攻めを指揮~

初代尊氏と3代義満に挟まれ、2代目将軍義詮は影が薄い感ありますが、功績は大きいです。

足利家から鎌倉幕府を攻めた時、(形式上)指揮を取ったのは当時3歳の義詮。当時、父の尊氏は出兵中。子の義詮らは幕府に人質に取られていましたが、尊氏の指示で上手く逃げ出します。そして義詮が指揮をとって鎌倉幕府を攻めました。

尊氏の死後、1358年将軍に就任。御前沙汰とよばれる将軍主体の会議体を作るなどし、将軍の権力を拡大して国をまとめようとしますが、南北朝合一には至りませんでした。

2-3.義満(よしみつ、3代目)~国をまとめ上げ幕府の権力強化~

室町幕府の全盛期を敢えて選ぶなら、義満の時代と言えるかもしれません。

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