

その辺のところをヨーロッパの王室の歴史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、マリア・テレジアはウィーンの生まれ
- 1-2、父カール6世、国事詔書を定める
- 1-3、マリア・テレジアの結婚問題
- 1-4、マリア・テレジア、フランツと結婚
- 2-1、マリア・テレジアの治世に起こった出来事
- 2-2、オーストリア継承戦争
- 2-3、3枚のペチコート作戦
- 2-4、七年戦争
- 2-5、結婚政策
- 3、マリア・テレジアの晩年
- 4-1、マリア・テレジアの子供たち
- 4-2、次女マリア・アンナ(1738年 – 1789年)
- 4-3、長男ヨーゼフ2世(1741年 – 1790年)
- 4-4、4女マリア・クリスティーナ(1742年 – 1798年)
- 4-5、5女マリア・エリーザベト(1743年 – 1808年)
- 4-6、次男カール・ヨーゼフ(1745年 – 1761年)
- 4-7、6女マリア・アマーリア(1746年 – 1804年)
- 4-8、3男レオポルト2世(1747年 – 1792年)
- 4-9、9女マリア・ヨーゼファ(1751年 – 1767年)
- 4-10、10女マリア・カロリーナ(1752年 – 1815年)
- 4-11、4男フェルディナント・カール・アントン(1754年 – 1806年)
- 4-12、11女マリア・アントーニア(1755年 – 1793年)
- 4-13、5男マクシミリアン・フランツ(1756年 – 1801年)
- ハプスブルク家の歴史でも存在感を放つ、偉大な母にして女帝だった
この記事の目次

解説/桜木建二
「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マリアテレジアについて5分でわかるようにまとめた。
1-1、マリア・テレジアはウィーンの生まれ
マリア・テレジアは、1717年5月、神聖ローマ皇帝カール6世とニーダーザクセンのブラウンシュヴァイク=リューネブルク家出身の皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生。正式名はマリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒで、兄と末の妹が夭折、一つ年下の妹のマリア・アンナと二人姉妹でカイザーホーフ宮殿で育ったそう。
ハプスブルク家の大公女として、イエス・キリストが洗礼を受けたヨルダン川の水を取り寄せて洗礼を受け、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納されたり、母の愛称レースルから「小さなレースル」と呼ばれ、母親譲りの美貌で市民の人気も高かったが、男の子の跡継ぎが生まれることを期待していたため、父カール6世はマリア・テレジアには跡継ぎとしての帝王学教育もせず、幼少期の公式記録も残っていないということ。
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1-2、父カール6世、国事詔書を定める
国事詔書は、1713年4月にカール6世が定めたハプスブルク家憲で、王位継承権に関するサリカ法から、長子相続の原則と補助的な女系相続の原則に方向転換。王位継承順は、第一位が長男、第二位に長男の系統、第三位が長男以外の男系系統、そして男系が完全に断絶した後には、最後の王位継承者の長女とその子孫による女系系統という順番に制定。
これはマリア・テレジアの生まれる4年前に制定されたもので、カール6世がマリア・テレジアに皇位継承させるために作ったものではないということ。
尚、カール6世はこの国事詔書を定めた後に、長男レオポルトが生まれたが夭折、長女マリア・テレジアへの相続を確実にするために、領内諸地方の身分制議会の承認を得、1724年12月に公示。そしてカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘たちが嫁いだザクセンとバイエルン両選帝侯の相続権を放棄させ、1726年にプロシア、1731年にはイギリス、オランダ、1738年にフランスが承認したものの、カール6世の死後、マリア・テレジアの相続にプロイセンが異議を唱えたことで、オーストリア継承戦争が勃発することに。
1-3、マリア・テレジアの結婚問題
Andreas Møller – Kunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, リンクによる
そういう理由でマリア・テレジアに継承の道が出来たために、結婚相手の候補としては、バイエルンや、プロイセンの後のフリードリヒ2世との縁談もあったが、ロートリンゲン(ロレーヌ)家のカール5世の孫との婚約が決定。
ロートリンゲン(ロレーヌ)公レオポルトの3人の息子は1723年からウィーン宮廷へ留学、長男クレメンスが婚約者候補だったが天然痘で16歳で病没したために、次男フランツ・シュテファンが婚約者候補に。カール6世もフランツのことを大変気に入り、マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、一緒に育った初恋の人と結ばれることに。
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1-4、マリア・テレジア、フランツと結婚
1736年2月12日、アウグスティーナ教会でマリア・テレジアとフランツの結婚式が挙行されたが、財政逼迫のために節約で謝肉祭に合わせてあり、おまけに普通は裕福な庶民でも結婚式の後1週間ほど親族のお祭り騒ぎが続くのに、1日だけ。
尚、結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地ロートリンゲン(ロレーヌ)公国をフランスへ割譲し、代わりにトスカーナ大公の地位を得るのが屈辱だったそう。 ハプスブルグ家は2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家と名乗ることに。
夫婦仲は円満だったが、フランツは入り婿として冷遇されたということで、結婚以来数年で3人女の子が続いて生まれたのもフランツのせいにされたと言う話も。
Unidentified painter – 不明, パブリック・ドメイン, リンクによる
フランツ・シュテファン公とは
フランツは、1708年12月、父ロレーヌ公レオポルト・ヨーゼフと、母、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップの娘エリーザベト・シャルロッテの第9子4男として誕生。フランツの父方の曾祖父が皇帝フェルディナント3世なので、マリア・テレジアとは又従兄妹。
陽気で親しみやすい性格で、自然科学には大変な興味を持っていて独学で相当なレベルにまで達したということで、シェーンブルン宮殿の一角に作った植物園や動物園、昆虫や鉱石のコレクションは、ウィーン自然史博物館に所蔵されているそう。フランツはよき父として子供たちを可愛がったということで、1765年8月に3男レオポルドの結婚式でインスブルック訪問中に57歳で急死後、マリア・テレジアはその後、亡くなるまでも服で通したということ。またフランツは、莫大な財産や宝石のコレクションを残し、七年戦争で財政難のオーストリアが国債を発行する際、保証人になれたほどで、マリア・テレジア以下の家族もびっくりしたということ。
尚、1744年1月、マリア・テレジアのただ一人の妹マリア・アンナと、フランツの弟カール・アレクサンダーも恋愛結婚したが、同年末にマリア・アンナは死産の後、26歳で死去。
2-1、マリア・テレジアの治世に起こった出来事

1740年、カール6世が死去し、マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を相続。尚、神聖ローマ皇帝は女性であるため選出されず、実質女帝で実験は握ったが、正式称号はオーストリア大公妃、ボヘミア女王、ハンガリー女王だったそう。
マリア・テレジアの治世に起こった主な出来事をまとめてみました。
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