世界史

マリー・アントワネットの母「マリア・テレジア」を歴女がわかりやすく解説

よぉ、桜木健二だ、今回はマリアテレジアを取り上げるぞ。ハプスブルク家の女帝だっけ、子だくさんみたいだが、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところをヨーロッパの王室の歴史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

解説/桜木建二

「ドラゴン桜」主人公の桜木建二。物語内では落ちこぼれ高校・龍山高校を進学校に立て直した手腕を持つ。学生から社会人まで幅広く、学びのナビゲート役を務める。

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ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、ヨーロッパの王室の歴史にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、マリアテレジアについて5分でわかるようにまとめた。

1-1、マリア・テレジアはウィーンの生まれ

マリア・テレジアは、1717年5月、神聖ローマ皇帝カール6世とニーダーザクセンのブラウンシュヴァイク=リューネブルク家出身の皇后エリーザベト・クリスティーネの長女として誕生。正式名はマリア・テレジア・ヴァルブルガ・アマーリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒで、兄と末の妹が夭折、一つ年下の妹のマリア・アンナと二人姉妹でカイザーホーフ宮殿で育ったそう。

ハプスブルク家の大公女として、イエス・キリストが洗礼を受けたヨルダン川の水を取り寄せて洗礼を受け、マリアツェル教会に黄金の子供像を奉納されたり、母の愛称レースルから「小さなレースル」と呼ばれ、母親譲りの美貌で市民の人気も高かったが、男の子の跡継ぎが生まれることを期待していたため、父カール6世はマリア・テレジアには跡継ぎとしての帝王学教育もせず、幼少期の公式記録も残っていないということ。

1-2、父カール6世、国事詔書を定める

国事詔書は、1713年4月にカール6世が定めたハプスブルク家憲で、王位継承権に関するサリカ法から、長子相続の原則と補助的な女系相続の原則に方向転換。王位継承順は、第一位が長男、第二位に長男の系統、第三位が長男以外の男系系統、そして男系が完全に断絶した後には、最後の王位継承者の長女とその子孫による女系系統という順番に制定。

これはマリア・テレジアの生まれる4年前に制定されたもので、カール6世がマリア・テレジアに皇位継承させるために作ったものではないということ。

尚、カール6世はこの国事詔書を定めた後に、長男レオポルトが生まれたが夭折、長女マリア・テレジアへの相続を確実にするために、領内諸地方の身分制議会の承認を得、1724年12月に公示。そしてカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘たちが嫁いだザクセンとバイエルン両選帝侯の相続権を放棄させ、1726年にプロシア、1731年にはイギリス、オランダ、1738年にフランスが承認したものの、カール6世の死後、マリア・テレジアの相続にプロイセンが異議を唱えたことで、オーストリア継承戦争が勃発することに。

1-3、マリア・テレジアの結婚問題

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Andreas MøllerKunsthistorisches Museum Wien, Bilddatenbank., パブリック・ドメイン, リンクによる

そういう理由でマリア・テレジアに継承の道が出来たために、結婚相手の候補としては、バイエルンや、プロイセンの後のフリードリヒ2世との縁談もあったが、ロートリンゲン(ロレーヌ)家のカール5世の孫との婚約が決定。

ロートリンゲン(ロレーヌ)公レオポルトの3人の息子は1723年からウィーン宮廷へ留学、長男クレメンスが婚約者候補だったが天然痘で16歳で病没したために、次男フランツ・シュテファンが婚約者候補に。カール6世もフランツのことを大変気に入り、マリア・テレジアは6歳の時に15歳のフランツと出会い、一緒に育った初恋の人と結ばれることに

1-4、マリア・テレジア、フランツと結婚

1736年2月12日、アウグスティーナ教会でマリア・テレジアとフランツの結婚式が挙行されたが、財政逼迫のために節約で謝肉祭に合わせてあり、おまけに普通は裕福な庶民でも結婚式の後1週間ほど親族のお祭り騒ぎが続くのに、1日だけ。

尚、結婚に際しフランツは、フランス王ルイ15世の理解を得るため、領地ロートリンゲン(ロレーヌ)公国をフランスへ割譲し、代わりにトスカーナ大公の地位を得るのが屈辱だったそう。 ハプスブルグ家は2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家と名乗ることに。

夫婦仲は円満だったが、フランツは入り婿として冷遇されたということで、結婚以来数年で3人女の子が続いて生まれたのもフランツのせいにされたと言う話も。

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Unidentified painter不明, パブリック・ドメイン, リンクによる

フランツ・シュテファン公とは
フランツは、1708年12月、父ロレーヌ公レオポルト・ヨーゼフと、母、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップの娘エリーザベト・シャルロッテの第9子4男として誕生。フランツの父方の曾祖父が皇帝フェルディナント3世なので、マリア・テレジアとは又従兄妹。

陽気で親しみやすい性格で、自然科学には大変な興味を持っていて独学で相当なレベルにまで達したということで、シェーンブルン宮殿の一角に作った植物園や動物園、昆虫や鉱石のコレクションは、ウィーン自然史博物館に所蔵されているそう。フランツはよき父として子供たちを可愛がったということで、1765年8月に3男レオポルドの結婚式でインスブルック訪問中に57歳で急死後、マリア・テレジアはその後、亡くなるまでも服で通したということ。またフランツは、莫大な財産や宝石のコレクションを残し、七年戦争で財政難のオーストリアが国債を発行する際、保証人になれたほどで、マリア・テレジア以下の家族もびっくりしたということ。

尚、1744年1月、マリア・テレジアのただ一人の妹マリア・アンナと、フランツの弟カール・アレクサンダーも恋愛結婚したが、同年末にマリア・アンナは死産の後、26歳で死去。

2-1、マリア・テレジアの治世に起こった出来事

image by PIXTA / 12689021

1740年、カール6世が死去し、マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を相続。尚、神聖ローマ皇帝は女性であるため選出されず、実質女帝で実験は握ったが、正式称号はオーストリア大公妃、ボヘミア女王、ハンガリー女王だったそう。

マリア・テレジアの治世に起こった主な出来事をまとめてみました。

2-2、オーストリア継承戦争

1740年、マリア・テレジアの父カール6世の没後、ドイツ諸侯、イギリス、オランダなど列国の承認を得た国事詔書に従って、マリア・テレジアが全ハプスブルク領を継承したが、カール6世の兄ヨーゼフ1世の娘たちが嫁いだザクセン選帝侯とバイエルン選帝侯が継承権を要求、プロイセン王フリードリヒ2世 もシュレジェンを要求して戦争が勃発。

フランスはプロシア側に、イギリスはオーストリアと同盟、1742年、バイエルン選帝侯がカール7世として神聖ローマ皇帝についたりしたが、マリア・テレジアが喪服に身を包み生まれたばかりの後のヨーゼフを抱いて(これは事実ではないという説)ハンガリー女王として即位、ハンガリー貴族たちに抵抗を呼びかけたりと奮闘。

オーストリアは敗戦はしたものの、1745年9月、カール7世没後、夫のフランツが正式に神聖ローマ皇帝に選ばれてフランツ1世皇帝となり、1748年 10月のアーヘンの和約で、シュレジェンがプロイセンに譲られ、他のオーストリアの領土は保全されたということ。

2-3、3枚のペチコート作戦

マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争の敗戦後、宰相カウニッツの補佐でプロイセンのフリードリヒ2世への復讐と、シュレジェンの奪回のためにオーストリアの軍制、政治機構の改革と国力の回復に努め、外交ではフランスと、ロシアとも関係を強めて、プロイセンを孤立させることに成功。

それまでハプスブルグ家は長期にわたってフランスと敵対していたため、この同盟関係は外交革命と称されたということ。これは宰相カウニッツがフランス駐在オーストリア大使としてベルサイユで知り合った、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人との画策で、11女のマリー・アントワネットとフランス王太子との結婚もその一環。またロシア女帝エリザヴェータとも交渉して同盟を結び、女性3人が結託したプロイセン包囲網は、女性下着のペチコート作戦と呼ばれることに。

2-4、七年戦争

1756年8月、フリードリヒ2世率いるプロイセン軍がオーストリアのザクセンに侵攻、プロイセンはオーストリア、フランス、ロシアの3枚のペチコート包囲攻撃にあい、一時ベルリンを占領されて絶体絶命の危機に瀕したが、1761年、ロシアの女帝エリザヴェータが急死し、プロイセンのフリードリヒ2世を崇拝していた甥のピョートル3世が皇帝となり単独講和してしまい、さらにピョートル3世はロシア軍によるプロイセン領の占領を解き、スウェーデンとの和平を仲介。

ロシアとの講和によってプロイセンは窮地を脱して、フライベルクの戦いでオーストリアに勝利。プロイセンとオーストリアの戦争は膠着状態に陥り、また植民地でのイギリスとフランスの戦争でもイギリス優位になったため、1763年2月にフベルトゥスブルク講和条約が締結、プロイセンのシュレジェン領有が確定。

尚、この七年戦争は、フレンチ・インディアン戦争、ポンメルン戦争、第三次カーナティック戦争、第三次シュレジェン戦争などの多くの別称があり、ヨーロッパだけではなく植民地のアメリカ、アフリカ、インドなど広範囲で戦闘が行われたために、「史上初めての世界大戦」と呼ばれ、ほとんど18世紀中にわたったイギリスとフランス間の戦争は「第二次百年戦争」として、七年戦争もその一部とされるそう。

2-5、結婚政策

マリア・テレジアはプロイセン打倒のために、マクシミリアン1世の時代からの200年来の宿敵だったフランスと和解する必要性から、娘や息子のほとんどが多くをルイ15世の孫である、フランス、スペイン、イタリアのブルボン家の一族と結婚させたということ。

3、マリア・テレジアの晩年

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Workshop of アントン・フォン・マロン投稿者自身による作品, Coyau, 2011年5月25日, パブリック・ドメイン, リンクによる

1765年、24歳の息子ヨーゼフ2世は父フランツの死後、混乱もなく皇帝に就き、母マリア・テレジアとヨーゼフとの共同統治に。しかしヨーゼフの急進的な改革姿勢とは意見が対立しがちとなり、特に1772年にはマリア・テレジアの反対を押し切って第1回ポーランド分割に加わり、1778年のバイエルン継承戦争をめぐっても対立することに。

そして1780年11月中旬、マリア・テレジアは散歩の後に高熱を出して寝込み、11月29日にヨーゼフ2世、ミミ夫妻、独身の娘たちに囲まれながら63歳で死去。病床では、フランツの遺品であるガウンをまとい、遺言によって最愛の夫フランツと同じ棺で、ハプスブルク家の墓所のカプツィーナー納骨堂に埋葬されたそう。

4-1、マリア・テレジアの子供たち

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マルティン・ファン・マイテンス[1], パブリック・ドメイン, リンクによる

マリア・テレジアとフランツは恋愛結婚で非常に円満な夫婦生活、おまけに多産系のハプスブルク家のせいか、5人の男子と11人の女子の16人が生まれ、そのうち成人したのは10人。子供たちをご紹介しますね。

4-2、次女マリア・アンナ(1738年 – 1789年)

弟のヨーゼフより頭が良いと言われ非常に知性的な女性だったが、背中や四肢骨の湾曲、変形がおこる病のため、政略結婚できず独身。また学究能力が当時の女性に求められる資質ではなかったので家族の中で冷遇されたそう。

しかし父フランツはマリア・アンナを愛し、自然科学分野のコレクション、古銭学の研究などの趣味を一緒にしたということ。そして父フランツ亡き後、マリア・アンナはコレクションと研究を受け継いで発展させてウィーン科学博物館の礎に。その後は弟ヨーゼフの愛するマリア・イザベラ妃をライバル視してつらく当たったせいで、ヨーゼフに憎まれ、母マリア・テレジアの死後、宮廷を追放されてクラーゲンフルトに隠棲。自分を受け入れてくれたエリーザベト修道院で慈善活動を行い、民衆に惜しまれて亡くなったそう。

4-3、長男ヨーゼフ2世(1741年 – 1790年)

4番目にやっと生まれた長男で跡継ぎとして可愛がられ、1760年、同い年のパルマ公フィリッポの娘マリア・イザベラと結婚、優美な彼女を熱愛したが、1763年に天然痘にかかって第2子を早産(生後2時間で死亡)した末に早世。

傷心のヨーゼフは、マリア・イザベラの妹マリーア・ルイーザとの結婚を希望したが、すでにスペイン王太子と婚約していたため、1765年に又従妹のバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトの娘マリア・ヨーゼファと再婚。しかしマリア・テレジアも後ずさりしてハグするのに勇気がいったという人で、ヨーゼフはヨーゼファを冷遇、そして1767年にヨーゼファが天然痘で亡くなった後は再婚もせず独身。

ヨーゼフは、父フランツ死後、皇帝の座に就いて母マリア・テレジアと共同統治を行ったが、母の嫌いなフリードリッヒ大王に心酔したりと母とは合わず。母の死後行った改革は急進的過ぎて成果を挙げなかったが、啓蒙専制君主の代表的人物として、政策と思想はヨーゼフ主義と呼ばれ「皇帝革命家」「民衆王」などと呼ばれたということ。

4-4、4女マリア・クリスティーナ(1742年 – 1798年)

 愛称はミミ、誕生日が母マリア・テレジアと同じであったために一番のお気に入り。そのため兄のヨーゼフや他の兄弟が嫉妬したそう。マリア・クリスティーナは、貴重な資料である家族の様子を描いた水彩画を多数残しているということで、姉妹の中でただ1人、ザクセン王家の傍系公子アルベルト恋愛結婚。父のフランツは反対したが、父の急逝後に母が許したということ。

マリア・クリスティーナ夫妻には、テシェン女公、ネーデルラント総督が与えられ、その後アルベルトはハンガリー総督に抜擢。この夫妻には子供がなく(1人夭折)、政治的な影響や成果はなかったものの、教養高かったアルベルトの芸術品コレクションは、アルベルティーナ美術館に残されているということ。

4-5、5女マリア・エリーザベト(1743年 – 1808年)

マリア・エリーザベトは大変な美人でド・リューネ公と浮名を流したりしたが24歳の時、男やもめのフランス王ルイ15世の再婚相手と決まりかけたときに天然痘にかかって顔に跡が残ったため、その後はスペイン王やポーランド王の後妻とか、色々な縁談があってもまとまらず、とうとう自分から結婚しないことを宣言。

その後は姉のマリア・クリスティーネがいるプラハの女学校に行き、インスブルック修道院長に。

4-6、次男カール・ヨーゼフ(1745年 – 1761年)

内気な兄ヨーゼフとは反対に社交的で明るい性格、魅力的な容姿と知性で両親から溺愛されたが、兄ヨーゼフが嫉妬して不仲に。父フランツ皇帝のトスカーナ大公国継承が決まっていたが、天然痘にかかり16歳の誕生日直前に死去。

4-7、6女マリア・アマーリア(1746年 – 1804年)

ドイツの小国プファルツ・ツヴァイブリュッケンの公子カールと相思相愛になったが、宰相カウニッツの反対で結婚できず、長兄ヨーゼフの最初の妻の弟のパルマ公フェルディナンドと結婚。

8歳下の夫は教会の鐘を衝くことと栗を焼くのが趣味の人で、マリア・アマーリアは、浪費したり愛人を作るなどご乱行に走ることに(それでも7人の子供が誕生)。マリア・アマーリアは母におしゃべりをつつしめとか、どんなことがあっても政治に口を出すなと言われたのに、無能な夫の代わりに国政を動かしてパルマ公国を混乱させたということで、夫の死去後、侵攻したナポレオンにパルマから追い出され、甥の神聖ローマ皇帝フランツ2世の庇護のもとに、次女と3女を連れてプラハ城に移り住み、1804年に死去。

4-8、3男レオポルト2世(1747年 – 1792年)

レオポルトは父を継承してトスカーナ大公となり、この国の文化、経済の発展に貢献、ヨーロッパの国初、死刑そのものを完全に廃止し、種痘を制度化したりという啓蒙的改革を実行。長兄ヨーゼフ2世の死去後、神聖ローマ皇帝となったが、在位2年で死去。スペイン王カルロス3世の王女マリア・ルドヴィカとの間に、両親と同じく16人の子供をもうけたということ。

4-9、9女マリア・ヨーゼファ(1751年 – 1767年)

「女帝マリア・テレジア」によると、マリア・ヨーゼファはナポリ王フェルディナント4世との結婚前に、カプツィーナ霊廟で地下の父フランツの墓にお別れのお参りをするよう母マリア・テレジアに命令され、扉の前で泣いて嫌がったが、母は頑として許さず。そこには数カ月前に天然痘で亡くなった兄ヨーゼフの2度目の妃の棺が置かれていたため、マリア・ヨーゼファは2日後に天然痘に感染して16歳で死去。

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かわいそうに、この一家では、天然痘が流行していたのかね

4-10、10女マリア・カロリーナ(1752年 – 1815年)

すぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌年、急遽代わりとなってマリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことに。突然の結婚に、ルームメイトで仲のよかった妹マリア・アントーニアはとても悲しんだそう。

ナポリでは結婚時の約束で王子を産めば妃は摂政になれるとあったため、長男の誕生後、狩りや社交にしか興味を持たないフェルディナンドに代わってマリア・カロリーナが実権を握り、スペインの政治的干渉からナポリ王国を解放したり、士官学校を作り、軍隊の再編をするなど母マリア・テレジア並みに有能な手腕を発揮、18人もの子供を出産したということ。

4-11、4男フェルディナント・カール・アントン(1754年 – 1806年)

美男だったというフェルディナンドは、モデナ公の相続人となり、1771年10月にミラノでモデナ公エルコレ3世デステの娘マリーア・ベアトリーチェと結婚、5男5女をもうけ、この家系はオーストリア=エステ家に。

1780年、フェルディナントは兄ヨーゼフ2世にロンバルディアの総督に任命されてミラノに住んだが、ナポレオンのイタリア侵攻のためモデナ公には即位できず、1806年12月にウィーンで死去。

4-12、11女マリア・アントーニア(1755年 – 1793年)

よちよち歩きの頃から後のルイ16世との縁談があり、15歳のときにフランスのルイ15世の孫で後のルイ16世と政略結婚し、フランスではマリー・アントワネットで有名に。夫のルイ16世が簡単な手術を嫌がったためなかなか子供が出来ず、アントワネットは浪費やギャンブル、パリでの観劇など派手な生活にふけったため心配した母マリア・テレジアは、長兄のヨーゼフを派遣。義弟のルイ16世を説得して手術を受けさせた後、2男3女(成長したのは長女だけ)が誕生。

マリア・テレジアはアントワネットを可愛がっていたため、亡くなるまで膨大な手紙のやりとりをして心配し続けたが、フランス革命で断頭台の露と消えることに。

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マリー・アントワネットは11女なのか、すごいな

4-13、5男マクシミリアン・フランツ(1756年 – 1801年)

「ふとっちょのマクシィ」というあだ名だったマクシミリアンは聖職者の道を用意されて、1780年、叔父カール・アレクサンダーの後継者としてドイツ騎士団総長、1784年にはケルン大司教に就任。また選帝権を行使した最後のケルン大司教ということで、作曲家ベートーヴェンのパトロンにもなったそう。

ハプスブルク家の歴史でも存在感を放つ、偉大な母にして女帝だった

マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生し、親の決めた婚約者だが、初恋の人フランツと幸せな結婚をして16人の子供に恵まれることに。

そして父皇帝が女性もハプスブルク家を継承できるように国事詔書を発布していたおかげで皇帝の継承者となり、オーストリア継承戦争や七年戦争を戦い抜き、ポンパドゥール夫人やエリザヴェータ女帝と3枚のペチコート作戦でプロイセンのフリードリッヒ大王を包囲、子供たちを次々と政略結婚させて外交地盤を固めと、かなりのやり手として40年、実質上の女帝、大帝としてハプスブルグ家の歴史に名前をしっかりと残しました。

しかし子供たちにはあまりしっかり教育をしなかったせいか、晩年は政略結婚先で問題を起こす娘たちを心配しながら亡くなったということ。それにしても国家を動かして戦争もしつつ、16人も生んで63歳まで現役だったなんて健康に恵まれたんでしょうね。

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