今回は「清教徒革命(ピューリタン革命)」についてです。

これは17世紀のイギリス(厳密にはイングランドですがここではイギリスで統一するぞ)で起こった市民革命です。当時の国王チャールズ1世は専制政治を行って長らく議会を開いてなかったんです。ところが1640年にスコットランドの反乱が原因で議会を開くことに。ですが当然のごとく、国王と議会は対立して内乱へと繋がることになったんです。

それじゃあヨーロッパの歴史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパの歴史が好きなアラサー歴女。特にイギリスやオーストリア、フランスの王家に関する書籍を愛読中。今回は17世紀のイングランドで起こったピューリタン革命(清教徒革命)について解説していく。

1 チャールズ1世

image by iStockphoto

17世紀のイギリスにおいて起こったピューリタン革命。これによって当時の国王、チャールズ1世は処刑されることになりました。この章ではそんなチャールズ1世の人物像について見ていきましょう。

1-1 期待されていなかったチャールズ

チャールズ1世が生まれたのは、スコットランドのダンファームリン。チャールズには6歳上の優秀な兄ヘンリー・フレデリックがいました。幼い頃のチャールズは誰からも期待されない幼少期を過ごすことに。彼は小柄吃音があり、小児麻痺の影響からか足が少々不自由でした。しかしチャールズに転機が。なんと優秀だった兄が急死。そのため、父ジェームズ1世はチャールズに帝王教育を施すことに。

1-2 妃はフランス王女

こうして時期国王となることになったチャールズ。そんな若いチャールズにはプリンセスが必要ということで、花嫁探しが始まりました。かつて大国スペインをアマルダの海戦で破ったエリザベス1世の時代とは様子が政治情勢が異なることに。イギリスはかつてスペインに対して敵対的な関係であり、代わりにスペインと対立していたオランダを支援していました。しかし17世紀になると、輸出業でオランダと競うことになることに。こうしてかつての友好国はライバル国となり、かつての敵国(スペインやフランス)とは関係が改善されていくことに。まずスペインに打診しますが、失敗。次にフランスと交渉しアンリ4世マリー・ド・メディシスの末娘ヘンリエッタとの婚姻が決定することに。

1-3 プロテスタントとカトリックの結婚

しかしイギリスはプロテスタント国。片やフランスはカトリック国として知られています。一体なぜこの両者の結婚が決まったのでしょうか。

それはヘンリエッタのもたらす潤沢な持参金。財政的には彼女を王妃とするのはとても魅力的でした。余談ですが、これまでもプロテスタントとカトリックの結婚があった(アンリ4世と彼の前妻マルグリット)ため、絶対にありえない結婚というわけではなかったのかもしれませんね。ちなみに2人の結婚についてヘンリエッタは彼女の信仰を阻害されないため、宮殿に礼拝堂を建てさせてそこでミサを行うことを要求していました。こうして莫大な持参金を手にすることができましたが、カトリックのヘンリエッタを王妃として迎えたことはチャールズの人気に影を落とすことに。

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1-4 憎まれ王妃ヘンリエッタ

Henrietta Maria and Charles I.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク - Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

1625年、突然ジェームズ1世が亡くなったことで、同年にチャールズが1世として即位。そのわずか数か月後に2人は結婚することに。チャールズ25歳、ヘンリエッタ15歳でした。

気の強い性格だったヘンリエッタは、イギリスを再びカトリック国とすることを目論むことに。しかしこれは周囲の人々から反発されることに。彼女はフランスという一流の国からわざわざイギリスへ嫁いできたと言わんばかりにいつまでも英語を覚えようとしなかったそう。宗教の違う国のプリンセスが嫁ぐというのは大変ですね。ちなみに意外なことに、チャールズとヘンリエッタの夫婦仲はとてもよく9人の子どもにも恵まれたそう。

2 チャールズ1世の専制政治

幼少期は優秀な兄がいたため、誰からも期待されることのなかったチャールズ。ところがその兄が急死したことで、王太子となることに。父王の死によって即位することになったチャールズでしたが、一体どんな政治を行ったのでしょうか。見ていきましょう。

2-1 芸術保護を行った国王

Triple portrait of Charles I.jpg
アンソニー・ヴァン・ダイク - Royal Collection, パブリック・ドメイン, リンクによる

チャールズ1世といえば、芸術保護を行った国王として知られています。彼は、ルーベンスベルニーニに作品を依頼。またフランドル出身の画家、ヴァン・ダイクを宮廷画家としてイギリスへ招きました。ちなみにヘンリエッタも美意識が高く、イギリスの宮廷をフランス風に優雅なスタイルへ変化させたそう。

画像は、宮廷画家ヴァン・ダイクの「チャールズ一世三面像」。これは胸像を作るベルニーニのために描いた下絵だそう。しかしチャールズの服の光沢、襟のレースの繊細さからかなり力を入れて描かれたことがこの出来栄えから伝わってきますね。絵画の中のチャールズはトレードマークの特徴的な髭(ヴァン・ダイク髭として知られていますね)、耳には当時流行した大粒の真珠のピアスがつけられていますね。

2-2 専制君主だったチャールズ

ヴァン・ダイクの描くチャールズ1世のまなざしはどこか優し気な印象を与えますね。ところが実際の彼は、議会に対しては高圧的な態度で臨みました。これは父ジェームズ1世からの帝王教育により、王権は神から授かったものだという信念を持っていたため。

1628年に1度議会を開いたチャールズでしたが、議会から権力乱用を指摘され、それに怒って議会を解散。更に指導者は逮捕される事態に。この時議会は権利の請願を可決。これは国王が勝手に課税したり人々を拘束してはならないというもの。ちなみにかつてイギリスを繁栄に導いたエリザベス女王は大事な法案については必ず議会を通していたそう。父ジェームズ1世の場合は22年間の治世でわずか4回しか開きませんでした。チャールズ1世の場合はその後長らく開きませんでした。

2-3 スコットランドの反乱

1628年に権利の請願が可決されたことで、勝手に課税することができなくなったチャールズ1世。しかし彼は議会からの承認を得なくて済むところからお金の工面をすることに。こうして11年間もの間議会を開くことはありませんでした。しかし教会税の増収を狙ってスコットランドに国教会を強制させようとしたことで、スコットランドでは反乱が起きることに。鎮圧を試みますが資金が足りなかったため、しぶしぶ議会を開くことに。

1640年に開かれた議会でしたが、すぐに議会側とチャールズは対立。こうして再び解散されることに(短期議会と呼ばれる)。その後スコットランドとの戦いに敗れ、賠償金を支払うことになったチャールズは資金繰りに困り、再び議会を開かざるを得なくなりました(長期議会)。しかし両者の対立の溝は深まり、ピューリタン革命へ繋がりました。

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2-4 ピューリタンとは?

そもそもピューリタンとはどういう意味でしょうか。これはプロテスタントの中のカルヴァン派のことを指しています。イギリスはヘンリー8世の治世でカトリック国からプロテスタント国(イギリス国教会)となることに。ピューリタンらは国教会の在り方に対し批判的で、カトリック色を取り除くこと(純粋化)を要求したため、ピューリタンと呼ばれるように。ちなみにフランスでのカルヴァン派はユグノーと呼ばれていますね

2-5 ピューリタン革命勃発!

After the Battle of Naseby in 1645.jpg
Sir John Gilbert - bridgemanartondemand.com, パブリック・ドメイン, リンクによる

1642年、チャールズと対立する議員らを逮捕しようと、チャールズは議会に乗り込むことに。ところがこれが失敗に終わりました。このためチャールズはイングランド北部に逃げ、戦う準備を始めることに。こうしてノッティンガムで挙兵。内乱が起こりました。ちなみにこの時チャールズに味方する王党派議会派に分かれて戦うことに。当初は王党派が優勢でしたが、クロムウェルの指導のもと鉄騎隊が組織され、1644年のマーストン₌ムーアの戦いで活躍することに。更に1645年のネーズビーの戦いで議会派が勝利。翌年には、王党派の拠点となっていたオックスフォードが陥落しました。

2-6 専制政治を支えた人物たちの処刑

チャールズ1世が専制政治をした際に、これを側近と共に支えた人物が2人いました。1人はロンドン主教やカンタベリ大主教を歴任したロードアイルランド総督を務めた経験のあるストラフォード伯。ストラフォード伯はピューリタン革命が起こる前(1641年)に処刑され、後にロードも処刑される(1645年)ことに。1647年にはチャールズの処遇をどうするのか議論されますが、議会内で対立が起こることに。48年になると、クロムウェルが議会から長老派を追放。こうしてチャールズ1世は裁判にかけられることに。

3 国王チャールズ1世の処刑

ピューリタン革命が起こり、数年にわたって起こった内乱。当初は王党派が優勢でしたが、クロムウェルが率いる鉄騎隊の活躍によって議会派が勝利することに。こうしてチャールズ1世は捕らえられ、裁判にかけられることに。その後のイギリスがどんな道を辿ったのか詳しく見ていきましょう。

3-1 家族だけ逃がした王

ピューリタン革命によって捕らえられたチャールズ1世でしたが、なんとか妻子だけは亡命させることができました。ヘンリエッタとチャールズ2世は共に亡命し、ジェームズ2世はイングランドで幽閉されていましたが、支援者の手により女装して脱出し亡命に成功しました

ちなみにフランス革命によって処刑されたルイ16世がチャールズ1世に関する英国史を繰り返し読んでいたそう。ルイ16世にとってチャールズ1世は異国の国王ですが、自分と共通するものを感じ取っていたのかもしれませんね。異国の王女を娶った(チャールズはフランス王女ヘンリエッタを、ルイはオーストリアのマリー・アントワネットを)ことで、前者は宗教問題を起こし後者は贅沢三昧をしたことで民衆から反感や非難されることに。また当時の社会情勢を上手く読み切ることができず、処刑されることになった2人の国王。しかしチャールズは妻子を亡命させることに成功し、後に息子が王位についたことでステュアート家が王政復古することに。一方ルイ16世は妻子を逃がすことができず、妻と息子も死なせることに。後にブルボン朝は王政復古を果たしますが、彼の弟が即位することになったのでした。

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3-2 市民革命によって倒された国王

1649年の1月に裁判が開かれ、チャールズは数々の罪状(暴君、殺人者、反逆者など)により、処刑されることに。国王の処刑という前代未聞の出来事に民衆は処刑場へ詰めかけることに。処刑はホワイトホール宮殿のバンケティングハウス前で行われました。しかしいざチャールズの死に直面すると、人々は恐怖に駆られることに。それは当時は識字率がとても低く、民衆は神同然に国王を思っていたため。したがって彼の首が落とされた時、布などで彼の血液をぬぐってそれを聖遺物として扱った人が大勢いたそう。

3-3 クロムウェルの独裁

Oliver Cromwell by Samuel Cooper.jpg
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チャールズ1世の処刑後には君主制と貴族院の廃止が決定し、これによってイギリスは共和政の時代を迎えました。クロムウェルは国内政治では水平派を弾圧することに。また対外的には王党派の拠点とみなされたアイルランドやスコットランドは征服される事態になりました。特にアイルランドでは大規模な土地の没収が行われたため、事実上の植民地化されることに。ヨーロッパ大陸に対しては、ユグノー教徒をはじめ、プロテスタントを支援。しかし通商上で競い合っていたオランダについては対抗しました。1651年にイギリスは航海法を制定。これはイギリスと植民地の輸入品をイギリスの船もしくは植民地の船で輸送するというもの。つまり当事者で運ぶということにしたんですね。これによって中継貿易で栄えたオランダは打撃を受けることに。これによって英蘭戦争が起きました。

3-4 クロムウェルの死後

1653年になると、クロムウェルは護国卿に就くことに。そして厳格な軍事独裁体制が取られるようになりました。この体制に対して人々は不満を抱えることに。しかしわずか7年後にクロムウェルはインフルエンザによって死去。この後を彼の息子、リチャード・クロムウェルが就きましたが、国内を上手く束ねることができず、1660年に王政復古となりました。

王権神授説を信じた王が市民革命によって倒された

王権神授説を信じて22年間の治世の間にわずか4回しか議会を開かなかった父王。その後を次男だったチャールズ1世が即位し、イングランドに君臨することに。彼もまた専制政治を行い、これを咎めた議会を解散し、長い間開くことはありませんでした。

1640年に起こったスコットランドの反乱によって戦費の調達のためにチャールズは議会を開きますが、議会側と対立し、わずか3週間で解散。その後はスコットランドとの戦いに敗れ、賠償金の支払いのために再び開くことに。こうしてチャールズ1世と議会側の溝は深まっていき、ついにピューリタン革命へ突入することに。当初は王党派が優勢でしたが、クロムウェルの鉄騎隊の活躍により、議会派に勝利。こうしてチャールズは捕らえられ、処刑されることに。しかし彼は妻子を亡命させることに成功したため、クロムウェルの死後、息子のチャールズ2世が王政復古を果たすことになりました。

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17世紀のイングランドで起こった「清教徒革命(ピューリタン革命)」を歴女が5分でわかりやすく解説

今回は「清教徒革命(ピューリタン革命)」についてです。

これは17世紀のイギリス(厳密にはイングランドですがここではイギリスで統一するぞ)で起こった市民革命です。当時の国王チャールズ1世は専制政治を行って長らく議会を開いてなかったんです。ところが1640年にスコットランドの反乱が原因で議会を開くことに。ですが当然のごとく、国王と議会は対立して内乱へと繋がることになったんです。

それじゃあヨーロッパの歴史に詳しい歴女のまぁこと一緒に解説していきます。

ライター/まぁこ

ヨーロッパの歴史が好きなアラサー歴女。特にイギリスやオーストリア、フランスの王家に関する書籍を愛読中。今回は17世紀のイングランドで起こったピューリタン革命(清教徒革命)について解説していく。

1 チャールズ1世

image by iStockphoto

17世紀のイギリスにおいて起こったピューリタン革命。これによって当時の国王、チャールズ1世は処刑されることになりました。この章ではそんなチャールズ1世の人物像について見ていきましょう。

1-1 期待されていなかったチャールズ

チャールズ1世が生まれたのは、スコットランドのダンファームリン。チャールズには6歳上の優秀な兄ヘンリー・フレデリックがいました。幼い頃のチャールズは誰からも期待されない幼少期を過ごすことに。彼は小柄吃音があり、小児麻痺の影響からか足が少々不自由でした。しかしチャールズに転機が。なんと優秀だった兄が急死。そのため、父ジェームズ1世はチャールズに帝王教育を施すことに。

1-2 妃はフランス王女

こうして時期国王となることになったチャールズ。そんな若いチャールズにはプリンセスが必要ということで、花嫁探しが始まりました。かつて大国スペインをアマルダの海戦で破ったエリザベス1世の時代とは様子が政治情勢が異なることに。イギリスはかつてスペインに対して敵対的な関係であり、代わりにスペインと対立していたオランダを支援していました。しかし17世紀になると、輸出業でオランダと競うことになることに。こうしてかつての友好国はライバル国となり、かつての敵国(スペインやフランス)とは関係が改善されていくことに。まずスペインに打診しますが、失敗。次にフランスと交渉しアンリ4世マリー・ド・メディシスの末娘ヘンリエッタとの婚姻が決定することに。

1-3 プロテスタントとカトリックの結婚

しかしイギリスはプロテスタント国。片やフランスはカトリック国として知られています。一体なぜこの両者の結婚が決まったのでしょうか。

それはヘンリエッタのもたらす潤沢な持参金。財政的には彼女を王妃とするのはとても魅力的でした。余談ですが、これまでもプロテスタントとカトリックの結婚があった(アンリ4世と彼の前妻マルグリット)ため、絶対にありえない結婚というわけではなかったのかもしれませんね。ちなみに2人の結婚についてヘンリエッタは彼女の信仰を阻害されないため、宮殿に礼拝堂を建てさせてそこでミサを行うことを要求していました。こうして莫大な持参金を手にすることができましたが、カトリックのヘンリエッタを王妃として迎えたことはチャールズの人気に影を落とすことに。

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