日本史明治歴史

日本のジャーナリスト「福地源一郎」評論家の先駆けを歴女がわかりやすく解説

3-5、東京府会議長に就任

源一郎は、東京日日新聞の社長をしながら、明治11年(1878年)に渋沢栄一らと、東京商法会議所を設立。また下谷区から東京府会議員に当選し、議長に。そして明治14年(1881年)、当時、憲法制定に先駆けていろいろな案としての私擬憲法の「国憲意見」を起草し、軍人勅諭の制定にも関与。

またこの年、東京日日新聞は1万2千部を発行、下谷茅町の源一郎宅は池端御殿と称されて招待客でにぎわっていたということ。そして明治15年(1882年)、自由党、立憲改進党に対抗する政府与党と称して、丸山作楽や水野寅次郎らと立憲帝政党を結成、天皇主権、欽定憲法の施行、制限選挙等を選挙公約に掲げて士族や商人らに支持されたが、藩閥官僚政府が政党の影響をうけずに政治を運用するために、超然主義をとったため、政党は存在意義を失って翌年に解党に。

また明治21年(1888年)には官報発行などで、政府寄りの東京日日新聞は経営不振となり日報社を退社することに。

3-6、晩年は劇作家、小説家、評論家としてメディアで活躍

源一郎は、ヨーロッパやアメリカへ何度も行き、西欧の演劇にも関心を持っていたが、その後歌舞伎界の9代目市川團十郎と親しくなり、守田勘彌、中村宗十郎などと新しい演劇に取り組み、明治12年(1879年)にはエドワード・ブリュワー=リットンの「マネー」を「人間万事金世中」とするなど、イギリス、フランスの戯曲や小説を翻案し、歌舞伎狂言作家の河竹黙阿弥や落語家の三遊亭圓朝に提供。

また、演劇改良論を執筆、明治19年(1886年)の演劇改良会の発起人に加わったり、演劇改良運動、歌舞伎座などの劇場の開設に関わることに。そして歌舞伎座の開場後は座付き作家として代表作の「春日局』「大森彦七」「侠客春雨傘」「鏡獅子」などを多数執筆、市川團十郎らが演じたということ。

明治20年(1887年)以後は政治小説、諷刺小説、ロマンス小説、歴史小説などを執筆するようになり、明治20年(1887年)に翻訳したベンジャミン・ディズレーリ著の「カニングスビー」は、北村透谷ら当時の青少年たちに受けたそう。また徳富蘇峰の「國民之友」誌に幕末の回顧録を連載、「幕府衰亡論」などにまとめられたということ。

その後も明治24年(1891年)、条野採菊の「やまと新聞(現東京スポーツ新聞の前身ともいえる)」に小説を連載したのをきっかけに、社長の松下軍治に請われて顧問格になり、多くの論説、小説を同紙に発表して評論活動を続けたということ。

そして明治36年(1903年)市川團十郎の死去後、舞台から手を引き、翌年、第9回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補、最下位当選したものの、かつての社会的影響力は失われていたということで、明治39年(1906年)、議員在職中に66歳で死去。

4-1、源一郎の逸話

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published by 東京合資會社冨山房 (The Fuzanbo Publishing Co. Tokyo,Japan) – The Japanese book “帝國画報” (The Imperial Pictorial)vol.2, パブリック・ドメイン, リンクによる

マルチタレント的で遊び好きだった源一郎にはいろいろな逸話があるのでご紹介しますね。

4-2、明治半ば、日本十傑に選ばれる

明治18年(1885年)に、現在の東京新聞である今日新聞が投票を行って10の分野を代表する代表的な日本人の2位に選出。

1位は著述家部門で福澤諭吉1124票、2位は新聞記者部門で福地源一郎1089票、3位は政治家部門で伊藤博文927票、4位は法律家部門で鳩山和夫618票、5位は商法家部門で渋沢栄一596票、6位は学術部門で中村正直592票、7位は医学部門で佐藤進565票、8位は教法家部門で北畠道竜486票、9位は美術部門で守住貴魚459票、10位は軍師部門で榎本武揚425票というラインナップ。

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えっ、伊藤博文を抜いて2位ってすごくないか、影響力あったんだな。

4-3、蓄音機に日本人初の肉声を残す

エジソンが蓄音機を発明したのが明治10年(1877年)12月で、日本では明治12年(1879年)3月、東京商法会議所(現商工会議所)で実験が行われ、その場に立ち会い日本人としての最初の肉声を吹き込んだのが、当時東京日日新聞社長だった源一郎だそう。「こんな時代になると、新聞は困る」と言ったということだが、録音は残っていないということ。

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