
3-1、維新直後、新聞を創刊したりと活動
源一郎は、江戸開城後の慶応4年(1868年)閏4月、江戸で「江湖新聞」を創刊。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わって薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく批判したため新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、源一郎は逮捕され断罪の可能性もあったそう。
しかし新政府に出仕していた知人の旧幕臣杉浦譲が木戸孝允に取り成してくれたため、無罪放免になり木戸とのコネが出来たとか、源一郎が書いた陳情書が名文だったために新政府を動かしたという話も。そしてこれは明治時代初の言論弾圧事件で、太政官布告による新聞取締りの契機になったということ。
その後、源一郎は新政府からの出資の要請を病気と言って断り、徳川宗家の静岡移住に従って静岡に移ったが、静岡で罪人扱いされたため、同年末には東京に戻って士籍を返上して平民に。浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立て、仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流。また下谷二長町で、私塾日新舎(後に共慣義塾に改名)を開いて英語とフランス語を教えたそう。
源一郎の塾は、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで「東京の三大学塾」と称せられ、門人には中江兆民もいたが、源一郎の気持ちは晴れず塾は中江に任せて吉原通いを始めたため、塾は成り立たずに。
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3-2、源一郎、大蔵省に入り、アメリカやヨーロッパを訪問
明治3年(1870年)、源一郎は吉原で出会ったという渋沢栄一の紹介で、当時は工部省の長の工部卿だった伊藤博文と出会い、意気投合して大蔵省に入り、伊藤とともにアメリカへ渡航、貨幣制度の視察や会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ、明治6年(1873年)に一行と別れてトルコを視察して帰国。
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3-3、源一郎、東京日日新聞に入社
東京日日新聞; 温克堂竜吟/記、 恵斎芳幾(歌川 芳幾, 1833-1904)/画。 – http://www.lib.iii.u-tokyo.ac.jp/ono_collection/contents/item.6.N065.html, パブリック・ドメイン, リンクによる
明治7年(1874年)で帰国後、渋沢栄一が大蔵省を去っていたこともあって大蔵省を辞職し、「東京日日新聞」を発行する日報社に主筆として入社。周囲の反対には「俺が新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵を切ったそう。
この頃は自由民権論が盛り上がっていたが、源一郎はそれに対抗して穏健的に漸進主義を主張したため、御用記者と非難されたということ。まだ政府には官報がなかったため、源一郎は「東京日日新聞」を政府の機関紙にしたい願望もあったようで、社説には大蔵省時代の人脈から伊藤博文や大隈重信に取材して執筆して話題となり、また紙面を改良したことで発行部数は増大に。
この頃、Societyを社会、bankを銀行という翻訳語を最初に使用したのは源一郎だそう。そして明治8年(1875年)に新聞紙条例と讒謗律(ざんぼうりつ現行刑法の名誉毀損(きそん)罪の原型の法律だが明治13年(1880年)廃止)が発布された際、適用について各新聞社が共同で政府へ提出した書類について源一郎が起案。同年、地方官会議で議長の木戸孝允の書記官に。
3-4、西南戦争で従軍記者に
明治10年(1877年)に西南戦争が勃発、源一郎は自ら九州の戦地に出向、開戦時には長崎から電報で「只今戦争始まり候」と発信。また政府軍の総指揮を務めた山縣有朋の書記役とともに、田原坂の戦いなどには従軍記者として現地からの戦争報道を行い、ジャーナリストとして名を上げることに。そして東京への帰途、木戸孝允の依頼で、京都で明治天皇の御前で戦況を奏上したそう。
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