今回は福地源一郎を取り上げるぞ。明治時代のジャーナリストか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治の歴史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末から明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福地源一郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福地源一郎は長崎の生まれ

福地源一郎(ふくち げんいちろう)は、天保12年(1841年)3月、長崎の新石灰町(しんしっくいまち、現長崎市油屋町)で、医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に初めての男子として誕生。

幼名は八十吉(やそきち)、福地桜痴ともいわれるが、櫻癡(おうち、桜痴)は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路にちなんでつけた号。執筆に吾曹子(ごそうし)の名を用い、一人称として「吾曹(意味はわれわれ)」を使ったので、吾曹先生とも呼ばれたし、劇作家として影響力を持っていたため、住居のあった池之端にちなんで、池之端の御前とも。

1-2、源一郎の子供時代

image by PIXTA / 44721591

源一郎は、子供の頃から優秀で神童と呼ばれていたそうで、長川東州について漢学を、15歳になると長崎通詞名の村八右衛門のもとで蘭学を学び、1年たたずに稽古通弁(通訳の見習い)となったという語学の天才。名村は出島のオランダ商館長が幕府へ世界情勢を報告するオランダ風説書(ふうせつがき)の口授翻訳で、源一郎を筆記者に使ったということ。

このとき源一郎は、出島にいるオランダ商館長のカピタンが、なぜオランダなどの海外情報を知っているのかが疑問だったが、名村に、西洋には毎日発行されて国内外の時事を知らせる新聞という印刷物があり、カピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えていると教えられ、古いオランダの新聞を見せてもらったということ。これが源一郎が初めて手にした新聞に。

2-1、源一郎、江戸へ行き英語を習得

源一郎は安政4年(1857年)、16歳の時に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に。以後、2年間、イギリスの学問や英語を父 苟庵の旧知でペリー来航時の通訳も務めた森山栄之助に学んで、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することに。

2-2、源一郎、遣欧使節に参加、新聞、演劇などに関心を深める

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published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) - The Japanese book "幕末・明治・大正 回顧八十年史" (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

万延元年(1860年)、源一郎は御家人に取り立てられ、文久元年(1861年)、文久遣欧使節に外国奉行で組頭として参加する柴田日向守剛中に付いて通訳として同行、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与。

そして慶応元年(1865年)には再び柴田が幕府から製鉄所建設及び軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣されたときに同行、源一郎はフランス語を学び、西洋世界を視察。特にロンドンやパリで刊行されている新聞に深い関心をもって新聞社を訪ねて、新聞記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにしたということで、自分も新聞記者になって時事を論じたいと思ったということ。

また、フランスでは歌劇や演劇を見物しても、ストーリーや台詞などが理解できず、日本使節の一行は居眠りしたため、フランスの観衆の失笑を買ったそう。そこで源一郎は、話の筋を知っていれば演劇も理解できると考えて、英語とオランダ語のできる接待係に筋を教えてもらい、一行にも伝えて観劇したのがきっかけになって、シェイクスピアなどの戯曲を学ぶように。

2-3、源一郎、開国論が取り上げられず

image by PIXTA / 45551014

源一郎は慶応2年(1866年)3月に帰国、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取となり、旗本の身分に取り立てられ、将軍お目見えとして将軍の前で通訳ができる身分となったが、自身が唱えた開国論の主張が攘夷派に敵視されたそう。

慶応3年(1867年)10月の大政奉還のとき、源一郎は兵庫開港などの外交上の用で大坂にいたが、15代将軍慶喜が自ら大統領となり新政府の主導権を持つべきと言う内容の意見書を小栗上野介忠順に提出。意見の妥当性は認められが、実行には至らなかったということ。

そして江戸に帰ったのちは、主戦派として、フランスに資金を借りて援軍を要請せよとか、横浜の居留地を外国に永代売渡して軍資金を得よなどの説をとなえ、軍勢を置いて自分だけトンズラした慶喜を「卑怯者」とののしり、勝海舟や大久保一翁ら恭順派に天誅を加えろと公言したそう。

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3-1、維新直後、新聞を創刊したりと活動

源一郎は、江戸開城後の慶応4年(1868年)閏4月、江戸で「江湖新聞」を創刊。翌月、彰義隊が上野で敗れた後、同誌に「強弱論」を掲載し、「明治維新というが、ただ政権が徳川から薩長に変わって薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく批判したため新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分、源一郎は逮捕され断罪の可能性もあったそう。

しかし新政府に出仕していた知人の旧幕臣杉浦譲が木戸孝允に取り成してくれたため、無罪放免になり木戸とのコネが出来たとか、源一郎が書いた陳情書が名文だったために新政府を動かしたという話も。そしてこれは明治時代初の言論弾圧事件で、太政官布告による新聞取締りの契機になったということ。

その後、源一郎は新政府からの出資の要請を病気と言って断り、徳川宗家の静岡移住に従って静岡に移ったが、静岡で罪人扱いされたため、同年末には東京に戻って士籍を返上して平民に。浅草の裏長屋で「夢の舎主人」「遊女の家市五郎」と号して戯作、翻訳で生計を立て、仮名垣魯文、山々亭有人等とも交流。また下谷二長町で、私塾日新舎(後に共慣義塾に改名)を開いて英語とフランス語を教えたそう。

源一郎の塾は、福沢諭吉の慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで「東京の三大学塾」と称せられ、門人には中江兆民もいたが、源一郎の気持ちは晴れず塾は中江に任せて吉原通いを始めたため、塾は成り立たずに。

3-2、源一郎、大蔵省に入り、アメリカやヨーロッパを訪問

明治3年(1870年)、源一郎は吉原で出会ったという渋沢栄一の紹介で、当時は工部省の長の工部卿だった伊藤博文と出会い、意気投合して大蔵省に入り、伊藤とともにアメリカへ渡航、貨幣制度の視察や会計法などを調査して帰国。翌年、岩倉使節団の一等書記官としてアメリカ・ヨーロッパ各国を訪れ、明治6年(1873年)に一行と別れてトルコを視察して帰国。

3-3、源一郎、東京日日新聞に入社

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東京日日新聞; 温克堂竜吟/記、 恵斎芳幾(歌川 芳幾, 1833-1904)/画。 - http://www.lib.iii.u-tokyo.ac.jp/ono_collection/contents/item.6.N065.html, パブリック・ドメイン, リンクによる

明治7年(1874年)で帰国後、渋沢栄一が大蔵省を去っていたこともあって大蔵省を辞職し、「東京日日新聞」を発行する日報社に主筆として入社。周囲の反対には「俺が新聞記者になったからには、それだけのことはしてみせる」と啖呵を切ったそう。

この頃は自由民権論が盛り上がっていたが、源一郎はそれに対抗して穏健的に漸進主義を主張したため、御用記者と非難されたということ。まだ政府には官報がなかったため、源一郎は「東京日日新聞」を政府の機関紙にしたい願望もあったようで、社説には大蔵省時代の人脈から伊藤博文や大隈重信に取材して執筆して話題となり、また紙面を改良したことで発行部数は増大に。

この頃、Societyを社会、bankを銀行という翻訳語を最初に使用したのは源一郎だそう。そして明治8年(1875年)に新聞紙条例と讒謗律(ざんぼうりつ現行刑法の名誉毀損(きそん)罪の原型の法律だが明治13年(1880年)廃止)が発布された際、適用について各新聞社が共同で政府へ提出した書類について源一郎が起案。同年、地方官会議で議長の木戸孝允の書記官に。

3-4、西南戦争で従軍記者に

明治10年(1877年)に西南戦争が勃発、源一郎は自ら九州の戦地に出向、開戦時には長崎から電報で「只今戦争始まり候」と発信。また政府軍の総指揮を務めた山縣有朋の書記役とともに、田原坂の戦いなどには従軍記者として現地からの戦争報道を行い、ジャーナリストとして名を上げることに。そして東京への帰途、木戸孝允の依頼で、京都で明治天皇の御前で戦況を奏上したそう。

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3-5、東京府会議長に就任

源一郎は、東京日日新聞の社長をしながら、明治11年(1878年)に渋沢栄一らと、東京商法会議所を設立。また下谷区から東京府会議員に当選し、議長に。そして明治14年(1881年)、当時、憲法制定に先駆けていろいろな案としての私擬憲法の「国憲意見」を起草し、軍人勅諭の制定にも関与。

またこの年、東京日日新聞は1万2千部を発行、下谷茅町の源一郎宅は池端御殿と称されて招待客でにぎわっていたということ。そして明治15年(1882年)、自由党、立憲改進党に対抗する政府与党と称して、丸山作楽や水野寅次郎らと立憲帝政党を結成、天皇主権、欽定憲法の施行、制限選挙等を選挙公約に掲げて士族や商人らに支持されたが、藩閥官僚政府が政党の影響をうけずに政治を運用するために、超然主義をとったため、政党は存在意義を失って翌年に解党に。

また明治21年(1888年)には官報発行などで、政府寄りの東京日日新聞は経営不振となり日報社を退社することに。

3-6、晩年は劇作家、小説家、評論家としてメディアで活躍

源一郎は、ヨーロッパやアメリカへ何度も行き、西欧の演劇にも関心を持っていたが、その後歌舞伎界の9代目市川團十郎と親しくなり、守田勘彌、中村宗十郎などと新しい演劇に取り組み、明治12年(1879年)にはエドワード・ブリュワー=リットンの「マネー」を「人間万事金世中」とするなど、イギリス、フランスの戯曲や小説を翻案し、歌舞伎狂言作家の河竹黙阿弥や落語家の三遊亭圓朝に提供。

また、演劇改良論を執筆、明治19年(1886年)の演劇改良会の発起人に加わったり、演劇改良運動、歌舞伎座などの劇場の開設に関わることに。そして歌舞伎座の開場後は座付き作家として代表作の「春日局』「大森彦七」「侠客春雨傘」「鏡獅子」などを多数執筆、市川團十郎らが演じたということ。

明治20年(1887年)以後は政治小説、諷刺小説、ロマンス小説、歴史小説などを執筆するようになり、明治20年(1887年)に翻訳したベンジャミン・ディズレーリ著の「カニングスビー」は、北村透谷ら当時の青少年たちに受けたそう。また徳富蘇峰の「國民之友」誌に幕末の回顧録を連載、「幕府衰亡論」などにまとめられたということ。

その後も明治24年(1891年)、条野採菊の「やまと新聞(現東京スポーツ新聞の前身ともいえる)」に小説を連載したのをきっかけに、社長の松下軍治に請われて顧問格になり、多くの論説、小説を同紙に発表して評論活動を続けたということ。

そして明治36年(1903年)市川團十郎の死去後、舞台から手を引き、翌年、第9回衆議院議員総選挙に東京府東京市区から無所属で立候補、最下位当選したものの、かつての社会的影響力は失われていたということで、明治39年(1906年)、議員在職中に66歳で死去。

4-1、源一郎の逸話

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published by 東京合資會社冨山房 (The Fuzanbo Publishing Co. Tokyo,Japan) - The Japanese book "帝國画報" (The Imperial Pictorial)vol.2, パブリック・ドメイン, リンクによる

マルチタレント的で遊び好きだった源一郎にはいろいろな逸話があるのでご紹介しますね。

4-2、明治半ば、日本十傑に選ばれる

明治18年(1885年)に、現在の東京新聞である今日新聞が投票を行って10の分野を代表する代表的な日本人の2位に選出。

1位は著述家部門で福澤諭吉1124票、2位は新聞記者部門で福地源一郎1089票、3位は政治家部門で伊藤博文927票、4位は法律家部門で鳩山和夫618票、5位は商法家部門で渋沢栄一596票、6位は学術部門で中村正直592票、7位は医学部門で佐藤進565票、8位は教法家部門で北畠道竜486票、9位は美術部門で守住貴魚459票、10位は軍師部門で榎本武揚425票というラインナップ。

4-3、蓄音機に日本人初の肉声を残す

エジソンが蓄音機を発明したのが明治10年(1877年)12月で、日本では明治12年(1879年)3月、東京商法会議所(現商工会議所)で実験が行われ、その場に立ち会い日本人としての最初の肉声を吹き込んだのが、当時東京日日新聞社長だった源一郎だそう。「こんな時代になると、新聞は困る」と言ったということだが、録音は残っていないということ。

\次のページで「4-4、遊興好きだった」を解説!/

4-4、遊興好きだった

源一郎は酒は飲めないが遊び好きで有名で、渋沢栄一とも吉原で知り合ったとか、吉原大門に「春夢正濃 満街櫻花 秋信先通 両通燈影」の揮毫をしたとか、芸妓を落籍させて妾にしたが肺結核となった彼女を看病し、懐中時計の蓋を開閉する際の音が好きだということで、源一郎は寝ている彼女の枕もとで時計の開閉を続け、彼女が亡くなったときには枕元に蓋の壊れた懐中時計が、20個以上並んでいたそう。

幕末にヨーロッパなどに派遣され、明治後ジャーナリスト、評論家の先駆けに

福地源一郎は長崎の医師の家に生まれ、子供の頃から神童と言われて、蘭学ついで英語を学んですぐに会得、遣欧使節に選ばれてヨーロッパで新聞や演劇などを学んで帰国後は、明治新政府に仕えたということ。

しかし留学して得た知識で政府の高官にもなれはずが、新聞社に入社、西南戦争を取材して報道した初のジャーナリストとなり日本の活字報道の草分け的存在に。そしてまた政府で働いたかと思ったら、合間に劇作家や翻訳家、歴史小説なども書き、選挙に出て政治家になったり、今でいうマルチタレントというか評論家の先駆け的存在。

同じように洋行帰りの福沢諭吉と並んで「天下の双福」といわれたが、福沢は学校を設立したりと硬い方面で尽力、かたや源一郎は新聞記者や劇作家、作家として活躍したが、いずれも先駆者であることは間違いなく、明治日本の文化に多方面で大きな功績を残したのは間違いないでしょう。

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日本史明治歴史

日本のジャーナリスト「福地源一郎」評論家の先駆けを歴女がわかりやすく解説

今回は福地源一郎を取り上げるぞ。明治時代のジャーナリストか、どんな人だったか詳しく知りたいよな。

その辺のところを幕末、明治の歴史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。

ライター/あんじぇりか

子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末から明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福地源一郎について5分でわかるようにまとめた。

1-1、福地源一郎は長崎の生まれ

福地源一郎(ふくち げんいちろう)は、天保12年(1841年)3月、長崎の新石灰町(しんしっくいまち、現長崎市油屋町)で、医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に初めての男子として誕生。

幼名は八十吉(やそきち)、福地桜痴ともいわれるが、櫻癡(おうち、桜痴)は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路にちなんでつけた号。執筆に吾曹子(ごそうし)の名を用い、一人称として「吾曹(意味はわれわれ)」を使ったので、吾曹先生とも呼ばれたし、劇作家として影響力を持っていたため、住居のあった池之端にちなんで、池之端の御前とも。

1-2、源一郎の子供時代

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源一郎は、子供の頃から優秀で神童と呼ばれていたそうで、長川東州について漢学を、15歳になると長崎通詞名の村八右衛門のもとで蘭学を学び、1年たたずに稽古通弁(通訳の見習い)となったという語学の天才。名村は出島のオランダ商館長が幕府へ世界情勢を報告するオランダ風説書(ふうせつがき)の口授翻訳で、源一郎を筆記者に使ったということ。

このとき源一郎は、出島にいるオランダ商館長のカピタンが、なぜオランダなどの海外情報を知っているのかが疑問だったが、名村に、西洋には毎日発行されて国内外の時事を知らせる新聞という印刷物があり、カピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えていると教えられ、古いオランダの新聞を見せてもらったということ。これが源一郎が初めて手にした新聞に。

2-1、源一郎、江戸へ行き英語を習得

源一郎は安政4年(1857年)、16歳の時に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に。以後、2年間、イギリスの学問や英語を父 苟庵の旧知でペリー来航時の通訳も務めた森山栄之助に学んで、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することに。

2-2、源一郎、遣欧使節に参加、新聞、演劇などに関心を深める

Genichiro Fukuchi 2.jpg
published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる

万延元年(1860年)、源一郎は御家人に取り立てられ、文久元年(1861年)、文久遣欧使節に外国奉行で組頭として参加する柴田日向守剛中に付いて通訳として同行、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与。

そして慶応元年(1865年)には再び柴田が幕府から製鉄所建設及び軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣されたときに同行、源一郎はフランス語を学び、西洋世界を視察。特にロンドンやパリで刊行されている新聞に深い関心をもって新聞社を訪ねて、新聞記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにしたということで、自分も新聞記者になって時事を論じたいと思ったということ。

また、フランスでは歌劇や演劇を見物しても、ストーリーや台詞などが理解できず、日本使節の一行は居眠りしたため、フランスの観衆の失笑を買ったそう。そこで源一郎は、話の筋を知っていれば演劇も理解できると考えて、英語とオランダ語のできる接待係に筋を教えてもらい、一行にも伝えて観劇したのがきっかけになって、シェイクスピアなどの戯曲を学ぶように。

2-3、源一郎、開国論が取り上げられず

image by PIXTA / 45551014

源一郎は慶応2年(1866年)3月に帰国、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取となり、旗本の身分に取り立てられ、将軍お目見えとして将軍の前で通訳ができる身分となったが、自身が唱えた開国論の主張が攘夷派に敵視されたそう。

慶応3年(1867年)10月の大政奉還のとき、源一郎は兵庫開港などの外交上の用で大坂にいたが、15代将軍慶喜が自ら大統領となり新政府の主導権を持つべきと言う内容の意見書を小栗上野介忠順に提出。意見の妥当性は認められが、実行には至らなかったということ。

そして江戸に帰ったのちは、主戦派として、フランスに資金を借りて援軍を要請せよとか、横浜の居留地を外国に永代売渡して軍資金を得よなどの説をとなえ、軍勢を置いて自分だけトンズラした慶喜を「卑怯者」とののしり、勝海舟や大久保一翁ら恭順派に天誅を加えろと公言したそう。

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