
その辺のところを幕末、明治の歴史が大好きなあんじぇりかと一緒に解説していくぞ。
- 1-1、福地源一郎は長崎の生まれ
- 1-2、源一郎の子供時代
- 2-1、源一郎、江戸へ行き英語を習得
- 2-2、源一郎、遣欧使節に参加、新聞、演劇などに関心を深める
- 2-3、源一郎、開国論が取り上げられず
- 3-1、維新直後、新聞を創刊したりと活動
- 3-2、源一郎、大蔵省に入り、アメリカやヨーロッパを訪問
- 3-3、源一郎、東京日日新聞に入社
- 3-4、西南戦争で従軍記者に
- 3-5、東京府会議長に就任
- 3-6、晩年は劇作家、小説家、評論家としてメディアで活躍
- 4-1、源一郎の逸話
- 4-2、明治半ば、日本十傑に選ばれる
- 4-3、蓄音機に日本人初の肉声を残す
- 4-4、遊興好きだった
- 幕末にヨーロッパなどに派遣され、明治後ジャーナリスト、評論家の先駆けに
この記事の目次

ライター/あんじぇりか
子供の頃から歴史の本や伝記ばかり読みあさり、なかでも女性史と外国人から見た日本にことのほか興味を持っている歴女、幕末から明治時代にも興味津々。例によって昔読んだ本を引っ張り出しネット情報で補足しつつ、福地源一郎について5分でわかるようにまとめた。
1-1、福地源一郎は長崎の生まれ
福地源一郎(ふくち げんいちろう)は、天保12年(1841年)3月、長崎の新石灰町(しんしっくいまち、現長崎市油屋町)で、医師の父 苟庵(こうあん)、母 松子の間に初めての男子として誕生。
幼名は八十吉(やそきち)、福地桜痴ともいわれるが、櫻癡(おうち、桜痴)は、吉原でひいきにしていた妓女の櫻路にちなんでつけた号。執筆に吾曹子(ごそうし)の名を用い、一人称として「吾曹(意味はわれわれ)」を使ったので、吾曹先生とも呼ばれたし、劇作家として影響力を持っていたため、住居のあった池之端にちなんで、池之端の御前とも。
1-2、源一郎の子供時代

源一郎は、子供の頃から優秀で神童と呼ばれていたそうで、長川東州について漢学を、15歳になると長崎通詞名の村八右衛門のもとで蘭学を学び、1年たたずに稽古通弁(通訳の見習い)となったという語学の天才。名村は出島のオランダ商館長が幕府へ世界情勢を報告するオランダ風説書(ふうせつがき)の口授翻訳で、源一郎を筆記者に使ったということ。
このとき源一郎は、出島にいるオランダ商館長のカピタンが、なぜオランダなどの海外情報を知っているのかが疑問だったが、名村に、西洋には毎日発行されて国内外の時事を知らせる新聞という印刷物があり、カピタンはそれを読んで重要な事柄を奉行所に伝えていると教えられ、古いオランダの新聞を見せてもらったということ。これが源一郎が初めて手にした新聞に。
2-1、源一郎、江戸へ行き英語を習得
源一郎は安政4年(1857年)、16歳の時に海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に。以後、2年間、イギリスの学問や英語を父 苟庵の旧知でペリー来航時の通訳も務めた森山栄之助に学んで、外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事することに。
2-2、源一郎、遣欧使節に参加、新聞、演劇などに関心を深める
published by 東洋文化協會 (The Eastern Culture Association) – The Japanese book “幕末・明治・大正 回顧八十年史” (Memories for 80 years, Bakumatsu, Meiji, Taisho), パブリック・ドメイン, リンクによる
万延元年(1860年)、源一郎は御家人に取り立てられ、文久元年(1861年)、文久遣欧使節に外国奉行で組頭として参加する柴田日向守剛中に付いて通訳として同行、ロシア帝国との国境線確定交渉に関与。
そして慶応元年(1865年)には再び柴田が幕府から製鉄所建設及び軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣されたときに同行、源一郎はフランス語を学び、西洋世界を視察。特にロンドンやパリで刊行されている新聞に深い関心をもって新聞社を訪ねて、新聞記者が政府や議会に対して意見を述べているのを目の当たりにしたということで、自分も新聞記者になって時事を論じたいと思ったということ。
また、フランスでは歌劇や演劇を見物しても、ストーリーや台詞などが理解できず、日本使節の一行は居眠りしたため、フランスの観衆の失笑を買ったそう。そこで源一郎は、話の筋を知っていれば演劇も理解できると考えて、英語とオランダ語のできる接待係に筋を教えてもらい、一行にも伝えて観劇したのがきっかけになって、シェイクスピアなどの戯曲を学ぶように。
2-3、源一郎、開国論が取り上げられず

源一郎は慶応2年(1866年)3月に帰国、外国奉行支配調役格、通詞御用頭取となり、旗本の身分に取り立てられ、将軍お目見えとして将軍の前で通訳ができる身分となったが、自身が唱えた開国論の主張が攘夷派に敵視されたそう。
慶応3年(1867年)10月の大政奉還のとき、源一郎は兵庫開港などの外交上の用で大坂にいたが、15代将軍慶喜が自ら大統領となり新政府の主導権を持つべきと言う内容の意見書を小栗上野介忠順に提出。意見の妥当性は認められが、実行には至らなかったということ。
そして江戸に帰ったのちは、主戦派として、フランスに資金を借りて援軍を要請せよとか、横浜の居留地を外国に永代売渡して軍資金を得よなどの説をとなえ、軍勢を置いて自分だけトンズラした慶喜を「卑怯者」とののしり、勝海舟や大久保一翁ら恭順派に天誅を加えろと公言したそう。
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